容保は殿中でも無口でどういう時にも発言しなかった。このためほとんど無視され人々から注目されるようなことはなかった。ただ一度だけ容保の口から意見が出たことがある。桜田門外の変の直後、かねて水戸徳川家の京都偏向主義を憎悪していた幕閣が「これを機に尾張・紀伊の御両家の藩兵をもって水戸を討伐しよう」という案を持ったことがある。老中の久世大和守と安藤対馬守とがその急先鋒だった。容保は「水戸様を討伐するなどあってはならぬことです。」と言った。老中久世が気色ばみ、「しかし水戸中納言は御宗家をないがしろにして京都の朝廷から私に攘夷の内勅を受けられた。幕府からそれをお返し申すように命じたが、不逞の藩臣がそれを承知せぬ。承知せぬばかりか、長岡駅に屯集してえ気勢をあげております。これは公然と幕府に弓を引く態度ではありませんぬか」
「小さなことだ。ものには原則と言うものがある。水戸家は御親藩であり、これを他の御親藩をもって討たしめては御親辺相克のもととなり乱れが乱れを呼び、ついに幕府の根底が揺らぎましょう。売ってはなりませぬ。」
「御内勅を私蔵しているのはいかに」
「当然でしょう。水戸中納言家は御先祖光圀公以来、京の王室を尊崇し奉ることが御家風になっている。これも水戸家の原則であって家風である以上これを尊重せねばならぬ。幕府としてはそういう水戸家をどう包容していくかを考えるだけでよろしかろうと存ずる。」
この一言で水戸討伐の議はやんだが容保の運命は大きく変わったといっていい。
正親町三条大納言実愛は声をひそめ、天子の食事をご存じか、と言った。天使の御膳は何汁何菜ときまっている。しかし幕府から支給される賄料は銀740貫目でこれはざっと90年来かわらず、その間物価が数倍に上がっている。このため品目と数量だけはそろえ、内容は極端に粗悪になっていた。毎夕御膳にのぼる鯛は爛れたように異臭を放っている。鯛だけではない。ほとんどの食品が市井の者も食わぬ粗悪なもので食えば中毒死する恐れのあるものもあった。このため御膳方吟味役は「これはお召し上がりにならぬように」との紙の印をつけておく。帝はそれには箸をおつけにならない。
幕府が肝煎で江戸において浪士を徴募した。「攘夷先鋒」という国防的目的がその表向きの徴募理由であった。その徴集された浪士団が京の西郊壬生村に入ったがほどなく分裂し、大半は江戸に去り、十数名だけが自発的に京に残った。その首領が水戸人芹沢鴨という浪士である。芹沢は思案し「京にとどまるには衣食の道を講ぜねばならぬ。それには京都守護職の給与を受けるのが最も良い」と思いついた。
法的にいえば天皇はこの国の潜在元首である。しかし鎌倉以来、武家政権に国政のほとんどを委任しているのが日本の伝統的統治形式であり、さらに徳川家康の江戸幕府開創によって、天皇の国政上の位置は明文化され、単に公卿の統帥者にすぎない。わずかに官位を与える権限はあるが、それも極度に制限されたものである。主権者としての機能は皆無であった。それらのすべてを徳川将軍家に委任しきってしまっている。それが翕然とした法であった。この帝は性格上、無法者になることを好まれなかった。のちに維新政府の創設者の一人になる三条実美は、「お上は攘夷攘夷とおおせられておりますが、おおせられるだけでなく、それを将軍にお命じあそばさねばなりませぬ」とせまり、帝自ら大和の樫原神宮に行幸し、攘夷親征の宣言をされることであった。もはや将軍を無視し、天皇みずから日本の士民を率いて外国と開戦することを祖廟の宝前に誓うというのである。
勅使が河原町の長州藩邸へゆき、その兵を撤退せしめた。政変に敗北した長州人とその浪士団は、三条実美ら七卿を擁しつつ東山妙法院から京を落ち、長州に去った。容保はこの政変に勝った。がその勝利の実利を得ず、利は薩摩藩が得た。この夜から維新成立に至るまで京都朝廷は権謀の才にめぐまれた薩摩人たちの一手ににぎられた。容保は依然として一個の王城護衛官であり続けたにすぎなかった。ただ京都の市中におけるその警備能力はすさまじさを加えた。市中警備は新撰組が担当している。京に残留潜伏中の長州人や長州系浪士をみればこれを斬った。斬ることが彼らの法的正義であり、思想的正義であった。会津藩は朝廷と幕府から京都守護を命ぜられており、かつ、長州人は天皇の敵であったからである。
容保は晩年、無口で物静かな隠居にすぎなかったが、肌身に妙なものを身につけている。長さ20糎ばかりの細い竹筒であった。容保が死んだ時、その竹筒を開けてみた。意外にも手紙が入っていた。読むとただの手紙ではなかった。宸翰であった。一通は孝明帝が容保を信頼し、その忠誠をよろこび、無二の者に思うと意味の御私信であり、他の一通は長州とその係累の公卿を奸賊として罵倒された文章のものであった。長州閥の総帥山県有明は、その宸翰が存在する限り、維新史における長州藩の立場が後世どのように評価されるかわからない。人をやって松平子爵家に行かせ、それを買い取りたいと交渉させた。額は5万円であった。が、宸翰は手に入らなかった。松平家では婉曲に拒絶しその後銀行に預けた。竹筒1個、書類2通という品目でいまでも松平容保の怨念は東京銀行の金庫に眠っている。
日本に二つの政権ができた、といっていい。京都の天皇政権は抽象的な日本統治権とあいまいな外交権だけしかもっていないが、京都の二条城と大坂城に駐営する徳川慶喜の政権は強大な軍事力と400万石の直轄の支配権領と、300諸侯に対する伝統的な支配力をもち、しかも江戸城に次ぐ防禦力をもつ大坂城に軍事拠点を置き、旗本、会津・桑名などの旧式戦力の他に3万以上という日本最大の洋式歩兵軍を集結させていた。しかも慶喜は恭順の姿をとっている。岩倉は戦端をひらきたかった。武力によって徳川軍をつぶさぬ限り彼の構想する革命は成就しないであろう。が、慶喜が朝意に服している限りなんともできない。そこで挑発する必要があった。慶喜政権の財政基盤であるその400万石の直轄領を朝廷に返納させることであった。無理難題と言っていい。それを返納すれば旗本8万騎が飢えに死ぬ、他の大名が徳川体制のままで土地人民を支配しているのに、なぜひとり徳川家のみがそれを差し出さねばならぬのか。こういう情勢下で岩倉と大久保が立案した「小御所会議」が開かれた。御前会議である。親王・公卿の代表者の他に、諸藩主では尾張候、越前候、安芸候、土佐候、薩摩候の5人が出席した。その会議の席上、土佐候山内容堂が徳川慶喜擁護のために激論し始め、ついに「現下の情勢は2、3の公卿の陰謀である」と言い放った。
「村田先生はすでに士分の列にあられるのになぜいつも雑人のような半袴を用いておられるのです。」と聞いた。蔵六はおかしくもないといった顔つきで
「馬に乗れないからです」と答えた。「先生は剣は何流をお使いになさる」、「剣術は無修行です」、蔵六は正確に答えた。「たいへんな武士もあったものだ」と家中で物笑いにした。蔵六はその嘲笑に対して「私の兵学で士と言うのは諸藩で高禄を食む者のことではない。士の武器は刀槍ではなく重兵(兵卒)の隊であり、士の技能は何流の剣術ではなく、重兵を自在に指揮する能力である。武士、武士といって威張っている者に国家の安危は託せられない」といった。
楢崎は「前線では朝9時から午後4時まで小銃を撃ちつづけている現状だ」とまで極端な表現を使った。これが益次郎の性分には気に入らなかった。「君嘘を言っては行かぬ。小銃というものは3,4時間も連発すると手が触れられぬほど焼けてくる。水にでもつけねばそれ以上連発することはできない。それを君は9時から4時まで続け撃ちしたというが、それはうそだ。うそでないというなら、いまここで君が4,5時間連発してみるといい。それに聞けば兵一人あたりまだ弾丸が200発ずつあるというではないか。そんな隊に弾丸の支給は無論、増援もできぬ」 楢崎も、川田もひきさがらざるをえなかったが、議論に負けた怨恨だけは残った。
オランダ人らしく日本の役人の通弊についてはよく知っていて買い付け方の役人に賄賂を贈ってずいぶん高値で売るという評判も聞いていたし、それにもっと始末が悪いことには相手が無知な場合にはとんでもない旧式銃を売りつけることであった。被害は南部藩を除く東北諸藩で、多くは欧米のどの陸軍でもすでに廃銃になってしまっているゲベール銃を売りつけられた。ゲベール銃というのは発火装置が火縄のかわりに燧石になっているだけで、弾は先込めであり、銃腔内の滑腔である。その点種子島とかわりがなかった。「銃の見本を見せtもらいたい」と継之助は微笑もせずにいた。スネルはすぐ店員に命じて各種の銃を並べさせた。さすが、継之助に対してゲベール銃を見せるという愚をしなかった。まず薩長や幕府歩兵が持っているミニエー銃をみせ、「射程が長い」といった。「わかっている」と継之助はいった。スネルは米国製はシャープス銃をしきりとすすめた。銃身が短く、取り扱いが軽快でしかも精度の良い元込銃である、と。「これは安いはずだ」と継之助はいった。スネルは「いや高い、安価なものではない」というと、継之助は即座に矢立と懐紙を出し、アメリカ大陸の地図を書き、この図が何国であるか汝は知っているか、といった。「アメリカ」 スネルは継之助の気概に圧されている。「然り。我が年号で言えば文久2年からこの国で内乱(南北戦争)が起こっている。ほぼ終わりつつあるそうだ。せっかく製造した銃が過剰になっている。それが国外に流れた。世界中でだぶついてる。それでも高い。というのか。」スネルは黙った。「それに私はこのアメリカ銃を好まない。なぜなら短すぎる。かの国ではおそらく騎兵に持たせたものであろう。銃は白兵格闘の場合には槍の役目をなし、しかも槍術は古来我が国が世界一だと思っている。長い銃がいい。ミニエー銃にしよう。」

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