ローマ誕生
ローマ人は昔から、紀元前753年にローマを建国したのはロムルスであり、そのロムルスはトロイから逃れてきた
アイネイアスの子孫にあたると信じてきた。ところが、ギリシアと交流しはじめるようになると、ギリシア人はロ
ーマ人にトロイの陥落は紀元前13世紀頃の出来事であることを告げたらしい。伝承伝説の世界では、合理的である
よりは荒唐無稽であったほうが喜ばれる。適度に400年を消化した後に、伝説は一人の王女の登場を迎えた。アル
バロンガの王の娘であった彼女に、軍神マルスが一目ぼれし、双児が生まれた。ロムルスとレムスと名づけられた。
ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘にと、それぞれ
勢力基盤を置くことに決めた。
勢力圏の境界を示すためにロムルスが掘った溝をレムスが飛び越え、ロムルスがレムスを殺した。建設者ロムルス
の名をとって名づけられたといわれるローマはこうして誕生した。前753年4月のこととされている。
エトルリア人
エトルリア人の文字はまだ完全には解読されていない。それゆえに長く、謎の民族と言われてきた。エトルリア人と
いう意味でエトルスクというが、これも固有の一民族を指しているのかはっきりしていない。古代でも、現代のトス
カナとウンブリアとラツィオの北部を合わせた地方に住んで人々を総称して、エトルスク、つまりエトルリア人と呼
んでいたらしい。イタリア中部には、鉱山が多く分布していた。この地方に住みついたエトルリア人は、天然の恵み
を活用、優秀な技術者になった。古代のエトルリアは、12の都市国家の連邦制をとっていた。連邦制はとっても、各
都市国家には独立の傾向が強く、常に共同歩調をとるのは宗教上のことぐらいで、政治や経済や軍事では一致した
行動を取るのが不得手だった。ティレニア海の制海権をめぐって、カルタゴやギリシアとしのぎをけずったこともあ
る。紀元前八世紀から前六世紀にかけてのエトルリアの勢力はローマなど寄せつけないくらいに強かった。
生まれたばかりのローマがエトルリアと南伊のギリシアの二大勢力の谷間に温存されたのは当時のエトルリア人とギ
リシア人がローマの独立を尊重してくれたからではない。当時のローマには、自分たちの勢力圏に加えたいと思わせる
だけの魅力がまったく無かったからである。
共和制ローマ
エトルリア人の流出によって低下したローマの経済力の回復を、プブリコラは、オスティアの塩田でとれる塩の販売を
個人から国家に移すことで解決しようとした。塩は、流通貨幣を持たない当時のローマでは、他国からの物産の輸入に
通貨の代わりをしている。プブリコラは生活必需品の第一である塩の国有化というよりも、通貨の国有化を考えたので
ある。何よりも国庫収入の確保が先決だった。だが、これだけならば、輸入代金に値上げされた塩を使うしかなくなっ
た商人たちの通商業への意欲の減少につながり、経済力の回復どころではなくなる。それでプブリコラは、彼らに課せ
られていた間接税を軽減した。間接税の減少分が帳消しになるだけでなく、ローマはエトルリア人に頼らなくても、
農牧国家に逆戻りする危険から脱出できたのである。
われわれは、富を追及する。だがこれも、可能性を保持するためであって、愚かにも自慢するためではない。アテネで
は、貧しいことは恥ではない。だが、貧しさから脱出しようと努めないことは、恥とされる。われわれは私的な利益を
尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためである
。なぜなら、指摘利益追求を目的として行われた事業で発揮
された能力は、公的な事業でも応用可能であると思っているからだ。ここでアテネでは、政治に無関心な市民は静かさ
を愛するものとは思われず、市民としての意味を持たない人間とされるのである。
紀元前367年、ローマ史上画期的な法律とされる「リキニウス法」が成立した。6人の軍事担当官が廃止され、再び二人
の執政官制度にもどすことが決まった。今後とも、ローマは寡頭政体、つまり少数指導体制で行くことを明らかにした
のである。ついで、共和国政府のすべての要職を平民出身者にも解放することが決まった。役職を貴族別平民別と分け
ていたならば、まずもって機会の均等に反する。差別を廃する目的でなされたことが、反対に差別を定着させる結果に
なる。重要な公職を経験した者は、貴族・平民の別なく、元老院の議席を取得する権利を持つと決められたのである。
フランス革命の洗礼を受けた現代の歴史学者たちの中でも少なくない数の人々は、この「元老院開放」の決議を批
判的に書くのが普通になっている。護民官(平民出のみなれる役職だった)まで骨抜きにされて体制側に組み込まれた
とし、民主制を実現したアテネ人に対して、それをできなかったローマ人の政治意識の低さの例証である、とする。
だが、私にはそうは思えない。経験と能力に優れそれでいて選挙の洗礼をうけないですむ人々で構成される機関は、
共和政体では不可欠な機関と思うからである。1年ごとに選挙によって代わる執行機関をささえていくには、選挙
から自由でいられるがために、長期的な視野に立って一貫した政策を考えることのできる人々が不可欠
だ。
田中美知太郎先生は、プラトンのポリテイアを『国家』と訳された。そしてギリシア語のポリテイアとはポリス(都市国
家・市民国家)のあり方、組織・制度の意味である、と言われているから『国家』とは正しい訳語なのである。このポリテ
イアを古代ローマ人は『Res Publica』(レスプブリカ)と訳していた。イタリア語のレパブリカ、英語ではリパブリックの
語源となるこのラテン語は共同体とか公共を意味し、ひいては君主制以外の政体をとる国家を意味したから、『レス・プ
ブリカ』も正しい訳語なのである。だが、この「レス・プブリカ」は日本では共和とか、共和国と訳され、それが定着し
て今日至っている。「レス・プブリカ」の日本語訳は「国家」としたほうが適切であったし、もしも国家という訳語が
心情に会わないというならば、せめて、「公益」とか「国益」と訳すべき
ではなかったか。公共の利益を重視が大切こ
の上も無いことである点では誰もが一致する。ところがどうやってそれを実現していくかとなると共に和するどころの
話ではなくなるのだ。それは歴史が証明している。
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