Chapter6. 好景気の20年代 1920-1929
ウッドローウィルソン大統領(1913~1921)の2期目、所得税が初めて徴収され、禁酒法が成立し、戦争があった。戦後、連邦議会はアメリカが国際連盟に加盟することを拒み、ウィルソン大統領をがっかりさせた。アメリカ国民の愛国心は戦争資金の調達に結びつき成果につながったが、愛国心にも値段があったのである。
第一次世界大戦に参戦するため財務省が戦争債を発行した時、戦争債の購入は投資としても愛国心の表現としても人気があった。財務省は1917年から1919年の間に総額210億ドルの自由公債を5回に分けて募集した。財務省はこの戦争債の取引で投資銀行に付け入る隙を与えず、過剰な利益を上げさせまいと、銀行家やブローカーに売買手数料を支払わないことにした。債券は財務省によって発行され、ニューヨーク連銀に送られている。連銀はこれを他の銀行やブローカーに分配し、売却させた。この戦争債の販売では購買申込数が発行数を上回っていた。資金調達は大成功で「最高の資金調達の一つ」と自画自賛した。ある単純な理由から大手も小口も戦争債を購入した。所得税がかからなかったのである。連邦議会による課税徴収権限を強める憲法修正第16条が成立した直後の課税率は高く、徴収も厳しく、投資家達も例外ではなかった。この時期、個人投資家が金融商品の販売対象になり始めた。南北戦争が終わってから50年間、銀行家やブローカーは大口投資家を相手にしてきた。小口投資家の相手は、三流ブローカーや闇取引業者に任せていた。闇取引業者は私設賭博場のようなものを経営するブローカーで、投資額が小額であっても顧客が株式の部分ポジションを買うことを認めた。
第一次世界大戦後、金本位制の維持という大問題があった。戦争が終わるとイギリス政府は金本位制に戻ろうとした。イングランド銀行とFRBは戦後のイギリス資本市場から資本が流出していくのを守るため、ある約束事を取り決めた。ポンドの通貨価値を安定させるため、ニューヨーク市場を国際取引に開放するというものである。イングランド銀行総裁モンターギュ・ノーマンとニューヨーク連銀総裁ベンジャミン・ストロングが1920年代に作り上げた協力関係はその後、英米間の強力な金融関係を生み出すことになる。2人はロンドンの株式市場と通貨市場を海外に開放せず、投資家や法人にはニューヨーク市場を使わせることで合意した。アメリカの金利をイギリスの金利より低く抑えて、資金を必要としている企業や政府がポンドではなくドルで調達するようにした。
ピエール・デュポン
脱税は1920年代のウォールストリートに深く関わる問題である。1922年以降、アメリカでは反税運動が盛んになった。第一次世界大戦が終わり、税というものが愛国心とは無関係であることが明確になったからである。禁酒法の廃止を求める運動を指揮していたのは軍人出身のキャプテン・ウィリアム・ステイトンで、禁酒法反対協会(AAPA)を率いていた。AAPAは1919年に憲法18条修正条項(禁酒法)が成立した後、直ちに設立されている。アルコール飲料の製造を禁じたボルステッド法を廃止し、更にアルコール飲料の製造、販売、輸出入を禁止した18条修正条項そのものを廃止させようとする圧力団体で、憲法に違反すると主張していた。ピエール・デュポンとイレーネ・デュポンはAAPAの活動に積極的に加わり1926年以降、大口の寄付者となった。この2人は「禁酒法には関心がなく、所得税の削減に関心があるのだ」と公言していた。AAPAの目的は憲法18条修正条項と一緒に所得税を葬り去ることだった。
この時代、株式の取引は土地投機とともに税務署をごまかす手段の一つで巧妙な取引捜査で脱税できるようになっていた。よく使われたのは相殺取引という手法であり、株式売買で発生した損失は税の控除対象となることから共謀した投資家同士が低価格で株を売買し合い、実際には損益は相殺されているが儲けを隠して損失だけを表面化させるとそれが税の控除対象になるというものだった。1920年の個人の所得税率は最高で25%に抑えられていた。しかし数年も立たない間に最高税率が70%に達したのである。これに対して猛烈な抗議行動が起こった。トレーダーや事業経営者は市場で相殺取引を仕掛け、わざと損失が出るように株価をつり上げて売買した。ピエール・デュポンとジョン・ラスコフもこうした取引に関わっている。この2人は複雑なやり取りによって儲けた200万ドルを表面化させることもなく損失を計上し、課税を逃れた。この相殺取引は国税局の査察対象となり、租税裁判所は相殺取引は市場の著しい悪弊だとして税の控除から外した。
1929年3月、アメリカ市場の株価が急落し始めた。当時、FRBとニューヨーク連銀との関係はおかしくなりかかっていた。理事会は地方連銀に、コールマネー市場での資金量を減らすために貸出金利を上げることを求めた。それに対し、ニューヨーク連銀は、市場伝統気を抑えるためには公定歩合を上げたほうがいいと考えていたのである。FBRの手法だと会員銀行への貸出金利だけが上がることになるが、実際、市場で貸し出されているコールマネーの多くは非会員銀行や企業から出ていた。それゆえ、これら非会員の機関はFRBのやり方では必ずしも影響を受けない可能性が高いのだった。ニューヨーク連銀はFRBの方針を軽く見るようになり、ニューヨーク連銀の姿勢を支持する議員達が政界にも現れ始めた。
ウォールストリートの歴史 | |
チャールズ・R・ガイスト 中山 良雄
フォレスト出版 2001-10-15 |
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