君主論というジャンルは確固とした伝統を持つ政治論で、君主のために有益なことを書くといっておきながら、実はその支配の秘密を民衆に暴露するのがこの作品の本音なのではないかと思わずにはいられない。フリードリヒ大王が早くからマキアヴェッリ批判に熱心だったのは君主にこうした側面があったからである。
我々は今日なお多かれ少なかれ「暗黒の中世」から「きらびやかなルネサンス」へという歴史像によってとらえられている。しかしこのような見方は今世紀に至って多くの批判を浴び、修正を余儀なくされている。今日人々は中世とルネサンスの断絶性よりもその連続性に力点をおくようになり、その結果、例えば「芸術品としての国家」、「個人の発展」、「世界と人間との発見」などという表現によってイタリア・ルネサンスを特徴付けたヤーコプ・ブルクハルトの古典的名誉も、ルネサンス論として多くの留保付でのみ受け入れられうるものとなった。
君主論かなり関係ないのだが、白人達が作り出した白人至上主義、歴史の歪曲、文明紀元説の捏造=ルネサンスは今だ健在だというのが私の理解だ。
メディチ家追放とサヴォナローラ 15世紀後半のイタリアにおける勢力均衡
中世以来、シュタウフェン朝と教皇との対立に巻き込まれ(グェルフ・ギベリン党争)、ついでアンジュー家の侵攻を受けた。「シチリアの晩鐘」(シチリア島民のアンジュー家に対する反乱)の後、幾度かの戦争を経てナポリ王国およびシチリアはイスパニアのアラゴン家一門の領するところとなった。15世紀、ナポリ王国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、教会領という5カ国がイタリア政治を支配するに至り、イタリアにおける独得な「国際関係」が成立する。1454年のローディの和約は外からの侵入が無いことを前提としたこのここ五国間の現状維持、勢力均衡を確立したものとして有名である。外からの侵攻がないということは、一方で皇帝権力が弱体化し、他方でフランス王が内政に忙殺されていたという事情に基づいている。フランスの国内事情はシャルル8世の下では大きく変化した。1494年、6万の精鋭を率いたシャルル8世はイタリアに侵入し、ロンバルディアを通ってトスカーナに入った。アラゴンと結ぶフィレンツェを侵し、ピエロは極めて容易に王に屈服した上に大幅な譲歩をした。ついで王はシエナを通りローマへ向かった。ナポリ軍はほとんど戦わずして後退し、新仏派の内乱が起こったためにナポリ王は退位し、シチリアに逃亡し、シャルルは1945年2月にナポリに入場した。シャルルの侵攻は従来のイタリアにおける統治・軍事のスタイルの破産を意味した。そしてマキアヴェッリはまさにこの衝撃を最も深刻な形で受け止め、そこから新しい政治理論を切り開いた人間であったのである。
大ロレンツォの子ピエロ、反ピエロ感情が公然化した。ピエロは外交方針を180度転換し、シャルルのもとに赴き、フランス軍にピサ、リヴォルノ等の重要拠点を委ねた。この条約はいっそうピエロの権勢の失墜を招き、ついに1494年11月ピエロは一族と共にフィレンツェを追われた。コシモの統一から60年にしてメディチ家は最初の挫折を味わうことになる。ピエロ追放後、新しい統治体制の整備のために20人の貴族からなる独裁機関が設けられるとともに、メディチ家統治の遺制である「70人評議会」、「100人評議会」が廃止された。新しい政治問題の核心は寡頭政か、民衆のより広汎な参加を認めるかにあった。このような状況の下で後者への道を決定的に押し進めたのが反メディチ派のシンボルであったサヴォナローラである。
1502年ソデリーニとマキアヴェッリは初めてボルジアに接見した。ボルジアはフィレンツェが条約を守らなかったとフィレンツェを批判し、威嚇的にののしった。これに対してフィレンツェ側は、ボルジアに好意的な政府が存在し、フィレンツェほど信義に厚い国はないと反論し、もしフィレンツェに友好的であるならば、直ちに部下ヴィテッロッツォをフィレンツェ領から退却させてその証を立てるべきであると主張した。ボルジアはヴィテッロッツォの行為はまったく自分の関与しないことであるが、フィレンツェがこのような深刻な打撃を受けているのは愉快なことであると答えた。マキアヴェッリがチューザレ・ボルジアに魅了され、やがて「君主論」の有名な記述として表れる。ボルジアに対する彼の関心は異様であり、フィレンツェ政庁内では嘲笑の的とされ、マキアヴェッリがボルジアから何か個人的利益を得ようとしているのではないかという評判が立った。当時の人々にとってチューザレ・ボルジアは父の後押しと悪辣な手段とによって急速にロマーニャを制圧し、父の死と共に一瞬にして消え失せた一人の典型的な小君主でしかなかった。
マキアヴェッリのフィレンツェ批判 資金準備についての論文の中でフィレンツェの伝統的な軍事・外交観は完膚なきまでに批判される。一国の防衛のためには「思慮」と「力」の結合が不可欠であるが、フィレンツェにはこの両者が明らかに欠けている。第一はフランスへの完全な依存であり、「支配者の間で信義を守らせるのは武器のみである」。第二に「力」の欠如の結果として自らの支配下にある人々を十分に保護することができず、したがって彼らはこの保護を可能にする支配者ならば誰でも服従することになる。
ドイツ人の生活習慣 マキアヴェッリは逆説的にドイツ人が豊かであると述べる。それというのも彼らの欲望は小さく、壮大な建物を作ったり、着飾ったり、家財道具を持ったりすることは無く、ただ十分なパンと肉、寒さを凌ぐストーヴで満足しているからである。余分なものを必要な品物で満足し、この必要な品物もイタリア人に比較してはるかに少ない。彼らは自らの生産物で生活を営み、外国から品物を購入する必要が無く、ドイツから外国に金銀が流出することもない。彼らは粗野で自由な生活を営んでおり、共同体の命令無しには戦争にも赴かない。ドイツにおいて私人は貧しいが逆に共同体そのものは豊かであり、時に戦時に備えて食糧や燃料が充分貯えられ、また労働のための原料や労働者に対する配慮も常に行われている。

マキアヴェッリと『君主論』 (講談社学術文庫 (1109))
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