ハプスブルク家、国家を超えた一族の支配という意味で、このブログ、投資一族のタイトルにふさわしい
内容を期待したのですが、ほとんど一族支配ってよりハプスブルク家の歴史という感じでした。
しかし、最初は男と女のM&Aを使って勢力拡大している辺りは納得ができますね。
結婚とは恋愛の延長上にあるという建前の下、戦略的かつ合理的に結ぶ契約である。byエキゾ
選択権は有効に使わんとな。ハプスブルクの歴史がそれを教えてくれる。
カール5世亡き後、スペイン・オーストリア系に分かれ、帝冠はそれ以後スペイン系に戻ることは無かった。
スペイン王家は伝統的に純血の維持を鉄則とし、モール人やユダヤ人と混血することによって、由緒正し
い自家の血液ばかりかイベリアの宗教までもが汚染されることを恐れたためだった。その悪影響が顕著に
現れたのはスペイン系で、フィリップ3世・4世になると虚弱体質は誰の目にも明らかで君主といっても実際
にはその任に耐えられなかった。カール5世以降のハプスブルク家では文句つけようが無くスペイン系が
オーストリア系を断然引き離して指導的立場にあった。カール5世の時代含めて16世紀がスペイン王国の
最盛期で、新大陸アメリカから夜を日に継いで積荷され、金銀財宝を満載したガレー船が続々と到着する
セビリア港は、活気が溢れていた。
インブリードの弊害ですね。おそろしやおそろしや。
大公女マリア・テレジア
嫡男が居なかったカール6世は、長女の場合でも相続可能にしたが、ハプスブルク家内法としては成立した
ものの外国政府はそれを容易には受け入れず、ハプスブルク家は外交上大きな譲歩を強いられ、東イ
ンド会社の放棄し、家領を削り取られた。しかし、そのカール6世が苦心して定めた相続順位法は皇帝が逝
去すると「マリア・テレジアは大公女にすぎない。オーストリアの王位にはしかるべき男性がつくべきである」
とフランス王が声高に叫び、バイエルン・ザクセン王が要求し、彼らよりも手出しが早かったのはプロイセ
ンのフリードリヒ2世である。その迅速さと見事な手並みはよほど以前から王がその機をうかがっていたこ
とを思わせ、前帝死後2ヵ月後には軍隊を発進させ、オーストリア領シュレージエンに浸入し、これを腕ず
くで占拠してしまった。
大公女マリア・テレジアが即位したのはわずか23歳の時である。オーストリア人のハンガリー人不信が渦
巻く仲ハンガリー議会に援助を訴え、さらにフランス・ロシアとも盟約を交わし、プロイセンのフリードリヒ包
囲網を敷き、対抗した。
他国干渉。都合の悪いことに関しては国際問題として取り上げ干渉する。
今も神社とか教科書とかありますが、国家主権と国際社会の矛盾ですな。
フランツ・ヨーゼフ帝 民族主義の嵐の中でハプスブルク帝国の落日
1859年ソルフェリーノの戦い、1866年ケーニヒグレーツの戦い、を経て次々に領土を失い、
1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立は
マリアテレジアの敷いた中央政権に抗するハンガリー人たちの独立を半ば承認したことを意味している。
チェコの民族主義者たちも、「マジャール人に認められた独立性がなぜわれわれチェコ人には与えられな
いのか」とつきあげた。
プラハでは中産階級や下層労働者の大半はスラブ系のチェコ人、官僚をはじめエリートはドイツ人、金融
界の実権はユダヤ人が握っていた。ボヘミアではこれらの民族間の人種的対立が日増しに鋭くなり、住
民の大多数をなすチェコ人の不満はますます昂じていった。
皇帝は穏便主義に徹し、他国と無用な争いはせぬよう配慮し、ヨーロッパの諸都市を歴訪して親善を深め
た。ところが、皇帝の甥で帝位継承者のフランツ・フェルディナントはいたずらにオーストリア精神の高揚に
努め、世界情勢を顧慮することなく外国勢力排除を高らかに宣言した。二重帝国そのものを、ハンガリー
人に対する卑屈な譲歩であるとして認めようとしなかった。オーストリアでは生粋のハプスブルク人のフラ
ンツ・ヨーゼフ帝は人気があったのに対して、大公の方は過激な言動や派手な生活ぶりがきらわれていた。
そのような風潮など気にとめず、相変わらずオーストリア精神を鼓吹し、ハンガリーやセルビアの民族運動
を抑圧しようとしていた。世界は20世紀に入るとますます風雲急を告げ、ことにバルカン半島では汎ゲルマ
ン主義と汎スラブ主義の対立が日増しに尖鋭化し、そのような時にオーストリア=ハンガリー二重帝国の
皇位継承者である大公が、最も険悪な状況下に会ったボスニア・ヘルツェゴヴィナのサライェヴォにのこの
こでかけ、ろくな身辺警護も伴わずに陸上演習を参観しようとしたこと自体が、このいささか驕慢な君主の
暴虎馮河ぶりを明らかにしている。サライェヴォの野にとどろく銃声数発。大公はあれほど手に入れたがっ
ていた帝冠、後2年も我慢すれば得られた帝冠に触れることなくあたら51歳の生涯を無為に終えた。
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