ハプスブルク家 (講談社現代新書) ハプスブルク家 (講談社現代新書)

講談社 1990-08
売り上げランキング : 35968

Amazonで詳しく見る by G-Tools

ハプスブルク家が定住していたのはウィーンではなく、スイス北東からドイツ・フランス国境のアルザス地方の一帯。
神聖ローマ帝国を代表し、統治するものがローマ王またはローマ皇帝である。選挙で国王に選ばれたものはイタリ
アへ赴き、ローマ教皇(法王)から帝冠を授与されてはじめて皇帝と呼ばれる
。それでは国王は誰が選ぶのか。
ローマ教皇かというとそうではない。皇帝選挙で投票する権利を持っていたものを選帝侯と称し、7名の選帝侯が
決定するのが帝国の慣習である。これは世襲職で、1806年の帝国解体まで原則として不変だった。
ルードルフ一世
ハプスブルク家始祖とされ、1272年、ローマ王に選出された。しかし、選出された理由は、懐具合が豊かで皇帝に
ふさわしいとみなされたわけではなく、野心家で実力者のボヘミアのオットカル王が選帝侯に忌避されただけに
すぎない。オットカルは後にルードルフ率いる帝国軍に敗れる。
マクシミリアン一世
皇帝フリードリヒ3世(しかしオーストリアの辺境の小領主にすぎない)の息子で、ローマ帝国ちとフランスの間に
位置するブルゴーニュ公国 シャルル突進公(テメレール)の娘マリアと結婚し、勢力を拡大した。この頃トルコが
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅亡させたのが1453年、さかのぼること30年前で、キリスト教徒たちはイスラム
教徒の影におびえるようになる。もともと神聖ローマ帝国の王(皇帝)は外敵によって国境が侵害された場合、こ
れを排除すべき任務を負っている。ところがこれまでの皇帝選挙といえば、まず選帝侯らの勝手次第で弱小家
系が選び出された。国家の防衛など有名無実も良いところだった。津波のような勢いで押し寄せてくるハンガリー
・トルコ軍を迎え撃つには老衰した現帝フリードリヒ3世では身動きがとれない。
マクシミリアンは26歳の若さでブルゴーニュ公として統治の実を示していた。対仏戦で遺憾なく発揮された勇猛果
敢な指揮ぶりを買われ皇帝に選出され、ハンガリーを撃退し追撃する。
カール五世
マクシミリアン亡き後、引き続き神聖ローマ帝国の最高位についた。弟フェルディナント、4人の姉妹と共に協力し
合い、互いにかけている所を補い合ってハプスブルク家の繁栄を築いた。彼らの一人一人が一族の成員であるこ
とを常に意識し鼻祖ルードルフ以来、宗家は神によって特別に選抜された由緒ある家柄であるという信念が末裔
に至るまで連綿として伝えられる。ハプスブルクがカトリックに帰依しいかなる逆境でもこれを守り通した。カール
5世があらゆる手をつくして神聖ローマ帝国の皇帝となり、フランス王と熾烈な戦いを演じ、イスラム教徒・新教徒
たちとわたりあったのも、全てこれがために他ならない。
カール5世は、領土をスペインにまで拡大し、スペインとドイツの東西からフランスを挟み込んだ。ローマ教皇は
カール5世の絶対的権威を恐れるあまり、教皇庁の権益を守るためにはいかなる手段でも講じようとしていた。
この結果、仏王は、ドイツの新教徒はおろか、トルコ人と同盟を結ぶことさえ辞さない。ローマ教皇庁はそれを
黙認し、プロテスタントともスルタンとさえ情宣を結んでもよいと思っていたのである。キリスト教の信仰心の希薄さ
は歴然で、国益のため、国家安泰のためには宗教など二の次

カール5世は、選帝侯たちを巧みに説得し、実弟フェルディナントをローマ王に指名させてしまう。ローマ王は現帝
薨去のみぎりには直ちに帝位につく者という意味である。カール選出の際の法外な賄賂横行にこりての措置ともい
えるが、皇帝が権力を背景としてあらかじめ嫡子または縁者をローマ王に指名しておけば帝位は常に独占される。
ハプスブルク家が帝国の玉座にすわり続けたのはまさにこの手段によったのである。これ以後の約二世紀は皇
帝の近親者がローマ王に選ばれるのが慣例となり、選帝侯による皇帝選挙が有名 無実化したことになる。
チュニス遠征においてトルコ(イスラム教徒)を打ち破った時はカール35歳で生涯最盛期といえようが、この快挙はキ
リスト教徒すべてに祝福されたとはいえず、ローマ教皇は、皇帝の権力が誇示され、我が紫衣の権威が弱まることに
なりはせぬかと、オスマントルコと結託して反皇帝・反ハプスブルク路線を敷くほうが現実的であると考えた。
統一された帝国もわずか2年で再び分裂してしまった。1552年インスブルックの夜襲で、破格の待遇を与えていた
ザクセン公モーリッツに謀反されたためである。ザクセン公は育ちからいってもプロテスタントだったが、この人一流の
処世術に基づいてカールに仕官していたのである。カール皇帝は信長のような悲劇の最後を遂げたわけではなかっ
たものの最高権力者としての政治生命は事実上これでとどめをさされた。
マルティン・ルター
北ドイツのヴィッテンベルグの学僧で、目に余る免罪符販売を弾劾し、ローマ教皇庁の悪徳ぶりを痛烈に暴いた
95ヵ条の論題を掲げた。カール帝とは1521年にヴォルムスにおける帝国議会で対面している。教会の徴税史た
ちにたっぷり十分の一税を搾りとられあやしげな免罪符まで買わされていたドイツ人の間にはとりわけローマに対
して深い恨みがあった。それがあったからこそ、ルターの教説はあれほどの反響をドイツで引き起こしたのである。
【関連記事】
2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2008.10.01: オレはオレの国を手に入れる
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.04.15: 国境 ~統治権の狭間