中央ユーラシア
中央ユーラシアということばは、耳慣れないものかもしれない。その語に地理学的な意味ではっきりした定義があるわけではない。内陸アジアと呼び変えてもよいのだが、イメージとしてはそれより広い。内陸アジアと呼び変えてもよいのだが、イメージとしてはそれより広い。北アジア、中央アジア、南ロシア、東ヨーロッパ、そして東北アジアを含み込む地域である。
草原の都市文明 遊牧民にとっての軍事都市
草原の中に都市を見ることは、いまでは、それほど稀なことではない。だが歴史の上で遊牧民が都市を必要としたのは、家畜の遊牧という日常の生業に由来するのではなかった。スキタイも匈奴も定住する街を持たず、城塞も築かず、家畜を追って移動する民であると、たがいに300年という時間と数千キロの距離を隔てて生きたヘロドトス(前5世紀)と司馬遷(前2世紀ころ)はまるで示し合わせたかのように、全く同じような遊牧民のすがただったと考えてまちがいはない。司馬遷が『史記』で匈奴についてえがいた一文は、遊牧民の基本生活をよくあらわしている。
牧畜をしながら移動する。水と草をおって移り住み、城郭や定住、農耕のなりわいを持たない。しかし、それぞれに領域は持っている。文字を持たず、言葉によって約束ごとをする。働き盛りの者がうまくてよい肉を食べて、年老いたものはその余りを食べる。壮健を尊び、老弱は軽んぜられる。
儒教精神から見ればとんでもないことであろう。だが、それは農耕社会で生まれた倫理観にすぎない。一生の間、いな、世代を超えて永遠に続けなければならない家畜の世話の明け暮れは、老人や弱者に重きを置くことを許さない。騎馬軍による家畜の争奪戦や、農耕地の富の略奪戦に老弱が役に立たないのも節理である。
9世紀モンゴル高原の覇権を失ったウイグルの支配者集団は、南方と西方に散った。
西へ移動したウイグル集団の動きを追って行く。天山山脈の北麓を経由し、草原帯の西へと道をたどったウイグル集団があった。その一部は、天山の西部あたり、いまのカザフスタン東南部のバルハシ湖と、キルギズスタン東北部のイッシク-クル(湖)に挟まれた草原とオアシスに入った。この地域はセミレシエとも呼ばれ、その当時、テュルク系の一部族、カルルクの勢力が強いところであった。カルルクはもともとアルタイ山脈の西の草原にあって8世紀半ばにはウイグルと連合して支配を覆した集団である。しかし、遊牧ウイグル国家の成長の中で、一部を除くと離反して、この天山西部に拠点を持った。そして唐軍が天山南部のオアシスを配下に入れ、天山を越えて北へ進出してくるとその一翼を担った。史上名高いタラス河畔の戦い(751年)で唐がイスラーム軍に敗れたのは、このカルルクの唐からの離反が一員であった。草原の遊牧集団があちこちに分布するなかで西走ウイグルの一部の集団はこの中に吸収されていったのだが、以後、この地域にこの系統のウイグルの名は確かめられなくなる。
東部天山山脈の南北、現在の新疆ウイグル自治区に草原とオアシスをあわせもつ政治的なまとまりが生まれたことにより、東西貿易に新しい重心が生じた。この王国の根本をおなじくするウイグル集団が河西地方に生まれたこととあわせて、中国、とくに宋が西方地域に対してもった認識の中ではウイグルは無視することのできない存在となった。とりわけ宋の全半期、北のキタン(遼)との対立の中で重要な要素であった。その基本状況はタングート(西夏)が河西を席巻する11世紀前半までつづく。また13世紀のモンゴル帝国出現に至るまで、中央アジアにウイグルによる一大文化圏が形成されていたことはそれにもまして大きな意味を持つ。
中央ユーラシアにおけるキタン
モンゴル高原の東南端、いまの中国内蒙古自治区から遼寧省にかかるあたりと、中国の華北の地、そして黄河にかこまれるオルドス地域とその西のいわゆる河西地方が、本章の中心になる。唐の滅亡と同時に、つまり10世紀はじめから、「契丹」と漢字で書かれるキタン族がまとまりをもち、いわゆるマンチュリア(中国東北部)をほぼ統一し、五代十国時代のあいだに、燕雲十六州を獲得し、さらにモンゴル高原に拡大して宋の北辺を領域として、西北辺のタングートとともに、宋の中央ユーラシアへのルートを完全におさえたのであった。これが中華風に言えば、遼王朝(916~1125年)である。
キタイ(キタン)は中国の代名詞になった
ロシア語で中国をキタイというのは、こうした伝播の結果であるし、1946年に開業の香港のキャセイパシフィック航空のキャセイもヨーロッパにつたわったキタイ~カタイの英語読みからの命名なのである。
南宋時代の地図
金と宋
宋がキタン遼国に支払っている歳幣はジュシェン金国にまわすこと、金はこの戦闘で長城を南に越えないこと、金・宋同盟ののちは金・遼の講和をしないこと。さらに宋から追加された条件は、長城の南にある燕京(北京)と西京(大同)についてであった。燕京は宋が攻め、西京攻撃は金におこなってほしいが、占領後に宋に帰するという。アクダは宋のむしのよさに反駁し、宋もこたえられずにいた。双方の本当の腹が決まらないうちに、キタン遼への両軍の攻撃が始まってしまった。1122年、金は約束通りキタンの西京を落として、遼の天咋帝はタングート西夏の支配する黄河の北、陰山に脱出した。ところが宋は、その前に江南に勃発した方ろうの乱の鎮圧のために、燕攻撃に準備した15万の軍をまわさざるをえず、攻撃が遅れた。この宋軍は、しかし、キタン遼の最後の砦として残る燕の軍隊に破れたため、当初の申し出を自らやぶって金の援軍を要請し、ようやく燕は落ちた。アクダは、約束通り燕を宋にひきわたし、銭100万ビンと糧食20万石を得た。しかし宋は、歳幣を支払おうとしないばかりか、遼の天咋帝と連絡をとって金の西部撹乱を狙った。
金は茶、香料、薬品、絹織物、木綿、銭、牛、米などを宋から輸入し、はんたいに毛皮、人参、甘草、馬などジュシェンの物産のほか、山東の絹織物などを宋に輸出した。しかし、華北に住む多数の漢人と、その生活を模倣していったジュシェン人たちのための消費物質が大量に必要となって、金側の輸入超過が常であった。宋からの歳貢ちすて金領に入った銀なども皇室から民間に流れ、結局はこうした貿易によって宋に還流していったと考えられる。経済の実力派あきらかに江南の宋がにぎっていたのである。
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