王族専有のダイヤモンド
時代が降って近世に近づくにつれて護身符としてのみ使われていたダイヤモンドは再び装身具として登場することになる。これは14世紀後半頃からダイヤモンドの研磨技術がヨーロッパに発達しはじめ、原石をテーブルカットやローゼンツ・カットすることによって美しい輝きを増すことができるようになったためであった。また、当時唯一のダイヤモンド産出国であるインドとの交易が漸増し、ヨーロッパへの輸入量が増えてきたことにもよるのである。もっとも輸入量が増えたとはいっても、当時ダイヤモンドは決して大衆の持ち物にはなっていなかった。もっぱら王族貴族の専有物であり、その所有は高貴の人々にだけ許されることが法律で決められていた。例えば、イギリスでは1283年に、宝石(ダイヤモンドに限らない)の着用は、高貴の生まれの者のみに許されるという法律が制定された。1363年に改正されたこの法律によると騎士さえ宝石の着用は認められないようになった。同じような法律がフランスでもスペインでも発布されている。16,7世紀まではダイヤモンドは宝石の中心的位置を占めていなかった。当時多く使われていた宝石は真珠であり、ルビーであった。インドから輸入されてくるダイヤモンドの絶対量が圧倒的に少なく、東洋から入る真珠の方が遥かに多かったこと、研磨技術が十分に発達せず、原石のまま使われていたダイヤモンドの美しさは、赤や青の宝石であるルビーやサファイヤの美しさより一見劣っていたことなどがその原因だろう。ダイヤモンドが宝石の中心的位置を占めるようになるのは、インドとの交易がさらに伸び、一方、ブリリアントカットが発明された17世紀末の頃からである。
女性とダイヤモンド
男性の専有物であったダイヤモンドを何時ごろから女性が使い始めたのだろうか。フランスのシャルル7世の情婦アニェス・ソレルが最初にダイヤモンドを使った女性であり、それは1444年頃からのようである。この話は広く信じられているようであるが、実際にはアニェス・ソレル以前にも王族の女性がダイヤモンドを着用していたという証拠がある。たとえば、1319年づけのフランス王室所蔵のプリンセス用の宝石目録の中や、1369年、イギリスのリチャード2世が、フランスのイザベルと結婚した時贈った首飾りなどにダイヤモンドが使われている。1300年代のはじめからダイヤモンドは女性の装身具に使われていたとはいえ、1500~1600頃までは依然として、主として男性によって使われていた。やがてエリザベス女王(1世)があらわれ、一方ブリリアント・カットが発明されるようになるとこの関係は徐々に逆転して、ダイヤモンドは主として女性の持ち物へと変わっていくのである。
革命とダイヤモンド
産業ブルジョアジーが出現する以前には、王侯貴族以外には高価な宝石を持つだけの財力のある階層が存在しなかったので、革命が起こるたびに宝石の使用量は激減していたようである。例えば、クロムウェルがおこなったイギリス革命後、王制が復帰するまでの間は宝石の使用は完全に衰退してしまったし、フランスの革命では宝石類は王制の象徴として投げ捨てられたり盗まれたりして、まったくかえりみられなかった。フランス革命の際、1792年に有名なブルー色のダイヤモンド「ホープ」(ルイ14世が1668年にタベルニエから購入した。当時112カラット)は盗まれ、その後長い間にわたって完全に陰をひそめてしまった。1830年にロンドンのダイヤモンド市場に重さ44.5カラットのブルー色のダイヤモンドがあらわれた。さらに降って1874年にブランスウィック公爵所蔵の宝石が売りに出された時、そのなかに同じブルー色の小粒のダイヤモンドがあった。ブルー色のダイヤモンドは元来非常に珍しいものであり、ことにこのような大粒の石はほとんど存在しないからおそらくこれらのダイヤモンドは「ホープ」が再カットされたものではないかと想像されているが確証はない。同じような大粒のダイヤモンドにまつわる話はたくさんある。あるものは盗難にあり、殺人を引き起こし、革命を巻き起こす原因ともなった。その一つの例としてマリー・アントワネットのネックレスの話を紹介しておきたい。ルイ15世は高価なダイヤモンドのネックレスを宝石業者に注文したまま死んでしまったが、その後を受けたルイ16世も皇后のマリーアントワネットも宝石業者からこれを受け取ろうとしなかった。一方、マダム・ラモットはこのネックレスを無償で手中に収めようとして奸計をたくらみ、当時、不興を蒙り引退していたローアンの枢機卿に近づき、皇后が秘密裏にこのネックレスを買い入れようとしていると信じ込ませてしまった。この嘘を信じ込んだ枢機卿は宝石業者を信用させてネックレスを提出させ、マダム・ラモットに差し出した。彼女はネックレスを入手すると直ちにイギリスに逃げ、売却しまったのである。このことを知らない宝石業者は皇后に代金を請求して、はじめてペテンにかかったことがわかった。ルイ16世も女王も代金の支払いを拒否したのはもちろんである。時に1786年だった。このスキャンダルはマリー・アントワネットのネックレス事件として有名で、ちょうどそのころ勃発したフランス革命の発生にも。マリー・アントワネットがギロチンにかけられてはなかい一生を終わるのにも何らかの影響を及ぼすもとになったのではないかと言われている。革命に伴ってフランス王室に所蔵されていた数多くのダイヤモンドは盗まれ散逸してしまった。ナポレオンが王制を復活してから、そのうちの多くがふたたび王室に帰ったとはいえ、「ホープ」のように完全に姿を消してしまったものも多い。やがてウォータールーの敗戦に伴い、フランスにおける宝石の使用はいちじるしく減退していくが、一方イギリスでは、産業革命に応じて宝石の着用が逆に増え、それまで高貴のものの専有物であったダイヤモンドはブルジョア階級の間にも染み渡っていくようになる。
ダイヤモンドの大衆化
1866年、南アフリカにおいてダイヤモンドの大鉱床が発見されてこの傾向にいっそうの拍車をかけた。オレンジ川流域に住む一農童が大粒のダイヤモンドを発見したという噂がひとたび広がると、ゴールドラッシュならぬダイヤモンド・ラッシュがこの地に出現した。数年のうち、ジャガースフォンテイン、デュトイッスパン、ブルフォンテイン、キンバレーなどの大鉱床が発見されていきダイヤモンドの産額は急カーブに上昇して市場に氾濫していった。さらに時がたつにしたがって個々に行われていた採掘も順次統一されて大企業による近代的な採掘法に変わり、それまで最も珍しい宝石であったダイヤモンドは一般的な宝石へと姿を変えていく。大量の産出による値下がりを防ぐために、南アフリカのダイヤモンド鉱業会社が中心となって全世界のダイヤモンド鉱業者を組織して作った統一販売機関であるダイヤモンド・シンジケートが設立され、価格を安定化すると共に、世界的な規模での宣伝を始めたことが、ダイヤモンド宝石の大衆化をうながす契機になった。「ダイヤモンドは乙女の最高の友」というキャッチフレーズによってダイヤモンドの需要を促進したのも、エンゲージ・リングはダイヤモンドに限るという空気を一般大衆の間にしみこませたのもダイヤモンド・シンジケートが仕組んだことである。と同時に一般的な宝石になるほど大量に算出しているにもかかわらず、その価格が長い間安定し、値上がりこそすれ決して価格の暴落が見られないようになっているのも、またこのダイヤモンドシンジケーションによる独占的・統一的な生産販売の結果である。
【資源獲得競争】
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