徳川家康が豊臣家の天下を奪う場合、どんな筋書きが考えられるか
衆主の手段を用いて天下を乱し、豊臣家の実権を失わせ徐々に政権の実を手に入れていく道だ。自分の息のかかった大名を使って紛争を生じさせたり、一揆を煽動したりする。戦国の余燼さめやらぬ今は、それもいと容易だ。諸侯間の領土争いは多いし、現状不満の大小名も少なくない。主家の滅亡や減封で浪人になった武士、自主権を奪われた地侍の類は諸所にあふれている。紛争、混乱の種はいくらでもあるのである。そして、一旦、それが起これば、250万石の大勢力と天下の大老としての立場を利用して家康が介入する。もちろん、結果的には徳川に心を寄せる者だけを有利に扱うのだ。「そんな場合、太閤なきあとの豊臣家に徳川に対抗する手段があるか・・・」彼は何年か前に考えた問題を今また復習した。その答えは、昔も今も「否」なのである。
諸侯間の紛争は中央政権である豊臣家に訴える建前になっているし、訴えがあれば五奉行がその是非善悪を判決することも可能だ。だが奉行の出した判決を実施する手段が無い。奉行には豊臣家直参の軍隊を動かす権限は無いし、五歳の幼児・秀頼にも後10年ほどはその能力と資格が無い。そしてなによりも豊臣家直参の軍そのものがさして豊富でも強力でもない。秀吉の軍事態勢は参加の諸侯を動員して戦うのであって自分の旗本を使うのではなかったからである。だが太閤なきあとは、奉行の決定に従って兵を出す大名は何人いるだろうか。ましてそれが豊臣家自身の問題ではなく、他家の紛争、混乱とあっては動く者はほとんどいないだろう。「結局、総ては家康のなすがままになって行く」と考えざるを得ない。もしこうしたことが二度、三度続けば、大部分の大名たちは徳川の指導下に入るだろう。家康に睨まれれば、どんな不利益を受けぬとも限らない、という恐怖に取りつかれるからだ。「そしてやがては豊臣家自身もその例外ではなくなる」と彼は思う。徳川の機嫌を取り結ぼうとする連中が、大阪城の中にも続出することは明らかだからである。
この筋書きを防ぐ方策は何か。これについては秀吉とその側近たちは一つの結論を出している。五大老の制度がそれである。つまり、徳川家康の勢力を豊臣政権の組織の中に組み込み、その動きを封じようとしたわけだ。この制度の中で徳川家康は五大老の筆頭になった。家康の持つ実力と勢力から見て当然のことだ。だが、いかに筆頭といえども、5人の中の1人となれば勝手なことはできない。原則として5人は同等者であり、決定はすべて合議によらねばならないからである。しかも大老たちの議を執行するのは五奉行である。そこには彼、石田三成をはじめ、増田長盛、長束正家ら熟達の官僚がいるから豊臣家のためにならぬ決定は執行を猶予することもできる。「この組織が健在である限り、家康の狼心を抑えることも困難ではあるまい」 彼は長い間そう信じていた。しかし、現実に秀吉が病に倒れ、その死期が近付くにつれて、不安がつのって来た。諸大名の動揺が想像以上に大きかったからだ。早くも「次の実力者」徳川家康に取り入り、自家の安全と繁栄を図ろうとする動きが雪崩のように広まっているのである。
豊臣家の財政は豊かだった。太閤秀吉は限りなく豪奢を好んだが、それを満たしてもなおかつ、大阪城には金穀があふれていたものだ。16世紀の日本は、群雄割拠の戦国時代だが、それだけにまた諸国の大名は勢力拡大を願い、領内の土地開発と産業振興に力を尽くしもした。愚昧、怠惰な大名は所領を失い、有能勤勉なものがこれに代わったことも開発成長を促した。つまり戦国という苛烈な競争社会では成長を刺激する自由競争の原理が有効に作用していたわけだ。そしてその成果が織田、豊臣の制覇によって確立された体制のもとに集結していたのである。
太閤秀吉は占領地や帰属した大名の所領を全国統一の尺度で検知させたが、その結果耕地面積と千三力が従来言われていたものの2倍以上に達していたところも少なくない。例えば、彼・石田三成が検知奉行を務めた九州・島津藩では、それまで21万5千石とされていたが精査の結果57万9千石であることが判明した。それまで地侍(豪族)や寺社が勝手に徴収していた年貢が一切廃止され、年貢は総て領主の島津家が統一的組織的に取り立てるようになったからだ。同時に年貢徴収権を失った地侍の多くは、領主から知領や扶持米をもらう家臣団に組み込まれた。つまり土地開発の成果が領主のもとに統括される新体制が確立したわけである。全国各地の検地に派遣された検地奉行たちは単に土地測量を行っただけではなく、新体制下での組織的な領地経営の技術指導をも行った。多くの検地奉行を務めた増田長盛、浅野長政、大谷吉継、細川幽斉、長束正家らは優れた領地経営のコンサルタントでもあったわけだ。中でも彼・石田三成は最も優秀かつ熱心な指導員であったらしい。この点で彼は島津、上杉、佐竹ら多くの諸侯から感謝されている。太閤は検地の度に各地に幾分かの蔵入地(豊臣家の直轄地)を設けたが、所領からの収入が二倍以上に増加した諸侯はさして文句も言わなかったのである。

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