田中角栄と刎頚の友とまでいわれたいわゆる政商である国際興業グループのオーナーであった小佐野賢治
1941年、太平洋戦争のはじまる年に第一自動車商会を創立するやそれから軍に食い込み、左官待遇で軍需省の民
間嘱託となった
。戦争の拡大に合わせ儲けていった。
1945年、8月の敗戦と同時に進駐軍が入ってくるや、米軍の指定商となった。軍にかわって米軍に食い込み、稼ぎまくる。
日本とアメリカの蜜月時代にピタリと歩調を合わせている。以後ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコのホテルを買収
するなどして、アメリカを背景に儲けていく。
1950年、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島に進出し、米軍基地内でバスを運行させた。
1965年、ベトナム戦争が全面拡大した。国際興業は、南ベトナム最大の米軍基地、ロンビン基地内で、米軍将兵輸
送用バスの貸付と、バスの修理事業を始めた。
幻の千円札で買った3つのホテル
千円札は昭和25年(1950年)に初めて発行されたことになっている。表には聖徳太子の肖像が刷り込まれ、裏には法
隆寺の夢殿が刷り込まれている。その千円札が日本発の千円札-と、日本人の誰もが、今はそう信じている。ところが実は
それ以前に千円札は存在したのである。その「幻の千円札」はごく一部の者たちの間で流通し、わずか半年の後に姿を消す

表には日本武尊(やまとたけるのみこと)の肖像画、左に武部神社の風景が刷り込まれている。裏には風景などの絵は無く
大きく右側に「千」、左側に「圓」と刷られている。正式名称を「日本銀行兌換券甲千円券」、通称「日本武尊千円券」と
いう。が、幻の千円札は縦が10センチ、横が17.2センチと片手で持つというよりは両手で持たねばならないような大判の
ものであった。この千円札は終戦直後の昭和20年8月17日に発行された。新円きりかえ前の昭和20年の銀行員の初
任給が80円、巡査の初任給が60円の時代である。いかに超高額紙幣であるかがわかる。昭和16年、日本銀行が大
蔵省印刷局に発注した。総印刷製造高は81億円分で、発行日は昭和17年4月16日とされたが、実際に流布したの
は昭和20年8月17日~翌21年3月2日までであった。発行日と流通を開始した時期に約3年間のブランクがあるのは
昭和17年5月1日付けで、日本銀行法が公布されたためである。この法律は札と金が交換できる兌換券の発行を禁ず
るというものである
。既に印刷済みの千円札は兌換券であるため、日銀法の公布前に発行してしまおうという手続きが踏
まれたのであった。超高額の千円札は、非常時の緊急準備として製造された。敗戦に及んで膨大に膨れ上がった臨時軍
事費の未払いや、恩給の支払いに当てられた。そのほかには使われることが無かった。
小佐野はその千円札をホテルの買収に当てたのである。
「千円札に関して、小佐野はこれらのホテル(熱海、強羅、山中湖)に払ったという以外には、なにもいってません。そのほか
にそれらは古い札でかなり汚れていたという証言があります。長い間流通していなかったように思われます。このお金がどこに
預けられていたかを明らかにし、銀行がその千円札の番号を知っていたかどうかを知るために、横浜地方検察庁渉外部の
蓑山保男が調査しようとしています。彼は政府の印刷局を調べ、また、満州の関東軍に対して千円札が発行されたかどう
を調べようともしていました。小佐野は終戦後に陸軍省あるいは参謀本部に商品を納めてこのお金を手に入れたとみられ
ています。」
結局、裁判でも千円札については米軍将校が加わっていることから不起訴となっている。そのため小佐野裁判で表面化し
なかったのである。いずれにせよ、小佐野は誰もが手にできるわけではない千円札を大量に持っていたことは事実である。
1947年、小佐野は横浜刑務所に入れられた。小佐野の塀の中の姿を当時の仲間が語る。
「小佐野は、年が若いのに頭が禿げていたので、おれたちは、彼のことをオジサン、オジサンと読んでいた。本来、学歴も無く、
教育らしい教育を受けていないのだから、いわゆる通称モタ工場といって、紙張り、袋張りの工場に回されるところだ。が、
IQテストで案外良い結果だったらしく、普通なら中学卒くらいの学歴がないと回されない印刷工場に配属された。しかし、
漢字がよくわかるわけでもないので、印刷では文選とか植字とか技術のいる仕事をさせるわけにはいかない。解版といって、
刷り終わった版をばらす仕事をやらされたり、工場の中をホウキを持って掃除したりしていた。やつの唯一の取り柄はもともと
育ちの悪い男なので物事にこだわらないことだ。刑務所の酷い食事にもあまりぐちをこぼさないでいた
。が、何気ない風で自
分がいかに金持ちかということをそれとなく人に分からせるような話をする。
田中角栄は1948年第二次吉田内閣発足で法務政務次官に就任。がその年、いわゆる炭管事件で逮捕。東京高検
に出頭。史上初の社会党内閣である片山哲内閣が、社会主義政策として石炭を国家管理下に置こうと炭鉱国家管理
法案を閣議に提出した。業者たちは黒いダイヤと呼ばれた金のタマゴを社会主義者たちに渡すまいと田中角栄に陳情した。
田中は業者から100万円を受け取った。田中土建工業専務の入内島金一を介して政界にカネをばらまかせた。それが罪
に問われたのである。ところが小菅刑務所に入っていた12月23日に衆院が解散されてしまった。田中は獄中から立候補
た。昭和24年1月13日保釈。総選挙で二位当選、昭和26年炭管事件控訴審判決で無罪となる。
【角栄伝説】
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