わが闘争 上 民族主義的世界観 1/7 ~ヒトラーが生きた時代のドイツ

人を説得しうるのは書かれた言葉によるよりも、話された言葉によるものであり、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な演説かにその進展のお陰をこうむっている、ということを私は知っている。けれども教説を規則的、統一的に代弁するためには、その原則的なものが永久に書きとどめられねばならない。それゆえ、この両巻を私が共通の事業に加える礎石たらしめんとするのである。
戦争の感激 私はいろいろな軍事問題の書物を手にしたが、その中に1870年ー71年の普仏戦争の普及版があった。これが私の愛読書になった。まもなくこの偉大な英雄的戦争が、私にとって最大の内面的な体験になった。以後私は、戦争とかあるいはとにかく軍制とかに関係するあらゆることに、ますます熱中した。はじめて まだ非常に漠然たる観念ではあったが この戦闘をするドイツ人と、他のドイツ人との間に相違があるのだろうか?それはどんな相違なのだろうか?という疑問がしつように迫ってきた。なぜオーストリアはこの戦争にいっしょに戦わなかったのだろうか?父もまた他のドイツ人たちみんなもなぜ戦わなかったのだろうか?我々もまたすべてのすべてのドイツ人と同じではないだろうか? 我々は、みんなともに一つの全体をなしているのではないのか? すべてのドイツ人がビスマルクの国家に属する幸福に浴していないのだ、という答えを聞かされて、私は内心で嫉妬を感じた。
わが闘争は、多分、ヒトラー自身のオリジナルの発言と文章が、かなりクレイジーで、その日本語訳だから、この本は常にこんな感じの”難解”な文章で書かれているが、なんとなく骨子は理解できるという次元なので、決してご推薦図書にはできない。ともあれ、数年前から読もうと思っていたドイツ発禁本扱いの「わが闘争」をじっくり時間をかけて読んでいこうと思う。
歴史教育 いわゆる中等学校での世界史の教育は、もちろん現在でもなお非常にひどいものである。歴史教育の目的が、決して歴史上の日付や事件の暗記や棒読みすることではなく、いつあれやこれやの戦争があったとか、将軍が生まれたとか、ある君主が先祖代々の王冠を頭に頂いたとかいうことを子供が正確に知っていてもいなくてもどうでもよい、ということを知っている教師はまことに少ない。
歴史を「学ぶ」ということは、歴史的な事件として我々の目に見えるものを、実際に引き起こした原因としての力を発見し、見出すことである。
ハープスブルグ王家がやったことについての歴史的認識は、日々の見聞によっていっそう固められた。北部においても南部でも異民族の肉体を蝕み、ヴィーンすらもますます非ドイツ的都市に見えてきた。「オーストリア大公の家」はいつもできるかぎりチェコ化した。そしてオーストリア・ドイツ主義の最も憎むべき敵、皇太子フランツ・フェルディナント大公を弾丸で倒したものはとりもなおさず、永遠の正義と仮借なき報復を下す神の鉄拳だった。その弾丸は大公自らが鋳造を助けたものである。だがかれこそ天下り式にオーストリアをスラブ化しようとしたパトロンだったのだ!
この本を読む前に、ドイツの歴史も復習しておこう。
1871年~1918年ドイツ帝国、1918年に第一次世界大戦の敗戦と革命で帝政は崩壊し共和制へ移行することで消滅。
1862年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、1866年普墺戦争、1870年普仏戦争でナポレオン3世をうちやぶることでドイツ帝国が生まれた。
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1815年~1866年ドイツ連邦
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1807年~1815年ライン同盟
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~1806年の神聖ローマ帝国の崩壊
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国民的誇りの欠如 わがブルジョアジーが、みじめな浮浪者の口から、ドイツ人であろうが無かろうが同じことであり、ただ必要な収入さえあればどこでも同じように満足だ、ということを聞いて、何度道徳的憤慨を感じたことだろう。文化的、芸術的生活のすべての領域における祖国や国民の偉大さを個々無数に思い出すことが、総合的な結果として恵まれた民族の一員であるという当然の誇りを彼らに持たせているのだが、それをどれだけ多くのものが理解しているだろうか。祖国への誇りが、これらすべての領域での祖国の偉大さを知ることにかかっている、と少しでも感じているものが、どれほどいるだろうか
「他の国でもやはり事情は同じだ」しかしそこの労働者はやはり自分の国民性に立脚しているのだ、と人々は言い逃れることはできない。よしんばそうだとしても、そういうことが自分の怠慢の口実にはなりえない。だが事実はそうではない。というのは、たとえば我々がいつもフランス民族の「偏狭な愛国主義」教育と称しているものが、やはり文化の、フランス人の言葉と言えば「文明」の全分野におけるフランスの偉大さを、極度に引き立てている以外の何物でもないからだ。若いフランス人は、彼の祖国の政治的あるいは文化的偉大さの意義を問題とする限り、決して客観性を持つようには教育されず、かえって人々が考えうる限りの主観的観点に立つよう、教育されるのである
ヒトラーのおフランスに対する嫉妬心。客観性の無い偏狭な愛国主義教育だって。今でもそうだな「おフランス至上主義」。
愛すべき当代の市民たちは、この若い公民に国民的情熱が欠けていることをにまったくあきれる。彼らは演劇や映画や、また三文文学やエロ新聞で、毎日毎日、おけから水を流すように民衆の中に毒が注ぎ込まれるのを見るのだ。そしてそれについて、この民衆の大群の道徳的内容の少ないことや国民的無関心さに驚いている。あたかもインチキ映画やエロ新聞やその類似物が祖国の偉大さを認識させる基礎を与えているかのようにである。個々の人間がそれ以前に受けた教育についてはまったく度外視している。
 国民化の予備条件 ある民族を「国民化」する問題は、まず第一に各人に教育を与えうる基礎として健全な社会状態を作るということである。というのは教育と学校によって祖国の文化的、経済的な、なかんずく政治的な偉大さを十分知るものでなければ、かかる民族の一員であり、またありうるという内心の誇りを獲得することができないし、また獲得しないであろうからだ。そして私は私が愛するもののためだけ戦う。私は尊敬するものだけ愛し、少なくとも知っているものだけを尊敬するのである。
総統閣下が憂いておられる。労働者階級家庭で育てられた少年の未来を憂いておられる。金銭や経済的なことばかりに注意が行き、国民としての意識、民族を愛することを忘れている
新聞のフランス崇拝 私の神経に障ったのは、そのころすでに大新聞が書いていた実際いやらしいフランス崇拝だった。人々はこの「偉大な文化国民」に対する甘ったるい頌歌を目の当たりにして、まったくドイツ人たることを恥じねばならなかった。このあわれむべきフランスかぶれが、一度ならずしばしば、私にこの「世界的新聞」を投げ捨てさせた。私はそこでいつも繰り返し「ドイッチェ・フォルクスブラット」を読んだ。
【ヨーロッパの戦争・内戦・紛争】
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2012.04.06: 金融史がわかれば世界がわかる 4/6~ポンドからドルへ
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
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