まず国名くらいは正式名称を記憶しておこう。
Deutsche Demokraticshe Republik(東ドイツ)
Bundesrebublik Deutschland(西ドイツ)
ソ連の苛酷な取立て
1945年7月18日から8月2日まで米英ソ首脳が会談。ポーランドの領土を暫定的に拡大。
ドイツ東部地域はソ連賠償金はソ連が半分、総額200億ドル
ソ連は既に相当量の原材料・資材・機械・設備を自分の占領地区から持ち出しており、1949年まではソ連占領区から、
53年までは東ドイツからおよそ50億マルクに相当する工業施設を正式に解体・撤去した。
この他に、ソ連は、20億マルク相当の商品、芸術品を持ち去り、捕獲した紙幣や占領軍票で支払った150億マルクの役務
を調達し、現物生産から347億マルクを取得し、賠償支払いに伴う経費として28億マルク、さらに69億を別の支払いとして
得た。この結果にもかかわらずソ連は宣伝効果を狙って1953年9月西側諸国への覚書で、ドイツを4大国への賠償支払い
および戦後債務の支払いから免除することを提案した。
フランスの横車
1945年、アメリカ・イギリスばかりでなく、スターリンの考えでもドイツが分割されずに存在を続けるべきこととされていた。
フランスのみが統合・中央集権化に反対していたことはあまり重要ではなかった。
1946年フランスはポツダムで決定された5つの中央官庁を持つ中央行政機構の設立を阻止した。これに先立ち
ドイツの西部(フランス)国境を確定し、ルールの工業を国際化するかもしくはその経済的潜在力を完全に破壊し
さらにラインラントの永続的な占領に同意することを要求した。ザールラント、独仏間の戦争のたびに帰属が争われる
国境の地域、面積2500平方キロ、人口約100万のフランスへの併合も要求した。
読んでいるだけで痛いです。
東西ドイツ再軍備
アデバウアー(西ドイツ初代首相)は1950年8月依頼西ドイツの再軍備に西側連合国の同意を得るために
懸命に努力していた。しかしポツダム協定に固執し、ドイツ政策でいつも同一歩調を取っているわけではない
西側連合諸国にドイツの武力による貢献を納得させるのは容易なことではなかった。
1.西側連合国軍隊が西ドイツに駐留する限り、東ドイツ軍隊による攻撃は予想されない。
2.西ドイツの「警察軍」を作ることは将来の内戦への準備として市民の強い反対に会うに違いない。
3.近隣諸国、特にフランスは武装化を傍観していないだろう。
などの軍備反対論調を押し切り、1952年にドイツ国防軍の計画が1953年の選挙で力強い事後承諾を得た。
温存された旧ドイツ軍部隊
西側連合国は、ドイツの完全非軍事化に関するポツダム会談の決定を実行しなかったとしばしば批判されたが
この批判は必ずしも不当なものではなかった。連合国は事実いくつかのドイツ軍部隊を解散しないでおいたのである。
海軍・戦車部隊が武装解除されて連合国軍の軍服を着けてだが、そのまま温存されていた。冷たい戦争が始まって
から西側諸国は、ソ連との間に将来生ずるかもしれない軍事的な対決に備えて、東部戦線で経験を積んだ旧ドイツ
軍部隊から「ドイツ労務部隊」を編成することに大きな関心を持っていた。こうした部隊の一つが、旧参謀本部
東部外国軍部長だったラインハルト・ゲーレン少将率いるこの組織は、西ドイツ政府の正式な情報機関・連邦情
報局に衣替えした。
ここが運命の分かれ道のような気がします。
東西冷戦の壁が国内にあり、国家が分断されたドイツが失ったものは小さくはなかったでしょうが、
Off-Shoreの壁を遠くから見つめ、そこに物資を送ることで発展した国は未だに従属国家としての
地位を抜け出すことができないでいるように思えます。
押し付けられた民主主義と自由の国で育った私としては、冷戦終結の代表的事象、東西ドイツ統一
を自らで勝ち取ったことそのものが、国土と産業競争力という犠牲を払い、物質的豊かさに変えが
たい何かを彼らが得ているように見えてなりません。
ベルリンの壁の建設
1960年秋の米大統領選挙では、J・F・ケネディが当選した。彼はソ連との対決に代わる緊張緩和の道を模索していた。
1961年6月4日から6日までウィーンでケネディ、フルシチョフ会談が開かれ、フルシチョフは厳しい要求を盛った覚書をケネディに
突きつけた。これに対してケネディは、アメリカがどうしても譲ることのできないいわゆる「3つの基本条件」を明らかにした。
1.西側連合国がベルリンに存在する権利
2.東ドイツを通過してベルリンにいたる通行の権利
3.西ベルリンの生活能力の確保
である。事態が急速に緊迫化しているのを知って、多くの東ドイツ市民が西への脱出を始め、1961年7月半ばからその数は
1日2000人から2500人を数えるほどになった。明らかにソ連と東ドイツは手を打たなければならなかった。
8月13日についに東ドイツは西ベルリンと周辺の東ベルリン、東ドイツとの境界線に鉄条網を張り、「壁」の建設にとりかかった。

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Werner Maser 小林 正文

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