70年代まで香港で君臨していた英国資本のコングロマリットは、ジャーディン・マセソン、ハチソン・ワンポア、スワイヤ、
ウィーロックの4社が主力だった。ホンコンランドを擁するジャーディンは、東インド会社の船医だったウィリアム・ジャーディ
ンとジェームス・マセソンが、アヘン戦争に先立つ1832年に設立した麻薬商社が前身
だった。
ホンコンランドはチムサーチョイ一体の不動産を保有していたワーフや、香港島に独占的に電力供給するホンコン・エレク
トリックなどもかつて保有していた。マンダリングループの中には、エクセルシオールホテルも傘下に収めている。そして
デアリーファームは、数多くの小売チェーンを抱える。
マキシムズ(美心飲食)、セブンイレブン(ジャーディンはホンコンのほかシンガポールや中国華南でも運営権を持つ)、
ウェルカム(香港2大スーパーマーケット)、スターバックス、ピザハット、イケア。もしも香港に住めば、必ずいずれかの店
舗に世話になるだろう。香港の地下鉄にはいずれの駅構内にも恒生銀行の支店があるが、その周辺を見回すとマキシム
のパン屋があり、そしてその隣にセブンイレブンがある。またセブンイレブンやウェルカムには他商品よりも大きなスペース
を割いてデアリーファームの乳製品が売られている。またイケアに付設されている軽食品売り場び生絞りの特製フレッシュ
ジュースは、スターバックスでもウェルカムでも売られているし、スターバックスの瓶詰めコーヒーは、セブンイレブンやウェ
ルカムでも売られる。それらはいずれも親会社がデアリーファームであるからにほかならならい。
ワーフ 1886年設立、ハチソンと並んで九龍一帯の開発権を保有し、70年代後半までコンテナターミナルの集まる葵桶や
チムサーチョイ周辺でホテルや商業オフィス複合ビルを次々に開発して大成功した。しかし、ハーバーシティなどの開発資
金を得るため、多額の社債を発行していた。ワーフの株主は社債保有に走ったために株価が低迷し多くのワーフ株が一般
の小口投資家に流れてしまっていた。李嘉誠がワーフに狙いを定めた理由は、ワーフに圧倒的な大株主が存在しなかった
ということである。ワーフはジャーディン子会社のホンコンランドが最大の株主だった。1978年時点での持ち株比率は十数%
しかなかった。つまり20%を握ればワーフを手中にできるということだ。セントラルやアドミラルティーの駅ビル開発を手がけ
資金が豊富にある李嘉誠が動かないはずがなかった。李嘉誠は株式市場で極秘裏に少しずつワーフ株を買い集めた。と
ころが市場では案の定、誰かがワーフ株を買い集めているのではないかという噂が広まり、ワーフ株は徐々に値上がりし
始めた。ミステリアスなその書いては李嘉誠ではないかとのメディアの憶測も生んだが、李嘉誠は平静を装いながら否定し
当初1株10香港ドルだったワーフ株を30香港ドルに上昇するまで静かに買い続けたという。そして発行株式の2000万株、
約20%の取得に成功した。驚愕したのはジャーディンだった。「買っているのはあの男だ!こっちもすぐに買い増せ!」株価は
膨張のピークに達していた。70年代に海外投資を急拡大していたジャーディンにはそれらを買い増せる潤沢な資金はもは
やない。「頼む、李嘉誠にワーフ株の取得を止めさせてくれないか・・・」ケズウィック会長は、HSBCに支援を求めて泣きつ
いたという。李嘉誠は香港島のマンダリン・オリエンタルホテルに呼ばれた。待っていたのはHSBCの取締役を務めていた
包玉剛(YK・パオ)である。包玉剛といっても日本人にはなじみがないが、当時「東洋のオナシス」と呼ばれた世界の海運王
である。HSBCは英国国籍も得ていた包玉剛を社外取締役に招いていた。HSBCの社外取締役である包玉剛がワーフを
譲り受けるとするとジャーディンも納得するはずだ。もとより長江実業としてもHSBCを敵に回すのは得策ではない。20%の
ワーフ株を包玉剛一族が引き受けることが決定し、李嘉誠の手元には巨額の売却益が転がり込んだ。
環球航運集団(ワールドワイド・シッピング)の包玉剛
環球航運は210隻以上のタンカーを保有した世界一の大海運会社だった。「だった」と過去形にしたのは英資デベロッパ
ーのワーフを買収したことに伴い、主な事業を海運業から不動産業に移す「上陸」を果たしたためである。(ただし、ワール
ドワイドは「バーガソン・ワールドワイド」と社名変更し、現在も存続している。)
好景気に沸いていた日本は国民所得倍増計画の一環として、新規造船業を重点政策として積極的に奨励した。1960年
の1年間に国内あわせて約1300万トンの外航船腹を建設する方針を決めていた。当時日本は外資系海運会社に対し、
日本での造船資金調達で、国内の海運会社よりも遥かに低金利で融資を受けられる優遇条件を与えていた。外資を積極
的に呼び込むための策だった。もしくは国内海運会社の造船ペースでは足りないという判断だったのかもしれない。極めて
皮肉なことに、日本の海運会社にしてみれば、高金利での国内資金調達は嫌気せざるを得ない。そうして船腹調達には
新規造船ではなく、リースを選択する傾向が広まっていた。また当時、日本の海運会社が海外子会社に建造させ、外国籍
の船舶として運行する「仕組み船」が増えたのもおそらくそうした背景があったのだろう。その外資優遇策は包玉剛の船腹
拡大には大いに寄与した。包玉剛の長期契約方針は、造船に融資する銀行側のリスクも低減する効果もあった。いつしか
包玉剛は「東洋のオナシス」と呼ばれるようになった。海運王といえばオナシスの右に出るものはいないと言われていた。
ところが包玉剛のワールドワイドシッピングは1975年までのわずか十数年の間に20万トン級の大型と中小規模合わせ、
200隻以上を保有した。重量ベースでも1350万トンとオナシスを遥かに上回る世界一の規模に達していた。ちなみにこの
頃、ワールドワイドに次ぐ海運会社は、日本の三光汽船で、次いで、デンマークのマースク、日本郵船、オナシス、東方海
外(OOCL)、シーランド の順だった。香港の第25代総督を務めるクロフォード・マレー・マクレホースは、西洋社会に向けて
包玉剛は『東洋のオナシス』ではない。オナシスが『西洋の包玉剛』なのだ」と紹介したという。
1978年、李嘉誠との「秘密折衝」の末、ワーフ株の20%入手に成功した。実はまだその続きがある。包玉剛は直後から市
場のワーフ株を買い集め、保有比率は30%を超えた。目標は49%の達成だった。「香港股史」によると当時の証券規則「収
購・合併守則」では株主の持ち株比率が50%を超えた場合、その株主は対象企業を全面的に買収しなければならないこと
になっていた。包玉剛としてはその全面的買収ライン50%に触れなければいいわけである。ワーフの第二位の株主はジャ
ーディンで、保有比率は十数%だった。ジャーディンのニュービギング会長は包玉剛が30%を超えたと聞くと歯ぎしりして悔し
がった。包玉剛のワールドワイドから、取締役を受け入れざるを得ないからである。この時、ワーフの取締役として送られた
のは、包玉剛の嫁婿、呉光正(ピーター・ウー)である。ワーフの取締役会を牛耳っていたジャーディンは、新たに来た呉正光
が目障りだった。必然的に両者は取締役会内で対立した。それが頂点に達したのは1980年6月20日だった。ジャーディンと
傘下のホンコンランドは、その日の香港の新聞広告にワーフ株の公開買い付け(TOB)の巨大広告を掲載したのである。
「ホンコンランドの新株2株と額面76.6ドルの同社債、合わせて100香港ドル相当をワーフ株1株と交換します。」年初に50香
港ドルだったワーフ株が2倍の100香港ドル相当になるというのだ。包玉剛がカウンターでTOBを仕掛けるしかなかった。ジャ
ーディンより良い条件というと現金で買い取ることだ。しかし、ワーフ株の49%を握るのは15億香港ドルが必要になる。今そん
な現金はない。だがあと1週間以内に15億香港ドルを調達しないとジャーディンが高笑いすることになる。包玉剛はHSBCの
マイケル・サンドバーグ会長と会うために急遽英国に立ち寄り、資金調達を依頼した。サンドバーグは船舶事業に対しては
不信感を持っていたが、不動産業であるワーフを傘下に収めることには賛成だった。それが船舶事業から離れる手助けにな
るとの見方からだったのだろう。包玉剛は香港に戻るや、呉光正らと緊急会議を開き、そして数時間後、緊急記者会見を開き
カウンターTOBを発表した。条件は「ワーフ1株を現金105香港ドルで買い取る」というものだった。
約2年間にわたるこの争奪戦を「包玉剛は惨勝し、ジャーディンは実を取った」と書きたてた。ワーフグループ企業は、「ハーバ
ーシティ(海港城)」、有線テレビの「アイケーブル(有線電視)」、固定電話の「ワーフテレコム(九倉電訊)、スターフェリー、
コンテナターミナル運営の「モダンターミナルズ(現代貸箱)」、「タイムズスクエア(時代広場)」、高級小売店「レーンクロフォード」
アパレルの「ジョイス」、「マルコポーロホテル」、ショッピングモールの「ハリウッドプラザ」。
香港在住諸君にはかなり馴染み深い名前であろう。
ジャーディンのサイモン・ケズウィック会長はさらに1984年の中英共同声明が発表される直前に、「返還後も英国の法体系下で
の経営基盤が必須だ。自由社会での経営こそ、我々株主が求めるものだ」と表明し、法人登記を香港から英領バミューダに移
管してしまった。これは明らかに1997年以降中国に統治されることになる香港に対して忌避を示したものだった。ジャーディンは
英国統治下の香港を代表する英資財閥である。それが香港を離れると受け止められ、ジャーディン株が17%下落したのをはじめ
として香港全体の株式市場が暴落、「ジャーディン・ショック」と呼ばれた。中英交渉で世界が注目している最中にジャーディンが
バミューダに登記を移すと発表したことは、中国政府のメンツを丸つぶしにした
。これは中国の英国に対する交渉態度を強烈に
悪化させたといわれている。ちなみにジャーディンは1994年に、香港登記だけではなく、主要グループ企業の香港上場を廃止し
てロンドン証券取引所に移管。アジアの主要事業であるマンダリン・オリエンタルやデアリーファーム、ホンコンランドの3社は
シンガポールに上場を移管している。
なるほど、Hong Kong Land・・・、変だとは思っていたのだがそういう理由だったのか・・・。
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2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
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