「春峰庵秘蔵の肉筆浮世絵売立て」の紹介記事が載せられ、2点の写楽の肉筆を、当時の浮世絵研究家で国文学者でもあった笹川臨風博士が激賞し、売り立ての前景気を煽ったのである。「珍しゃ写楽の肉筆現る-日本にたった1枚しかなかった写楽の肉筆が大震災で灰になって以来、絶望視されていたところ、このほど大作2点が旧大名の秘庫から発見され鑑定した笹川臨風博士をして”世界の大発見”と推賞せしめた。笹川博士語る-秘蔵されているのは某大名華族で、春峰庵と号されている。19点の肉筆を拝見したが、写楽を初めいずれも得難い珍品揃いで、19点の評価はまず15万円から29万円のものではないかと思う」
この金額は現在に直すと5億円を超す。当時としては空前の売立てであった。ところが売立ての当日になって、これらはすべてあるグループが画策して作った偽物だということが判明したのである。春峰庵という号も架空のものであった。これらの作品を鑑定し、図録に解説まで寄せて、その価値を賞賛して憚らなかった笹川博士を初め、関係した浮世絵研究家たちは図らずも自らの不明を世間に宣伝したこととなった。贋作そのもには幸い無関係で刑事的責任こそ追及されなかったものの、以降、博士らは一切の研究生命を断たれてしまった。浮世絵研究家たちはこの事件をきっかけに肉筆の真贋問題から足を遠ざけてしまった。
版画の他に、写楽の作品として通っている扇面絵が2点ある。1点はお多福が豆をまいている図柄。もう一つは右の方にとよく似の版画を踏みつけている裸の子供が描かれていて、左の方にそれを眺めて悲しそうな表情をしている坊主頭の老人が立っているものだ。
この老人を蔦屋だとか、豊国だとかいう人もあるけど、蔦屋でももっと若いはずだし、豊国なんか寛政年間は30前後だからね-写楽が書いたものなら親密な関係を持っていた人間に違いないよ。そこで谷素外の話に戻る。この説を言いだした人はたまたま素外の肖像画を持っていた。疎外は江戸談林派という俳諧の宗匠で、その世界では大変な権力を持っていた。役者や浮世絵師も名を連ねているけど、大名までも彼の門下に入っていた。写楽の扇面絵が話題になった頃、その人は、この扇面の中の老人の顔をどこかで見た記憶があった。比較してみたら瓜二つというほど似ていた。ところが肖像画には絵師の名が入っていない。この絵師=写楽ということにもなりかねない。じっと肖像画を見つめていると、今まで何気なく読みすごしてきた素外自筆の讃が急に気になり始めたってわけだ-「みづからおのれがかたちに題して」と最初の1行は書かれてある。これは素外の自画像だ。こんな具合に素外=写楽説が誕生した。
蔦屋が本格的な出版に乗り出したのは安永5年に喜三二と知り合ってから。以来天明6年までの10年間に、着実に成長を遂げて寛政の初年には江戸一番の大手になった-そして、これが重要なんだけど、天明6年までに蔦屋が出発した百冊前後のうち、実に7割が喜三二のものだったり、喜三二が関係していた狂歌の本なんだ。狂歌の本の中には直接喜三二がからんだと書いてないけど、彼の仲立ちで蔦屋がこの狂歌の世界に入り込んだのは確実だからね-つまり、蔦屋は喜三二と親しくなって急激に成長したってことだな。もしかすると、蔦屋隆盛の裏には喜三二を通じて秋田藩からなにがしかの金が渡されたということもあるかも知れない。蔦屋にいくら商才があったとしても、出版には莫大な費用がかかる。かといって、堅実にやってばかりでは店を大きくできない。蔦屋には必ずパトロンが居たと思うんだ。まだ資料は出てこないけど、何となく喜三二と出会ってからの蔦屋の異常な発展を考えると秋田藩が蔦屋の商才を見込んで後援者になったという仮説もあながち見当外れじゃないような気がする。藩が出版社を経営してもおかしくない時代だからね-蔦屋は吉原大門口で小さな書店を開いていたから連日にように吉原に顔を出す晩得や喜三二を見て、出世の糸口だと喰らいついたんじゃないかな。蔦屋は吉原入り口の側で細見を売っていた。吉原の店の格式とか遊女の名前、出身地、揚げ代とか、とにかく吉原のことならなんでも分かるという今でいうガイドブック。
田沼意次が権勢を誇っていたら、秋田藩も安泰、蔦屋も万々歳ってとこだったろうが、天明6年に田沼が失脚したことによって蔦屋の経営も苦しくなり始めた。そこに第一回目の発禁処分を言い渡された。寛政3年の京伝本は4回目で、第1回目は喜三二のものがひっかかっている。天明8年「文武二道万石通」。これは寛政の改革を進めた松平定信の政治を皮肉ったもので喜三二はこれが原因で黄表紙、洒落本類から一切筆を断たれてしまった。松平定信は蔦屋が田沼意次に関係あると見ていた。だから難癖をつけて蔦屋を潰してしまおうと狙っていた。面と向かったら、すぐ潰されてしまう。あくまでも法に触れない形で、蔦屋の勢力を巨大にしていかなければならないだろう-彼らは資金面や人員を集めることは手助けしても、アイデアは蔦屋に任せたんだろう。そして生まれたのが写楽だ。全く無名の絵師に巨大な資本を投入して、江戸一番の人気絵師にする。これが成功すれば蔦屋の名は押しも押されもせぬものになる。蔦屋はこれだけ強大な影響力を世間に対して持っているんだと定信に見せつけてやることができる。
平賀源内は牢で死なずに田沼の領地である静岡で何年か暮らしたと言われている。田沼が最も力があった時代だよ。そのくらいのことがあっても不思議ではない-別の死体を運び込んで源内の身代わりにした。写楽が直武門下の昌栄ってことになると、源内生存説も否定はできなくなった。蔦屋があれほど写楽の正体をひた隠しにしたのは写楽の線をたぐると源内に行きつく可能性があった。田沼グループは源内の生存を知っていた。だが田沼の失脚寛政年間では、絶対にそれを口外できない。知れると全員の首が飛ぶ。無名の絵師に莫大な資本を投下して短期間で人気者にする。いくら蔦屋の商才が卓抜だったとしてもそこまで考えるつくことができただろうか-国威を捨ててもロシアと通商を開始せよと、田沼に進言したと言う源内ならではの発想だ。
写楽殺人事件 (講談社文庫) 高橋 克彦 講談社 1986-07-08 |
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