劉邦
「俺は竜の子だ」おれが尋常な人間であるかないか、からだじゅうの黒子の数をかぞえればわかることだ。「72個だ」
すべての物質は「水火木金土」の5つの元素に帰するという五行説、当時1年は360日しかない。この数値を五行
の5で割れば劉邦の黒子とおなじ数72になる。だから俺は特別な人間だ、と劉邦は言う。
しかも、この理論には抜き差しならぬ実証があった。劉邦の顔であった。「あれは竜の顔だ」
まず眉の骨が高く、それがまるく弧を描いている。顔は全体に中高で、鼻柱においていっそう隆くなっており、鼻の肉もた
っぷりついていてよく伸び、その姿が心地よい。竜の顔であった。もっとも、竜がどういう顔をしているのかたれも見たもの
はいない。
>もっとも、竜がどういう顔をしているのかたれも見たものはいない。
これ良いね。こういうノリ好きだな。知的な突っ込み。あー、やっぱり遼ちゃん、大阪人なのね。
でも私が見た中で最もお洒落な大阪人の突っ込みです。これ。あっぱれ!!
秦の将軍ショウカン様への投稿のお手紙 written by 陳余
まず、秦の歴世の名将の運命から説く。今は昔のことながら、秦の白起将軍(~紀元前257年)を想起されよ、と陳余はいう。
白起の軍功はめざましく南方ではエンやエイを平定し、北方では馬服君の大軍をやぶってことごとくあなうめにし、攻城略地の功
はあげて数うべかざるほどであった。ところが王(秦の昭王)によって白起はその年爵を奪われ、咸陽からも追われ、自殺を命じ
られた。また近くは秦の蒙テン将軍(紀元前210年)を想起されよ、と陳余は言う。蒙テンは始皇帝の命をうけて斉を攻め、大
功あり、ついで30万の兵をひきいて匈奴をオルドスに討ち、長城を補修して国境を鎮めた。でありながら始皇帝の死とともに宦
官の趙高の策略にかかり、自殺させられた。なぜ秦においてはそうなのか、と陳余は言う。功績がありすぎると、それに報いように
も土地が無いため、法にかこつけ、誅殺することによって問題を片付けてしまうのだ。それが秦の伝統的なやり方なのだ、あなたは
秦人だからよくご存知だろう、という。さらに陳余は、秦将の運命を歴史的に説いて現在におよぶ。いま人心は秦を離れ、反旗を
ひるがす諸将は日に日に増えている。しかしあなたの軍隊は逆に損耗するのみで日に日に減っている。これは天が秦を亡ぼそうと
していることの一つの証拠である。趙高が咸陽の官中・府中を牛耳ってしまっている以上、ショウカンが誠忠であればあるほど趙
高に憎まれ、軍功をたてればたてるほど趙高にとっての邪魔者になり、結局は皇帝の命令であなた腰斬の刑を受ける、あなたの
家族はかつての白起や蒙テンの家族と同様、みなごろしにされるだろう、と陳余は言う。
>光栄の三国志では、簡単に寝返りが起きて、引き抜き合戦になって面白くないと聞いている。
>三国志時代と歴史は違うものの、このようなことが背景にあったのだろう。
ショウカンが項羽に投降した。
項羽の楚の兵は、秦兵を奴隷扱いした。「我々はどうなるか」という狐疑が秦兵を動揺させ続けている。「いっそ、反乱を起こす
か」この種のささやきは、項羽にまで上申された。
秦兵というのは歴史的にも非秦人にとって強兵という印象が強く、捕虜になっても恐怖を感じざるを得ない。その上、20余万と
いう人数はいかに丸腰でも看視側の楚軍よりも多く、捕虜として連れて歩くには荷が重すぎた。項羽は決心した。
新安での秦軍20余万の宿割りはゲイフの配下の将校が決めた。城外でしかも地隙の多い地域が野営地として指定された。
垂直断崖で囲まれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。深夜、ゲイフ軍が秘密の運動をした。かれらは
足音をしのばせて黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけあけたのである。次いで、一時
に喚声をあげ、包囲を縮めた。この深夜の敵襲で、20余万の秦兵たちがぱにっくに陥った。かれらは一方に向かって走り出し、
たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖の向こうの空を踏み、そから人雪崩をつくって谷の底に流れ落ちた。
大虐殺は世界史にいくつか例がある。一つの人種が他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが
同人種内部で、それも20余万人という規模で行われたのは世界史的にも類がなさそうである。普通は大虐殺は兵器を用いる
が、殺戮側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように被殺者側に恐慌をおこさせ、彼ら自身の意思と足で
走らせて死者を製造するという狡猾な方法は、世界史上、この事件以外に例が無い。翌朝、項羽軍は総力を挙げて土工にな
った。すきやくわを持って断崖のふちにたち、数日かかって20余万の楚兵の死骸に土をかぶせ、史上最大のあなうめを完成した。
韓非子は、血縁、地縁の調整の上に辛うじて成立している君主権ではその働きが小さく、いざというときには命令権も指揮権
もすみずみまでとどきにくい、という基本的な疑問の上から、法をもって単純明快に世を治めるという法家の思想を築いた。老
子は政治において無為の道を説いたが、韓非子はいわば老子を政治学に仕立て上げたといえなくはない。老子も韓非子も、
その思想の絶対の前提として民はあくまでも無知無欲でなければならぬ、というところに置いており、多分に自然物になってし
まうはず民は、君主に対し、その存在や統治の重さとして感じない。また重さとして民に感じさせる政治は不可である、とする
あたり、思想としてもっとも魅力に富む部分だが、しかし底のない壺のように現実から遊離しているとも言える。
>うーん、理解できないなぁ。私利私欲にまみれている人間のことを民と呼んでいるのだが。
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