死と税を別にすれば、確実といえるものは何もない クリストファー・ブロック、「プレストンの靴職人」1716年

「世の征服者たちにとって、税は最も重要なビジネスである」と、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲に登場するシーザーは言う。チンギス・ハーンは中国を征服し、いつものごとく住民を皆殺しにするつもりでいた。それは容易なことではなかった。このころの中国は、今でもそうだが、世界で最も人口の多い国だったからである。だが、それほど有名ではないイェリウ・チュツァイという摂政が、農民を生かしておけば、それだけ多くの税金を集められると指摘した。チンギス・ハンはそれに納得し、数百万の人々が命拾いした。

我々が姓を名乗るようになったのも徴税のためだった。ヨーロッパでは、平民は13世紀までは姓を持たなかった。だが14世紀末には姓を名乗るようになった。人頭税の徴収の際、人々を区別するのに便利だからである。中国では、姓はもっと古くから存在した。伝説によれば、その起源は紀元前2852年、伏羲というてい王の治世のさかのぼるという。しかし、姓を名乗るようなった理由は同じ、徴税をやりやすくするためだった。

彼はあなた方の穀物とブドウ畑の十分の一を取り、役人と使用人に与えるだろう。サムエル記 8章15節
稼いだもの、あるいは生産したものの十分の一を納める-あるいは、取られる-ならわしは、メソポタミアだけでなく、中国、エジプト、インド、ギリシャ、ローマ、カルタゴ、フェニキア、アラビアなど、古代の様々な文明にあった。十分の一税について、我々は教会に納めるものだと考えがちだが、神、王、支配者、教会、政府はかならずしも明確に区別されていたわけではなく、すべてが一体である場合も少なくなった。一部の学者の主張によれば、古代文明が十分の一という数字に行き着いたのは我々が10本の指を持っており、計算する時に指を使うことが多かったからだという。

イエスの生涯においては、税にまつわる問題が何度か持ち上がっている。彼はローマの税制の不公平さを憂い、さかんに苦情をもうした立てていた。とりわけローマの神々をまつった神殿以外の神殿に課されていた神殿税である。エルサレムの神殿にやってきたイエスは境内で人々が商売しているのを見てぞっとした。そこで売り買いしている人々を追い出し始めた。境内から商人が居なくなると、イエスは説教を始めた。ファリサイ人と律法学者はこれを大変不快に思った。商売ができ無くなればローマ帝国のユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトに納めるはずのカネが入らなくなり、総督との友好関係が損なわれるのだった。彼らはイエスを厄介払いしようと考えた。ユダヤ人が公邸から要求されている税金を納付するのは正しいことかと質問した。彼は言った「税金として納める金を見せなさい」一人がデナリウス銀貨を見せると、イエスは「これは誰の肖像ですか。誰の銘刻ですか」と訊ねた。「皇帝のものです」という答えに対し、彼は大変有名なこの言葉を返した。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に納めなさい」。

イスラム帝国の偉大な思想家の一人に14世紀にチュニジアで生まれたイブン・ハルドゥーンがいる。彼の主な著書の一つである「歴史序説」には一般的なサイクルについて記されている。
王朝の初期には税負担が軽いが税収は多い。時がたち、王が代替わりするにつれ、王が贅沢にふける。税率を引き上げ、自分の取り分を増やす。その結果、生産性が低下し、税収が減少することになる。
そのことに気づいたのはハルドゥーンが初めてではなかった。第読んだ正統カリフのアリはこの見解を指針としていた。18世紀スコットランドの哲学者のデイヴィッド・ヒュームとアダム・スミス、ジョン・メイナード・ケインズ、ジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガン。アメリカの経済学者のアーサー・ラッファーは、税率と税収の相関関係を表す曲線をナプキンに描いたという。税率が非常に低ければ税収も低い。だが税率が高くても税収はやはり低いので、その曲線はベル型になっている。WSJ記者のジュード・ワニスキーがこれを「ラッファー曲線」と命名したが、ラッファーは後日「あのラッファー曲線は私が創案したものではない」と強調し、ケインズからハルドゥーンまで、同じ現象に着目した人々の名前を列挙した。

1789年「人間と市民の権利に宣言」。自由・平等・財産の不可侵、圧制への抵抗の権利がうたわれていた。勝利した革命家たちがさっそく実行したことは、徴税請負人制度の廃止だった。多くの徴税請負人が王と同じように断頭台の露と消えたのである。しかし、新政府にはどうしても税収が必要だった。そのため、塩税は非難してはいたものの、国民に対し、収入の25%、事実上の所得税を供与するように訴えたが、またしても知らんふりされた。公債の償還のための資金を作らなければならない新政府は、カトリック教会の所有地を没収した。その面積はフランスのほぼ三分の一に及んだ。そしてこの土地を抵当にしてアッシニアと呼ばれる国債を発行し、これを債権者への償還に使用した。アッシニアは、没収地と交換することも、転売することもできた。資金が不足している国家で、こういう債券はそれ自体が一種の法定通貨になった。だが新政府は、すでに土地と交換した使用済みのものが破棄されていないのに、アッシニアをあとからあとから発行した。この債券はたちまち信用力を失った。インフレがハイパーインフレを呼び、アッシニアは1797年に廃止されるに至った。

アメリカ南北戦争の本当の理由
サウスカロライナ州のサムター要塞は関税徴収所でもあった。「サムター要塞の軍を撤退させてください」とボールドウィンはリンカーンに訴えた。リンカーンは「税収はどうなる?年間に徴収する金額は5000万から6000万ドルだろう」
下院議会で、奴隷制こそが南北戦争の原因であったと自由党のウィリアム・フォースターが断言した時、そこかしこからこんな声が上がった。「違う、違う、関税だ!」。奴隷制のほかにも、相容れない点はいくつもあったのだ-例えば、関税、連邦政府の支出、州境の警備、準州の平等利用、高用地の売却などである。だが、分裂の原因になったのは不公平な税制だった。南部州は自分たちの稼ぎを自分たちのものにしたかった。リンカーンおよび北部集は南部の富を自分たちのものにしたかった。一般的な歴史認識においては、南部州の行動は謗られ、北部州の行動は偉大で立派であるとみなされる。だが実際は南部奥は経済的利益をめぐって争っていたのである。

所得税がアメリカにやってきた
アメリカで初めて所得税法案が提出されたのは1814年のことだったあ。1812年に始まった対イギリス戦争の資金を作るため、当時の財務長官のアンドリュー・ダグラスが発案したのである。1815年に敵対関係が解消されると、法案は棚上げにされた。その後すっかり忘れられていたが、戦争になったことで再び持ち出され、1861年にエイブラハム・リンカーンによって所得税が導入された。南北戦争が終結すると、所得税は1871年に廃止されたが、19世紀終盤、関税撤廃のかわりであるという布告のもとに再導入された。ところが、最高裁判所が、衆目を集めたある裁判-1895年のボロック対農民貸付信託会社事件-で所得税法を違憲と判断し、所得税の徴収はほぼ不可能になった。所得税の合憲性に関してアメリカでは議論が続いている。

さらなる進化はVATと売上税が徴収されるようになったことだった。1960年代、VATを導入していたのは一か国-その発祥の地であるフランス-のみだったが、いうまでもなく、フランス以外の国ではそれ以前から商品税や売上税が徴収されていた。1980年、VATを徴収する国は27か国、今日では166か国となっている。

ジェイムズ・デイヴィッドソンとウィリアム・リース=モグは、1997年の共著「独立個人(The Sovereign Indivisual)の中で国民国家は消滅に向かっていると主張した。500年前、教会は監督機関だった。今日の晴雨が提供する公的サービス-例えば、教育や貧困者救済など-の多くを提供していた。だが、活版印刷などの新技術の発明により、情報が解き放たれ、教会の力は徐々に弱まった。空白を満たしたのは国民国家だった。そして今日、インターネットの発明により、国民国家もその政治力も弱まりつつある。

支払いの時期、方法、金額は、納税者にとって明瞭かつ平易でなければならない。インフレをわきへおいても、現代の税制は、香港やシンガポールなどの例外はあるが、明瞭でもなければ平易でもない。いまいましいほど複雑である。なかでも21,000ページに1000万語が詰め込まれた、世界最長の税法典を擁するイギリスは、世界最悪の違反者だ。ちなみにその分量は聖書のおよそ12倍である。世界一長い小説としてギネスに登録されているマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」は126万語、イギリスの税法典はその8倍だ。1000万語というのは、たいていの人が一生の間に読む量より多い。アインシュタインは確定申告書類を前にして困惑し、「世界で最も理解しがたいものは所得税だ」

一人当たりGDPから見た富裕国ランキングのベストテンのうち、人口が1000万人を超える国は1つもない。またベスト20のうち、人口が2000万を超えるのは2国、アメリカとドイツ。

私の考えるユートピアでは、税の種類はもっと絞られるけど、新税は一切取り入れられないのだろうか。そう読者は考えるかもしれない。実は一つだけ必ず導入しなければならないと私が考える、これまでにはない税がある。それは所有するの土地の立地に基づく税である。これを立地使用税(LUT)と名付けたい。このアイディアのもとになったのは17世紀の重農主義の思想である。重農主義、「Physiocracy」はもともと「自然による統治」を意味する。富には2つの種類がある。人間が作り出したもの、そして母なる自然から与えられたものだ。家は人間が作り出したものだが、その下の土地、周りの空間や放送波のスペクトル、近くの鉱物資源などは自然環境から生じたものである。人間が作った富は作った本人のものにするべきだが、自然が作った富は皆で分かち合うべきだ。
19世紀の経済学者のヘンリー・ジョージはこういう税の構想を一般に広めた。1879年の著書「進歩と貧困」。ジョージが提唱していた土地単税は今日では地価税と呼ばれる。私はこの名称を好きではない。地方の土地所有者に高い税金を支払わせるように思わせて、実際のところは都市の一等地に不動産を所有する企業や個人が最も重い負担をかけられるからだ。だからこそLUTと呼ぶ方が良い、事実上、これは消費税である。使用している土地の価値が高ければ高いほど、それだけ多くの税金を支払わなければならない。すでに実用に供されたこともある。その場所はもちろん香港である。香港では税収のおよそ40%が地下税収だった。香港政府はすべての土地を所有し、それを賃貸していた。