藤原氏を糾弾する竹取物語
くらもちの皇子は、心たばかりある人にて
とのっけから、くらもちの皇子は謀略家であると辛辣に批判する。竹取物語の作者は貞観8年(866)に起きた応天門の変で藤原氏に仕組まれた紀氏の末裔、紀貫之だったのではないかとする説がある。くらもちの皇子=藤原不比等はもっとも卑劣な人物としてえがかれている。いっぽう石上麻呂と同一とされる中納言の場合、全く逆である。中納言はかぐや姫から「燕が持っている子安貝を取ってきて欲しい」と要求される。子安貝は皇子であり、物部氏が務めてきた皇子の養育係の地位の崩落にほかならない。物部氏が子安貝をつかみ損ね、藤原にその地位を横取りされてしまったのだ、と結論付けるのである。月の王らしきものがかぐや姫に向かって「いざ、かぐや姫、穢き所にいかでか久しくおはせむ」と言い放った。「穢き所」とは平安の世であり、藤原の天下である。
長屋王と藤原四兄弟の衝突、基皇子の夭逝とほぼ同時に聖武天皇と夫人・県犬養広刀自の間に安積親王が誕生したことが、長屋王の寿命を縮めた。このまま時間が推移すれば、安積親王が皇位を奪うはずだからである。藤原氏にすれば「藤原の天皇」は生命線である。そこで、藤原氏は光明子を皇后に押し上げることで、安積即位の芽を摘み取る作戦に出たのである。そうすれば安積よりもあとに光明子の皇子が生まれても、その皇子を即位させることができるし、光明子には阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)がいて、女帝を生みだすことも可能であった。皇族でないものを皇后に押し上げようとすれば、必ず長屋王が邪魔になると呼んだわけである。長屋王と室の吉備内親王、その子等が自尽して果てた。長屋王の変が冤罪であったことは続日本紀自身が認めている。
安積親王の死は深い謎に包まれている。聖武天皇は長屋王の弟・鈴鹿王と藤原仲麻呂に命じ、難波行幸に出発する。そして続日本紀にしたがえば途中の桜井頓宮(河内国)にさしかかったところで、安積親王は脚の病にかかり、急きょ恭仁京に引き返し、その二日後、安積親王は恭仁京で急逝するのである。安積親王の母は県犬養広刀自であり、この一族には、橘諸兄という強力な後押しがある。光明皇后の娘・阿部内親王がすでに太子となっていたが一つ歯車が狂えば、皇位をさらわれる危険が横たわっていた。
大炊王と藤原仲麻呂を暗殺する計画が露見したのである。密告によると黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂らが兵400をもって宮を囲み、残りの兵で不破の関を塞ぐという大がかりなものであった。ところが皇太后光明子が「連行された者たちは私の親族であるから、私を害するようなことをするわけがない」として解放してしまった。あわてたのは仲麻呂である。改めて兵を繰り出し、首謀者を連行した。孝謙天皇は、「謀反人たちを法に照らし合わせれば、死刑は免れるが、ここは温情をもって対処し、罪一等を減じる」と宣言したが、多くの者たちが非合法的に残酷な拷問で精根尽き果てて亡くなっていったわけである。
天武天皇以来続いてきた天武の血統をここで断ち切り、天智の血統の復活を目論んだのである。藤原にすれば聖武天皇から称徳天皇へと続く、「反藤原の天皇」に辟易したにちがいない。聖武も称徳も藤原の子であるはずだが、藤原四兄弟の死後、聖武天皇は豹変し、藤原との戦闘の道を選んだのである。聖武天皇が天武の子であることに目覚めた時点で、藤原の悲願は観念上の天智朝である持統朝を捨て本当の天智朝を復活させることに移っていったと思われる。幸運にも称徳天皇は独身女帝であり、子がいない。天武天皇の末裔は、奈良朝の数多の政争の中で、優秀な人材を次々に失っている。称徳天皇の崩御を受けて、藤原蔵下麻呂らが、天智天皇の孫・白壁王を皇太子にしたことが記録されている。称徳天皇は白壁王が最年長であるから、とするが、数え62歳という老いぼれをなぜここで担ぎ上げたのだろう。しかも光仁天皇は天武系ではない。天智の孫である。天武と天智は水と油であり、なぜ天武系の称徳天皇が白壁王擁立を援護したのか、釈然としない。白壁王は天智系であることから陰の存在であり、危険から身を避けるために酒浸りの生活を自演していたほどである。
藤原に殺された井上内親王
聖武天皇が反藤原運動に力を注ぐあまり、東大寺建立に没頭し、民百姓を作り出してしまったことは確かなことである。橘奈良麻呂は謀反の疑いで捕縛されたとき、皮肉なことに藤原仲麻呂政権が継承することとなった東大寺建設事業を非難している。だが逆に仲麻呂が事業を最初におしすすめた橘諸兄を非難し、奈良麻呂が反論できなかった、という場面が続日本紀にある。律令制の矛盾がすでに噴出し、国家財政が逼迫、土地を手放し逃亡する百姓は後を絶たないという状況は、天武朝を守らねばという使命感など朝廷の官人たちに残っているはずもなかった。
そこは老獪な藤原氏のことである。天武系の井上内親王を光仁天皇の皇后に押し立て、その子・他戸王を次期皇位継承者とした。これならば天武系の皇族を推していた諸卿たちも了承せざるを得なかったのではなかったか。藤原氏は光仁天皇を生むだけでは安心できないと踏んだのであろう。藤原百川は井上内親王の追い落としに出ている。皇后の井上内親王は巫蠱(まじないをし、人を呪うこと)をしたので、皇后位を剥奪された、という。桓武天皇は784年平安京の前身となる長岡京の造営を命じた。腐敗した奈良仏教界から逃れたかった。律令制度の矛盾と欠陥が露呈し、地方豪族が税を払わない方便として仏教にすがりついた、という。
貴族になった藤原氏
平安時代初期、源氏の出現が藤原氏の貴族化に拍車をかけた。源氏といえば武家の統領として名高いが、もともとは皇族賜姓にほかならない。皇族賜姓は皇室の経済的な困窮と天皇家の藩屏、すなわち守りを固めるためにはじまった。嵯峨天皇(809-823)が源姓を与え臣籍に下したことからはじまる。藤原氏にとって源氏は最大の脅威になった。源氏が天皇の末裔であるために他の氏族にはあり得ないような特別待遇を受け、若いうちから高位高官の役職に就くようになった。しかし、藤原氏もしたたかなもので、源氏に与えられた特例、前例を逆に利用し、それまで以上に優位な特権を引き出すことで対抗し焼け太っていく。
婚姻関係を結ぶだけで、これだけの力を発揮したかというと古代の婚姻形式に招婿婚があったからである。招婿婚とは結婚したら男性が妻の実家に入るというもので、古代における女性の地位の高さが確かめられる。天皇は結婚しても妻(后妃)の実家に入ることはないが、宮中に妻の自室である局を置き、これが妻の実家の役割を果たす。めでたく懐妊すると妻は本家の実家に戻り出産し巫女を育てる。ここで大切なことは皇子を女性の実家で育て、その女性の父母が皇子の成長を見守る、ということで、皇子と母、祖父母の間に非常に緊密な親愛の情が生まれるということである。
【差別被差別構造】
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