Month: 8月 2016

すべてが逆のオーストラリア、行ってきました

AUD(オーストラリアドル)、今まで一体いくら取引してきたのだろう? エクスポージャーとして大きく取ったことは無いが、日本にいるときから、割引債、DDBの類を継続的に取引していて、累計取引金額はそれなりの金額になるはずだ。割引債の複利効果が好きでね。余計な細かいクーポンが来ないのが、めんどくさくなくてよい。FXの毎日のスワップポイントで喜んでいる人たちとは、根本的な思想が違うのを感じるわ。今は債券取引を止めているので保有残高はゼロだが、為替先物で「疑似的」に保有している。しかし、2016年?から、利付債の途中売却の譲渡益も課税対象になったらしいなぁ。う~ん、これは日本における債券投資には激震だと思うのだが、みんなどうしているんだろうか…。

さて、今回初めて、さんざん取引してきたAUDの実物キャッシュを手にした。だが金額が小さすぎて、フィジカルセトル感がなく、特に何も感じなかった。残念。

 

オーストラリアも事前登録ビザETAが必要。即時発行なので、空港でWifiがつながるなら着いてからやっても間に合いそうだ。無審査で即時発行するなら、空港でカネだけ取ってやってくれれば良いのに…、と疑問に思うだろう?

後に語るであろう、オーストラリアに対する「違和感」事象の一つなので、最初に書いておこう。

香港やシンガポールに住んでいて、オーストラリアに行くと、あまりに対照的なので、色々な所で違和感を感じる。

香港・シンガポール:狭い、人が多い、安い人件費はいくらでも輸入できる、非農業国、資源は無い。

対するオーストラリア:広い、人が少ない、人件費は高い、農業国、資源国。ついでに南半球で季節まで逆転だw

 

おそらく安い人件費は輸入しているが、農場や炭鉱が主で、街中のサービス業では見受けられなかった。いかに少ない人で、運営するかという工夫が至る所でされている。ビザの無審査なのに、空港でETAを対応しないのも、その政策の影響であろう。

「入国審査は厳し目で、特に食べ物・生き物、靴についた土にまで、いちやもんをつけてくる」、と聞いていたのだが、メルボルン入国だったのだが、そういった嫌な感じは特になく、スムースに入国することができた。外国人観光客なのに無人ゲート、パスポートを突っ込むとゲートが開く。ほら、ここでも、無人化による運営でしょ?

シンガポールの空港でウイスキーを買っていこうかと思ったのだが、そこでも、免税店の販売員に「一応、1ボトルまでOKなんだけど、経由便の場合、大丈夫かなー?あんまりお勧めしないなー。」と言われ、なーんか嫌な感じだなー、と思ったが、そういったこともなく。メルボルン入国し、免税店でウイスキーを買ったところ、「国内線の場合は、ウイスキー1リットル瓶の機内持ち込みまでできる」ようで、日本と同じ緩さで意外だった。ただし、タバコは異様な値段だ。免税店をもってしても1カートン 108AUD。今まで見た中で記録的に高い。しかも、免税店でもパッケージを見せる形ではおいておらず、ロッカーの中にしまわれており、銘柄を知っていないと買うことができない。タバコ撲滅キャンペーンだな。こりゃ、どんなに良い所でも、タバコをやめない限り、相当に住みにくい。ただ、その割に、ブリスベンの町中至る所に灰皿はあり、喫煙者も少なくない印象だ。タバコの持ち込みは「50本」まで非課税だ。この非課税枠を活かすしかない。

ブリスベンとゴールドコーストに行ったのだが、ブリスベンの空港から、ブリスベン市内中心部、ブリスベン・セントラル駅から徒歩圏のホテルまで、タクシーで30~40分、40~50ドル程度。外国人運転手っぽいが、ナビでアドレスを入れて、その通りに運転しているので、ぼったくりの印象は無い。

 

ホテルのロビー、これかなり強烈。

ブリスベンとゴールドコースト、2つのホテルに泊まったのだが、両方ともフロントが24時間対応ではない。故に入り口は、夜間から朝にかけてロックされている。これ、深夜・早朝到着便だったらどうするんだろう? そもそも飛行機も深夜・早朝到着便が存在しない?

ホテルに荷物を預けても引換券をくれない。フロントの横に置いておくだけだ。だから夜をまたいで荷物を預けるのは危険すぎる。夜はまたいでいないが、昼間の間、ロビーの横にただ置いてあるだけ。もし誰かが「自分のものだよ」って顔して持って行ってしまったら、どうするつもりなんだろう? 勤務時間が短く、ホテルのフロントが変わらないならば、どの荷物がどの客のものか、フロントの従業員が覚えていて問題ない、ということなのだろうか?

ちなみにホテルのエレベーターに閉まるボタンはなかった。香港の場合、2階以上のフロアには、「下り」ボタンしかないことがあるが、アジアで閉まるボタンがついてないと発狂してしまう奴が頻発しそうなだけに、のんびりとした国民性を感じる。

 

シムカード

Optus シムカード、2ドルと10ドルがコンビニで売っている。電話できるがネットできず。APNの設定が必要なのにどこにも書いてない。電話して聞いても答えられない。結局、近所のYes Optusに行き、解決した。一日500MB上限で2ドルかかるらしい。ただ、3日くらいで切れたので、それを越えて使うと追加で取られているのだろうか? 2ドルのシムも売っているが、チャージ用ではなく、これまたシム。Activationの設定全部やり直さないと使えない。しかも、データ通信はできない。データ通信はミニマム10ドルのチャージが必要だそうだ。「じゃあ、売んなよ、馬鹿ヤロウ、買っちまったじゃないか!」と思うのは私だけ?

 

電車

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電車、ネット上の路線図(緑のライン)が途中で切れてる。続きの路線へのリンクもない。
「Gold CoastのFlorida Gardensに行きたいんだが、どうやって行くんだ?」と聞いたら、「フロリダはアメリカだ」と言われた。「この路線図の一番下に乗っている駅名だ!」 後にわかることだが、路線図をよく見ると、Gold Coastには路面電車があり、長距離鉄道とはつながっていない。でもさ、まったく関係なくてつながってないなら、今度は逆に載せるなよな~。

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ネットで調べると電車一本で行けると書いてあるのだが、実際には直行電車の数は非常に少なく、途中で止まって、バスが速いということでバスに乗り換えが必要だったりする。
ブリスベン以外の駅はほとんどが無人駅。
電車のドアはボタンで開ける田舎電車スタイル。
チケットがゾーン制は聞いたことあるが、ゾーン制+時間制限あり。
ブリスベン行きたいんだけど、どのバス?と聞いたら、「34」と答えた。これバスの番号ではなく、なんと来る時間。田舎だから本数少ないから時間で答えてるのよ。

 

路線を全部書ききらないのは、鉄道がオーストラリア東海岸全体に広がっていて、きりがないからであろう。

 

私が混乱し、首をかしげているのが、伝わりますか? 

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食と文化の謎 3/7~おぞましき豚

豚肉嫌悪はどう考えても牛肉嫌悪よりももっと非合理的に思える。すべての家畜の中で、豚は、植物を肉に変える速度と効率でもっとも大きい潜在能力を持っている。一生の間、豚は、餌に含まれるエネルギーの35%を肉に変えることができる。これに比べて、羊は13%、牛に至ってはわずか6.5%にすぎない。

豚に対する恐れと嫌悪の根拠を、いわば自明な豚の不潔さに求めることは、少なくとも12世紀にエジプトのイスラム王朝サラディン王につかえた宮廷医ラビ・モーゼス・マイモニデスの時代にまでさかのぼる。「豚の口はその糞とおなじくらいきたないから」 豚の排せつ物趣味は、豚の悪しき本性の故ではなく、ご主人様の買い方に問題があるのだ。排泄物を食べるのは、他にもっと良いものが無い時だけである。豚を動物の中で最も汚いものと非難しながら、他のくそを食べる家畜に対する寛大な態度については何も説明していない。ニワトリもヤギも、動機と機械がありさえすれば、やはり糞を食べる。犬もまた、人糞に対してたやすく食欲モリモリとなる家畜だ。豚肉忌避に関するマイモニデスの公衆衛生理論が科学的に正当性らしきものを獲得するには、その後700年待たねばならなかった。1859年に寄生虫のセンモウチュウと生の豚肉の関係が医学的に初めて立証され、それ以来、これがユダヤ教とイスラム教の豚肉タブーに対するもっともポピュラーな説明となった。

旧約聖書には、食べてよい肉と禁じられた肉を区別する定則が、かなりくわしく書かれている。その定則は、習性の不浄性や肉の健康に対する有害性については何も言っていない。そのかわり、食べてよい動物の解剖学的、生理学的な、ある特徴に注意を向けている。レビ記11・1は次のように言っている。

動物のうち、すべての蹄のわかれた、偶蹄のもの、そして反芻するもの、それらは食べることができる。

なぜ豚は食べるに良くないとされているかを説明しようと本当に思うなら、一言も言われていない排泄物や有害性ではなく、この定則を出発点にしなければならない。レビ記は続いて、豚はその定めの半分しか満たしていない、とはっきり言っている。つまり、「それは蹄がわかれている」。しかし、定めのもう半分は満たしていない。「すなわち、それは反芻しない」。

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反芻動物の並外れたセルロース消化能力は、中東では人間と家畜の関係にとって極めて重要な意味を持っていた。「反芻」できる動物の飼育によって、イスラエルの民とその周辺の人々は、人間消費用の作物と家畜と分け合わずに肉とミルクを得られたのだ。牛・羊・ヤギは、草、ワラ、干し草、切り株、灌木、木の葉などを食べて大きくなる。それらはセルロースをたくさん含んでいるため、どんなによく煮ても人間が食べるには適さない。反芻動物は、食物をめぐって人間と競合するどころか、肥料としての糞とスキをひく牽引力を提供することによって、農業の生産力をさらに高めた。

豚は雑食動物だが、反芻動物ではない。実際のところ、消化器官、必要な栄養分に関して、豚は、猿と類人猿以外のどの哺乳動物より、人間によく似ている。それが、アテローム性動脈硬化症、カロリー・蛋白質不足症、栄養物吸収作用、新陳代謝などに関する医学研究に豚がよく使われる理由なのだ。

豚は中東の気候と生態環境に合っていないという、もう一つのハンデキャップを追っている。豚の体温調整システムは、暑くて、陽であぶれられるようなところの生活には全く適していない。しかし、そういう所がアブラハムの子供たちのホームグランドであったのだ。汗かきの人間は「豚のように汗をかく」といわれるが、この表現は解剖学的根拠を欠いている。豚は汗をかけない-汗腺をもっていないのだ。豚はよく汗みずくになっているが、それは外部から取った水分で身体を濡らしているためである。ここに、豚が泥の中で転げまわるのを好む理由がある。豚は転げまわることによって皮膚からの蒸発作用と冷たい地面からの伝導作用で熱を発散する。泥の冷却効果は水より勝っている。

こういったマイナスをすべて相殺するには、豚は反芻動物に比べて、あたえてくれるベネフィットがあまりに少ない。豚はスキを引けず、その毛は繊維や布に向かず、そのうえ乳用に適さないからだ。豚は肉以外ほとんど役に立たない唯一の大型家畜である。ニワトリは肉だけでなく卵も産む

レビ記は、反芻しないすべての陸上脊椎動物を徹底して禁じている。禁じられているものは、豚の他に、馬、猫、犬、ネズミ、爬虫類があり、これらはどれも反芻動物ではない。しかしレビ記の記述は、頭が変になりそうなほど複雑である。レビ記が特別に反芻動物と認定した三種類の動物も、食べるのを禁じられている。それは、ラクダと野ウサギ、そして三番目の動物はヘブライ語でシャーファーンである。これら名指しにされた三種の反芻動物が食べるに良くない理由は、「蹄がわかれて」いないから、と書かれている。

レビ記の食物規則はそれまでにあった伝統的な食物偏見と忌避を、ほぼそのまま成文化したものである。レビ記は紀元前450年まで文字に書かれなかった。これはイスラエルの歴史では非常に遅い時期である。おそらくレビ記の著者たちは、食べるに良い陸上脊椎動物が共通に持っているなんらかのわかりやすい特徴を見つけ出そうとしていたのだろう。レビ人が動物学の知識をもう少し持っていれば、反芻と言う基準の身を使い、ただ「ラクダを除く」と但し書きを付け加えるだけで良かったのだ。ラクダ以外のレビ記ではっきりと禁止されているすべての陸上動物-ウマ科、ネコ科、イヌ科、げっし類、ウサギ、爬虫類-は非反芻動物なのだから。しかし、動物学の知識に不安のあった法典編纂者たちは、ラクダだけが望ましくない反芻動物であるのか自信を持てなかった。そこでかれらは蹄が割れているという基準を加えたのだ。この特徴は、ラクダには欠けているが他の身近にいる反芻動物は備えていた。ラクダは蹄のかわりに、各足に二つのよくまがる、大きな指を持っている。

しかし、ラクダはなぜ望ましくない動物なのだろうか。ラクダが砂漠の環境に極めてうまく適応していることの反映であると考える。水を貯え、暑さに耐え、重い荷物を長距離運ぶという素晴らしい能力を持ち、しっかり閉じて砂嵐から守る長いまつげと鼻孔をもつラクダは、中東の砂漠地帯の遊牧民にとって最も重要な財産だった。しかし定住農耕民であるイスラエルの民はラクダをほとんど利用しない。砂漠以外のところでは、羊・ヤギ・牛の方が、ずっと効率よくセルロースを肉とミルクに変える変換器である。それにラクダの繁殖は極めて遅い。雌はなかなか子を埋めるようにならないし、雄も6歳にならないと交尾できない。そのうえ、雄の発情期は年に一度であり、また妊娠期間が12か月かかることが繁殖をさらに遅くしている。ラクダの肉もミルクも、古代イスラエル人の食糧に占める割合はごくわずかだった。アブラハムやヨセフのようにラクダを持っていた少数のイスラエル人も、砂漠を横断する時の運搬手段としてのみラクダを利用していたと思われる。

このような解釈は、イスラム教徒がラクダの肉を食べることを考えると説得力が増す。コーランでは、豚肉は特別に禁じられているが、逆にラクダの肉は特別に許されている。砂漠に住むイスラム教徒遊牧民ベドウィンの全生活様式は、ラクダを基盤にしていた。ラクダは彼らの主要な運搬手段であり、また、おもにミルクを取ることで主要な動物性食物源となっていた。ラクダの肉は日常食ではなかったが、ベドウィンは砂漠を旅する間、いつもの食糧がなくなってしまうと、非常食としてラクダを殺さなければならないことがよくあった。もしイスラム教がラクダの肉を禁止していたら、巨大な世界宗教になることは決してなかっただろう。アラビアの中心地を征服することも、ビザンチン帝国やペルシャ帝国を攻撃することも、そしてサハラ砂漠を越えてサヘル地域や西アフリカに到達することもできなかったに違いない。

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食と文化の謎 2/7~牛は神様

動物の肉は非常に栄養豊かなのだから、どの社会でも手にいられる限りあらゆる種類の肉が、貯蔵庫に蓄えられていると思うであろう。ところが実際には、全く逆のことが多い。世界中で肉に豊富に含まれている蛋白質、カロリー、ヴィタミンに対してすさまじいまでの欲求を示す同じ人々が、特定の種類の肉に限っては食べるのを拒否する。肉が栄養豊かであるなら、なぜ、それほどの多くの動物が食べるのに悪いものとされるのだろうか。インドを例に上げれば、さまざまな非合理的な食慣行のなかでもっとも有名なもの、牛を殺すこととその肉を食べることの禁忌がそうだ。

ヒンドゥー教の歴史において、牛の保護が常に中心的な問題であったわけではない。ヒンドゥー教の最古の聖典ーリグ・ヴェーダーは、紀元前1800年から800年にかけて北インドを支配していた牛を飼う農耕民ヴェーダ人(当時のアーリア人)の、神々と慣習に対する賛歌である。ヴェーダの時代におけるブラーマン階級の宗教的義務の中心は、牛の保護ではなく、殺牛だったのだ。ヴェーダ人は、動物の供犠と盛大な肉祭を同時に行ったヨーロッパと南西アジアの戦士・牧畜民の一つだった。儀式の時、ヴェーダの戦士と祭司は、ケルト人やイスラエルの民と同じように、忠誠に対する物質的褒賞として、また富と力の象徴として、臣下、従者たちに肉を気前よく分け与えた。村、地域全体がこの肉を食べる饗宴に参加した。

それぞれの儀礼に適切な牛の大きさ、形、色について、ブラーマン祭司が払わなければならない注意は、類似の古代イスラエルの供犠に関してレビ記に詳しく指示されているものと非常によく似ている。ヒンドゥー教の聖典で上げられている動物には次のものがある。額に白い斑点のある、角のたれた、去勢してない雄牛。足の太い成熟した雌牛。不妊の雌牛。流産したばかりの雌牛。三歳の、背こぶのない、小柄な、若い雌牛。黒い成熟した雌牛。二色の成熟した雌牛。そして、赤い、成熟した雌牛。このことからヴェーダ人は牛を他の動物以上によく犠牲にささげたし、紀元前1000年期の北インドでは牛肉が最もよく食べられる肉であった、と推測できる。

そのような、おしみなく牛を殺しその肉を食べる時代は、やがて、ヴェーダ人の首長たちが、もはや大量の牛の群を富の象徴として蓄えておけなくなるとともに、終わった。森林が縮小し、牧草地にスキが入り、それまでの半牧畜生活様式は、集中的な農耕と酪農に変わった。この変化は、単純なエネルギー関係に裏付けられていた。肉食を制限し、そして酪農と小麦、雑穀、レンズ豆、エンドウ豆、その他の作物の栽培を中心にすることによって、それまで以上に多くの人間が食べていけるようになったのだ。穀物を動物に食べさせ、その肉を人間が食べた場合、カロリーの9/10、蛋白質5グラムのうち、4グラムが失われる。酪農はこの損失をかなり減らすことができる。現在の乳牛が資料をカロリーに変える効率は、同じく現在の肉牛が資料を食肉と言うカロリーに変える効率の5倍である。また乳牛は肉牛の6倍の効率で資料を食用蛋白質にかえる。

人口密度が低い間は、未開墾地の草を牛に食べさせることができたし、一人当たりの牛肉生産を高いレベルに保てた。だが、人口密度が高くなるとともに、牛は人間と食物を取り合うようになり、やがて牛の肉はコストがあまりに高くつくものになって、首長たちは牛肉食を伴う公開供犠で、それまでのように気前よく振る舞えなくなった。しだいに人間に対する牛の割合が減り、それとともに牛肉の消費量も、とくに低いカーストでは少なくなった。しかし、そこにジレンマがあった。牛を全くなくすわけにはいかなかったのだ。農民はスキをひかすための牛を必要とした。スキは北インドに多い固い土壌を耕すのに必要だった。事実、ガンジス川流域平原の開墾に牛をひかせたスキを使い始めるとともに、人口の増加と、広く肉食一般、とくに牛肉食の中止も同時に始まったのである。もちろん、社会の全階級が同時に牛肉を食べる慣習を止めたのではない。特権階級のブラーマンとクシャトリアは、一般人を招いて喜びを分かち合うことができなくなったずっと後も、あいかわらず牛を殺し、牛肉を腹いっぱい食べていたのである。

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現在のインドおよび他国の企業家たちは、インドの「過剰」家畜を肉にして、外国、とくに石油で懐の豊かな、肉を欲しがっている中東の国々へ売れない物かと、しきりに狙っている。だから、ヒンドゥーの牛肉忌避は、インド産牛肉の大規模な国内市場あるいは国際市場の発達を阻止するのに役立ち、同時に、典型的な小規模農家を破産や土地を失うことから守っているのだ。もし足かせが説かれて大規模な牛肉市場が発達したら、インドの牛の価格は必ずや国際的な牛肉価格のレベルまで引き上げられるだろう。そうなれば家畜飼料はもっぱら牛肉生産用に使われてしまい、小規模経営の農民たちは農耕用の牛を飼ったり借りたり買うのが次第に難しくなるだろう。そして年々増加する人間にではなく家畜飼育に土地を振り向けるようになると、一握りの商人や富農が利益を独り占めし、残りの農民たちは生産、消費ともに低いレベルに落ち込んでいくに違いない。

牛を殺してはならないという戒律はあるものの、ヒンドゥー教徒の農民は、役に立たない牛を計画的にとりのぞいている。つまり、必要と環境条件によって雌牛にたいする雄牛の割合を巧みに調整しているのだ。現在のインドでは、ヒンドゥー教徒農民は、不要の牛を始末するのに、そのほかもう一つの方法を用いている。イスラム教徒の商人に売るのである。かれらは村からそういう牛を引き取り、地方の市で売る。それらの牛の多くは、最終的には合法的に、そうでないばあいは牛を殺すことを宗教的に禁じられていないほかのイスラム教徒によって、始末され、そのようなイスラム教徒は、結果的に、築牛解体処理業の独占といううまみをえることになる。牛肉と承知の上、またそうとは知らずに「マトン」として、かなりの量の牛肉を買っている。この「マトン」という雑肉表示ラベルは、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間の平和を維持するのに役立っている。ある経済学者によると、インドの7250万頭の牽引用雄牛を維持するには2400万頭いれば十分で、3000万頭の雌牛は過剰であり、それらを殺すか海外に売ることができれば皆の益になる、と断じている。

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食と文化の謎 1/7~肉が欲しい

本は常に読んでいるのだが、放浪生活の際、あまりに多くの本を持っていると重たくてつらい。4月時点で20冊ほどの本を持っていたが、現在10冊以下に減ってきた。軽くするために早く本を読みたかったので、書評も書くのをやめていたのだが、あまりに面白い本だったので、久しぶりに記録に残しておこうと思う。ヒンドゥーとイスラームの隣同士で、牛と豚を食べてはならないというのは、食料の奪い合い止めるための方便として、合理的な社会規範として成立しうるのではないか? と考えている私に対して、かなり合理的な説明を与えてくれた本でもある。

インドのヒンドゥー教徒が肉を食べず、ユダヤ教徒とイスラム教徒が豚肉を忌み嫌い、アメリカ人が犬のシチューなど考えただけで吐き気をもよおすことを考えると、何を食べるに良いものとするかを決めるポイントは、単なる消化生理学を超えたほかの何かである、と思わざるを得なくなる。

好んで選ばれる食物は、忌避される食物より、コスト(代価)に対する実際のベネフィットの差引勘定の割が良い食物なのだ。つまり、選ばれる食物は、忌避される食物に比べて一般的に、一皿当たりのエネルギー、蛋白質、ビタミン、ミネラルが多いのだ。食物によっては、非常に栄養豊かでありながら、それを作るには多大な時間と労力がかかるため、あるいは土壌や動植物の生活に悪い影響を与えるために、またそのほかの環境問題の理由で、はねつけられるものもある。世界各地の料理にみられる違いは、大部分、エコロジカルな制約と条件に理由を求められ、その制約と条件は地域によって異なることを、本書で明らかにしようと思う。

例えば、肉食中心の料理は、比較的低い人口密度、作物栽培に不向きか必要としない土地に関連がある。逆の菜食中心の料理は、高人口密度に結びついており、地勢、地味と食料生産技術の制約から、食用動物を飼育すると、人間が手に入れられる蛋白質とカロリーの総量が結局は減ってしまうことになるようなところである。このあとわかるように、ヒンドゥー教徒の場合、肉生産はエコロジー的に非実用的で、そのマイナスが肉食の栄養上のプラスをはるかに上回っているから、肉は食べないのである。栄養上のエコロジー上のコストとベネフィットは、貨幣経済上のコストとベネフィットと必ずしも同じではない、ということである。アメリカなどの市場経済では「食べるに適している」は「売るのに適している」を意味し、栄養価値とは別問題の可能性がある。母乳代用品としての乳児用の調合乳の販売は、栄養やエコロジーより収益性が優先される典型的な例だ。

狩猟採集民は、しばしば、しとめた獲物の肉の特定部分を、ときには全部を、食べないで捨ててしまうという行動である。たとえばオーストラリアのピャンジャラ族は、しとめたカンガルーに近づくと、肉に脂肪がどれだけついているか尻尾で調べ、その様子が芳しくない場合は、そのまま捨てていく。また考古学者たちの頭を長い間悩ましてきた問題がある。それは、アメリカの大平原地帯の古代の野牛狩りの跡についてである。殺した野牛の数箇所だけが持ち去られており、おそらくその部分は食べられたと思われるが、その他の部分は、食べられもせずに、倒した場所にそのまま置き去りになっているのだ。この一見不合理で気まぐれと思える行為に対する説明は、狩人たちが脂けのない肉ばかり食べていると餓死する危険があるからということだ。長年エスキモーとくらし、生肉だけを食べて健康を保つすべを学んだヴィルジャルムル・ステファンソンは、そういう食事は肉に脂肪が多い場合にのみ成立する、と警告している。かれは、エスキモーやインディアン、また、アメリカ西部海岸地帯の初期探検者たちの多くが脂けのないウサギの肉を食べすぎたためにかかったと考えられていた症状、つまりかれらが「ウサギ飢餓」と呼んだ現象の生々しい描写を残している。

普通の脂肪量の食事から、急にウサギの肉だけの食事に変えると、最初の数日間、食事の量はどんどん増え、約一週間後には、最初の3倍か4倍食べるようになる。その頃には飢餓と蛋白毒の症状が出ている。幾度も食事をする。食べても食べても空腹を感じる。食べすぎのために胃が膨れて、気持ちが悪くてたまらなくなり、漠然とした不安を覚えるようになる。一週間から10日後に下痢が始まり、脂肪を取らない限り止まらない。数週間後、死が訪れる。

ちなみに、真剣にダイエットしている人なら、この処方箋に、アーウィン・マクスウェル・スティルマン医学博士の、金儲けのうまい、効き目抜群の、しかし非常に危険なダイエットを思い起こすのではないだろうか。このダイエットは、食べたいだけの赤身の肉、鶏肉、魚をいくらでも食べさせ、それ以外は何も食べさせない方法である。この脂肪のないウサギ肉市場を買い占めた最初のダイエットクラブは、今後さらに一層の金儲けをするだろう。

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