韓信
陳余は井陘城に入って布陣を終えたとき、自軍の堂々たる軍容と陣形のうつくしさに、陶然としたといわれる。主要陣地は
井陘城だが、付近にも様々な小塁をきずいて兵員を入れた。この大規模をさらに補強するように、陣前に抵水が流れ、自
然の外堀をなしていた。
 「広武君よ」と李左車を尊称で呼んだ。「これが王者の軍というものだ、広武君よ、君の作戦案がまちがっていたことが、こ
の陣形のすばらしさをみてもわかるだろう」と陳余はいった。李左車は作戦案をたてて陳余にはねつけられているのである。
 「韓信の不利は、井陘の難所を通ってくることです」狭い道を韓信の輜重部隊がやってくる。その輜重部隊と本軍とを断ち
切ってしまえば、ただでさえ孤軍のかれらは戦う前に枯れてしまわざるをえない。私に兵3万をください、間道づたいに韓信
軍に近づき、かれらからまず食料を奪い、ついで本軍をずたずたにして戦う気力をうしなわせましょうといったのだが、陳余
は「なにをいうのか」とたしなめた。かれがまずいったのは陳腐な基礎理論だった。兵書に兵数が敵に10倍しておれば相手
を包囲し、2倍ならば進んで戦う
、とある、いま我々は敵に10倍している、その上敵は懸軍万里、疲労しきっているというのに、
これに対し奇計を用いれば、近隣諸国はわが国を臆病と軽んずるようになるだろう、と言い「大軍は正々堂々と戦うべきもの
なのだ」といった。作戦というより思想というべきものであった。
これによって韓信は安んじて井陘の道を通過した。やがて井陘口の手前20キロの山中で軍をとどめ、宿営し、同時に最後の
攻撃準備をした。このとき彼は後世に有名な「背水の陣」の作戦をことごとく準備しおえるのである。まず奇計用の部隊2000
人を編成し、その一人一人に漢軍のしるしである赤い旗を持たせ、「敵に見つからずに山中の間道を縫い、山上から敵の井
陘城を望見できるところまで行って埋伏しておれ」と、命じた。いま一つこの部隊に命じた。戦いの最中に私はいつわって軍を
敗走させる
つもりだ、敵はおそらく井陘や諸塁をからにして追ってくるだろう。すかさずお前たちはからの敵の城塁に入り、漢
の赤旗を林立させよ
、というものであった。
翌朝、韓信は全軍、といっても約2万人にすぎなかったが、を三段に分け、暗いうちに全軍に簡単な食事をとらせた。その上で
諸隊長を呼び集め、「正規の朝食は、戦いが終わってから摂ろう」といった。諸将はおどろいた。朝飯前にいくさが片付く、勝つ、
ということであった。敵陣の配置やその付近の地図を書き、最後に大きく線をひっぱって、「これが抵水の流れだ」と、いった。
諸君はこの抵水の流れの内側-敵陣の側-に入って陣を布け、といった。抵水を背にするということであった。
「それでは背水になりますが」諸将はおどろいた。背水の陣は凶であるとして兵家がいましめている。
「背水でいい。やがて私が最後の隊をひきいて出てゆく」
「将軍がこられる前に敵がしかけてくればどうなります」背後の水に飛び込んで溺死せざるをえないではないか。
「決して敵は仕掛けて来ない」韓信は、敵を読みきっているように言った。敵が欲しいのは主将である韓信の首で韓信さえ討
ち取れば漢軍は四散する。先発軍が背水して布陣しても、これを仕掛けて潰乱させれば、肝心の韓信の本軍が戦わずに逃
げてしまう。敵はそう思って自重する、と韓信は言うのである。
1万人の先発軍が井陘口から野に出た時はまだ夜が続いていた。趙軍は韓信軍の松明の群れを見、物見を派遣し、舐める
ように動きを探り続けたが、やがてかれらが抵水を背にして布陣したのを見ると、走卒にいたるまで「韓信は兵法を知らない」
と口々に言い、大笑した。韓信が買いたかったのはこの嘲笑
であった。やがて空が白みはじめる頃、韓信の本体が井陘口か
らあらわれた。大将旗をひるがえし、鼓を鳴らして勢いよく趙軍にむかって進撃してきた。先着の主力軍は抵水のほとりで動
かない。進撃してくるのは、韓信と張耳の直率部隊だけであった。
「もうよかろう」陳余は諸将に命じた。どの城塁もいっせいに門を開き、諸隊がさきをあらそって押し出した。大軍に戦法なしと
いわれる。勢いがあればよかった。李左車さえそういう気になった。逃げて溺死するほどなら、戦うほうがまだ生きのびる見込
みがあった。生きようと思えば、敵を破ることしかなく、たれもが恐怖のなかでそう思った。「死にたくなければ戦え」と下級指
揮官にいたるまで口々に叫び、直率部隊と第二陣とが一つになって敵に向かって突進した。しかし趙軍は多く、味方は寡く、
戦場にくりひろげられた戦いの渦はともすれば趙軍のほうが有利であった。そのとき戦場の一角で異変が起こった。韓信が
かくしていた2000の部隊が山から出現し、疾走して趙軍の空城や塁に入り、城頭や塁頭に2000本の赤い旗を立てたので
ある。
趙軍に大恐慌がおこった。「漢はすでに趙王や陳余を殺して城塁を奪った」とたれもが思い、兵は故郷に帰るべく逃げはじめ、
ついに大潰乱した。陳余もこのなかにいた。おれはここにいる、と叫び続けたのだが
、彼自身、どこへなりとも逃げたかった。
このころになると空城の占拠軍が打って出、背水軍とともに趙軍を挟撃した。やがて戦いが終わり、趙王、陳余、李左車がと
らえられた。韓信は約束どおり全軍に休息を命じ、朝食を出した。

>ここ、戦闘シーン、最大の見せ場じゃねーか? 
そして、これはボスコーンとゲノン総督。
これでわかった読者はツウ。
ベルセルクのドルドレイ城攻防戦だ。実はここもベルセルクで一番好きと言える部分なので
まー、こういうの好きなんだな。俺は。

照れ屋さん、硬派な韓信
「斉王広の栄華のあとでございます」と、かつての王の寝所に案内されたときも何の感動もせず「夜露をふせげればいいの
だ」といって重い長靴のまま絹の夜具の上にあがり、長剣をひきよせて眠った
。韓信は妻を持たない。妾もなかった。人がそ
の理由を聞くたびに韓信はその質問そのものが不思議でならないように、「ワイ陰城下の貧士に娘をくれるような物好きが
いたとおもうか」と、いった。
 韓信が食事を終え、戒装のまま寝所に入ったとき「なんだ」思わず声を上げたほどに驚いた。足元から白い雲が沸き立つ
ようにうごきやがて前後に纏わりついて韓信は長靴をぬがされ、足を湯の中に浸けられてしまった。「なんだ、お前たちは」
言ううちに絹のようにしなやかな手がいくつも動いて戒装をぬがされ、今度は体ごとたらいの湯のなかに沈められた。
(ああ、カイセイが言っていた女どもとは、この者たちか)なぞが解けると、韓信は興味の半ばをうしなった。不意のことでも
あり体をさわられるのがわずらわしく、とくに湯浴みのあと絹の寝衣に着かえされた時は、これは私の習慣と違う、と声をあ
らげてしかった。
「私は戦いが続いている限り戒衣を脱がないのだ」
「わたくしどもは陛下の御寝のおやすらぎのために仕えております」
「わしは陛下ではない」
「まあ、王のことを陛下と称え奉るのは当然ではございませぬか」
「わしは斉王ではない」
「では斉王はどなたでございます」
(だれだろう)、厳密に言えば、東方まで逃げていった斉王広こそそうであろうが、この乱世ではどの王も自立の要素が濃く、
その資格は武力に拠っている。いったん軍隊をうしなった王はひとびとは王とはみとめないのである。
「ところで御寝のぐあいはいかがでしょうか」カイセイは急に話題を変えた。
韓信は何のことか言葉の意味が分からず、カイセイの顔をじっと見つめていたがやがて気づき、「ばか」といった。わけも
なく、顔が赤くなった。
項羽の記述
ほんの先刻、楚の壮士がそこにいた岩の上に別の巨漢が立ちはだかっていたのである。ローファンは夢中で次の矢を構え
た。巨漢は弓さえ持っていない。両者はせいぜい40メートルの距離であり、ローファンの腕なら敵の体のどの部分でも射抜
くことができた。が、敵は肉体ではなかった。気が凝って渦を巻き、そのまわりが炎のように燃えている一個のおそるべきな
にかだった。甲冑の金ぴょうがかがやき、朱が燃え、かぶとの目庇の銀が陽をするどく跳ね返していたが、それよりもすさま
じかったのは、炬のような両眼であった。両眼がいかり、数千の矢の束をローファンの細い目に射注ぎ込んでくるようで、ロ
ーファンは正視する能力を喪った。それでもなお弓をひきしぼろうとしたとき、巨漢が真っ赤な口蓋をみせて叱咤した。声は
すさまじい殺気になってローファンを圧倒し、体中の腱が溶けるように萎えてしまった。ローファンは馬から萎れるように降り
てしまい、馬を置き捨て後は病み犬のような足取りで径をよじのぼり、付近の楼に逃げ込んだ。
楼の中でふるえ、二度と潤むこうをみることをせず「項王だ。項王が出た」と、うわごとのようにつぶやきつづけたという。
義とは、骨肉の情や人間としての自然の情(たとえば命が惜しい)を超えて倫理的にそうあらねばならぬことをさす。義は戦
国期にできあがった倫理ではないかと思われる。のちに儒教に取り入れられて内容が複雑になり、また反面、義という文字
から儀礼の儀という文字がつくられてゆくように儒教では多分に形骸化されて礼儀作法とか、人と人とのつきあいの仕方と
いったものへ衰弱してしまう。だがこの時代は戦国期からほどもない時代だけに、この流行の精神は初期のたけだけしさや
壮烈さをうしなっていなかった。義という文字は解字から言えば羊と我を複合させて作られたとされる。羊はヒツジから転じ
て美しいという意味を持つ。羊・我は、「我を美しくする」ということであろう。古義では「人が美しく舞う姿」をさしたともいわれ
るが、要するに人情という我を殺して倫理的な美を遂げる。命がけのかっこうよさ、ということを言い、この秦末の乱世では
庶民はしばしばこの言葉を口にした。項羽が義ということでそのおじの項伯を不問に付したのは多分に流行思想に影響さ
れていたということも、言えなくはない。
項羽は虜姫を抱いたまま熟睡した。やがて乙夜(夜9時から11時まで)が過ぎるころ、眠りが浅くなった。遠くで風が樹木を
鳴らしている。風か、と思ったが、軍勢のざわめきのようでもあった。(あれは楚歌ではないか) 項羽は、跳ね起きた。武装
をして城楼にのぼってみると、地に満ちた篝火が、そのまま満天の星につらなっている。歌は、この城内の者がうたってい
るのではなく、すべて城外の野から湧き上がっているのである。楚の国は言語が中原と異なっているだけではなく、音律も
ちがっている。楚の音律は悲しく、ときにはむせぶようであり、ときに怨ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌である
ことがわかる。しかも四面ことごとく楚歌であった。
わが兵が、こうもおびただしく漢に味方したか。とおもったとき、楚人の大王としての項羽は自分の命運の尽きたことを
知った
。楚人に擁せられてこその楚王であり、楚人が去れば王としての項羽は、もはやこの地上に存在しない。しかしこの
楚歌はどういう人々がうたったのであろう。城のまわりに居るのは、韓信の軍で、楚兵はいない。あるいはゲイフ、リュウカ、
周殷という楚兵を率いる諸将が前面に出てきたのか。前面に出るとすれば部署がえがあったわけだが、既に韓信という
ものが先鋒である以上、劉邦があとにしこりをのこすそういう処置をするはずがなかった。古来、韓信が兵に楚歌をうたわ
せたのだという説がある。しかし韓信の作戦癖からいえばその奇想はつねに物理的着想で、このように項羽そのひとの
心の張りをうしなわせるような心理的効果を考えていわば陰気な発想をとるとはおもわれない。歌は、自然にわきおこった
のであろう。しかし、どういう人々が歌ったのかとなると繰り返すようだが、わからない。あるいは風に乗ってきこえてきた似
たような音律を項羽が聞き間違えたのかどうか。いずれにしても項羽はこの歌によって寝に就く前の様子とはちがった行動
へ方角を切り替えたことはたしかであった。

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