律令制度で日本のすべてを私物化した藤原氏
なぜ中臣鎌足は蘇我入鹿暗殺を急いだのか、壬申の乱で没落したはずの藤原不比等がどのようにのし上がることができたのか、またその後の藤原氏が朝堂を独占し、日本を私物化することはできたのなぜか。これらはすべて「律令」の本質を知ることで明快になってくるのである。律令は刑法の「律」と、行政法・訴訟法の「令」からなる。要するに律令は明文化された法律であり、中国の隋や唐で完成したものをヤマト朝廷が模倣し形の上では江戸時代末期までこの国の行政を支配してきた制度である。律令制度は土地改革制度で、土地の私有は原則的に否定され、農地はいったん国家のものとなり、人々に再配分されるシステムだった。支配する土地の大きさによって発言力を堅持していた豪族層は、律令の完成によって、官位と役職の差に一喜一憂していくことになる。
百済王豊璋と中臣鎌足の接点
中臣鎌足が歴史に登場した時期と、豊璋の来日時期の重なりである。「日本書紀」は舒明3年(631)3月、百済の義慈王の子・豊璋が人質として来日した、と記している。これに対し、中臣鎌足の初出は皇極3年(644)の中臣鎌足の神祇伯任命記事である。この間13年の差があるが、豊璋来日後に中臣鎌足の記事の初出がある点は間違いない。「三国史記」には、豊璋は白村江の戦いの後脱出したが、行方知れずとなってしまったとある。これに対し「日本書紀」は白村江の戦いの後の豊璋の行方について、百済の王豊璋、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ と記録する。白村江の戦いの直前、豊璋は白村江のほとりに籠城し孤立していたが、これを救助するためにヤマトの水軍は白村江にむかった。豊璋はヤマトの水軍と行動を共にし、白村江の大敗を目撃した。その豊璋がなぜ高句麗に逃げることがあろうか。ヤマトの水軍は敗戦後対馬を目指しただろう。
いっぽうの中臣鎌足は、孝徳天皇最晩年の記事の後ぱったりと日本書紀から姿をくらます。再登場するのは、白村江の戦の後、ヤマト朝廷が滅亡の危機に立たされた真っ最中である。天智3年(664)5月百済を占領した唐の鎮将が郭務悰を日本に派遣し筑紫にとどまった。10月には中大兄皇子が郭務悰に勅を伝えさせさらに中臣鎌足がつく死に人を遣わせて郭務悰に贈り物をしたというのである。これが中臣鎌足の白村江前後の動きである。中臣鎌足は中大兄皇子の忠臣であり、常に近侍していたはずである。しかも日本書紀は藤原不比等の強い影響力のもとに記された歴史書だ。白村江の戦いという日本史上最大の危機に中大兄皇子の元で活躍したとすれば、必ずや日本書紀はその様子を克明に記したに違いない。
大織冠伝は白村江の戦いに際し、中臣鎌足は中大兄皇子にぴったりと寄り添い、けっして離れることはなかったといっているのである。ただ不審なのは白村江の戦いに、中臣鎌足がどのように関わったのか、具体的な記述がまったくないことである。大織冠伝の記述は、どこまで信用できるのだろう。
中臣鎌足は乙巳の変ののち、内臣に任命され、生涯この職掌を守り通した。内臣は法律で保証された正式な職務ではない。臨時職なのである。乙巳の変で大活躍し、中大兄皇子の懐刀であった中臣鎌足がなぜ左大臣、右大臣といった、正式な役職につくことができなかったのであろう。(死の著置く全、名誉職的な意味合いを持つ大臣の位を授かってはいるが、ほとんど追贈のようなイメージだろう) 鎌足の場合、「連姓貴族」が大臣の位につくことはできないという慣習が一つの理由だったかもしれない。しかし最晩年、天智の独断でようやくその念願が叶った。このような無理を押しとおせるのなら、もっと早く、本当の大臣の位を中臣鎌足に授けるべきであった。それができなかったのはなぜだろう。鎌足に日本国籍がなかったと仮定すると謎ではなくなる。
なぜ天智の娘が天武朝で即位できたのか
天武天皇の皇后・鵜野、この女人は天武天皇崩御後即位し持統天皇になり不比等を抜擢する。万葉集には持統の天武を思う歌が残されているにもかかわらず、天武が持統を偲ぶ歌は一首も無い。二人は本当に仲の良い夫婦だったのであろうか。天武天皇崩御後有力な皇位継承候補であった大津皇子を持統は罠にかけて殺し、持統は藤原不比等とコンビを組んでしまう。持統天皇は天智天皇の娘であり、このコンビは図式的には天智天皇と中臣鎌足の再来となる。このコンビが天智と中臣鎌足が展開したような恐怖政治を展開した疑いも出てくるのである。
なぜ鵜野は即位できたのか。日本書紀はこのあたりの事情を一切語ろうとはしない。「扶桑略記」には持統天皇が即位し、大和国高市郡飛鳥浄御原の藤原の私邸に持統が「都す」、つまり、宮を置いた、という記述がある。「東大寺献物帳」にしたがえ、この直前藤原不比等は病床にあった草壁から黒作懸偑刀を拝受していたことになる。なぜ藤原不比等は持統を私邸に住まわせ、しかも私的なガレリヤを用意したのであろう。
不可解なのは、持統・不比等政権の悲願だった軽皇子の立太子を「日本書紀」が記録していないことなのである。さらに高市皇子の薨去記事も不自然で、高市の名が記載されず、「後皇子尊」とのみあることも不審きわまりない。これでは誰が死んだのか分からない。なぜ堂々と日本書紀は高市皇子の死を後世に知らせようとしなかったのだろう。草壁の死に際し、持統の次は高市という密約があったからこそ持統の即位が了承された。高市皇子は持統や不比等らの魔の手にかかり抹殺された可能性が出てくる。
藤原の律令を制した意味
何をすれば罰せられるのか、どうすれば法の網から逃れられるのか。現代ではすべては裁判所が判断する。しかし、大宝律令はできたばかりでそれを誰が解釈するかといえば、作った本人や律令に関わる当事者が説明することになる。つまりこのことは藤原不比等そのものが歩く法律と化したことを意味する。藤原氏は法と天皇を支配することで、権力の独占を目論み、日本を私物化していく。したがって藤原氏千年の基礎を築いたのは中臣鎌足ではなく藤原不比等である。藤原不比等は一つの氏から一人の参議官というヤマト朝廷が守り続けてきた因習を無視し、「律令に規定のない」ことをいいことに、藤原氏から複数の参議を排出するようになる。皇后の資格についてもはっきりとした規定はなかった。それまでの常識では皇后位に付けるのは皇族に限られていたが、藤原氏はこの慣習を無視して、自家から皇后を排出することに成功するのである。
藤原氏の正体 (新潮文庫) 関 裕二 新潮社 2008-11-27 |
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