カナダ
エリザベス女王を元首とする英連邦内の主権国家カナダが、自主憲法を持ったのはなんと1982年、カナダから英国から自治を獲得した1867年から115年後のことだ。それはカナダの意外に不安な内情を示唆する。その憲法にケベック州が参加を拒んできた。いわゆるケベック紛争だが、その最新の調停が、またも失敗に帰したのである。紛争の核心は、英語系住民の主導体制下で、フランス語系住民が民族的アイデンティティを保持しようとする闘いだ。具体的には、フランス語系が86%も占めるケベック州(1986年の州人口616万のうちフランス語系532万)がどこまで権限を持ちうるかである。わずか15分の小戦闘がすべての発端であった。18世紀、北米大陸で新しい富と好機を探索していた英国とフランスの冒険家たちは、今日のカナダ領土を舞台にしばしば戦火を交えた。1759年、ケベック地方の寒風吹きすさぶエブラハム平原の決戦で英軍は仏軍を破る。戦闘は15分で終わったが、これが英系とフランス系の長い長い反目の始まりとなった。北進をうかがう米国の攻撃に備えて、両社は戦術的に握手しながらも、胸の底では警戒を緩めなかった。
今日も総人口2960万のうち英系が40%、フランス系が27%を占め、他の諸民族を圧倒している。英仏系の平等な協力を前提とするにもかかわらず、英系がカナダの政治・経済を牛耳っていると、フランス系は不満を抱いてきた。米国を含む北米大陸の圧倒的な英語文化圏にあって、フランス系が埋没しそうな不安もあるのだろう。1960年代、不満と不安の結晶として生まれたケベック解放戦線は「自由ケベック独立」を叫んで州内の連邦施設を爆破し1970年には英国外交官を誘拐した。ケベック州が分離を動けば、ケベック州の東側四州(ニューファンドランド、プリンスエドワード・アイランド、ノバスコシア、ニューブランズウィック)は米国への併合申請に動きかねない。多民族国家で一民族にのみ「特殊な地位」を認めるのは危険なバルカン化を招くと言うトルドー氏の指摘は世界各地の民族紛争への教訓でもある。
アラブとは誰か
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シリアには肌の白い、エジプト南部やスーダンには肌の黒いアラブ人がおり、外見は様々。中東世界の範囲を東はアフガニスタン、西はモロッコまでとした場合、アラブ国家の合計人口は1億6700万人。非アラブ国家は1億800万人で、6:4の比率となる(1982年国連推計)。非アラブ国家とは、アフガニスタン、イラン、イスラエル、キプロスである。アラブ国家ではアラビア語が主流であり、非アラブ5カ国ではそうではない。1945年に創設されたアラブ連盟という組織がある。現在はパレスチナ解放機構(PLO)を含めて22カ国あり、その加盟国の人々をアラブと呼ぶこともある。
アメリカ WASP
KKK運動を貫くものはワスプの三要素とっその特権の保持に他ならない。南北戦争後、黒人解放への対抗運動として結成されたKKKは、ワスプの地位が脅かされるたびに頭をもたげたが、その活動の本拠は常に南部であった。だが多様な移民の増加や彼らの権利拡大、エスニック文化の高揚などによって、ワスプの力は相対的に低下している。ワスプと多民族の結婚の結果、ワスプの純粋度も曖昧になり、「白人・プロテスタント」であれば出身が西欧や北欧のどこであろうともワスプとみなされるようになってきた。1990年の国勢調査での自己申告によれば英国系はわずか19%に減っている。
トルコ
騎馬遊牧民の血を受けるせいか、トルコ族は尚武の気性に富む。広範囲の拡散を可能にしたのもその軍事力に負うところが小さくない。イスラム世界における軍事力重視や軍人支配の伝統もトルコ族の特性によるとされる。トルコ族は広く散ったがゆえに、欧州とアジアの接点に位置するトルコ共和国の住民と、中国西部や旧ソ連南部の住民では、同じトルコ族とは言え異民族に近い。トルコ共和国はNATOに加盟し、湾岸戦争では国内の基地から米軍機がイラク空爆へ飛び立った。トルコ軍はNATO内では米軍に次ぐ規模御誇っている
フィンランド
フィンランド人は言語、人種上のエスニシティではウラル系だが、社会的にはゲルマン文化色が濃い。この構図は東方のロシアと西南方のドイツという二大勢力の狭間で生存を探ってきたフィンランドの歴史と重なるものだ。フィンランド語は、ウラル語族フィン・ウゴール語派のバルト・フィン諸語に属すが、この派はボルガ川流域に発したとされる。紀元前6世紀ころ、その中から原フィン族となる集団が西進を始め、途中でスオミ族、エストニア族などに分裂、エストニア族は今日のエストニアに定着、スオミ族は海路フィンランドに渡り、ラップ人を北に追い払って住みついた。12世紀半ば強大なスウェーデンが北方十字軍を侵攻させ、16世紀にフィンランド大公国を樹立、ロシアと覇権を争った。1917年の帝政ロシア崩壊でフィンランドはようやく独立に至る。
スペイン
ベレー帽の発祥地バスクはスペインとフランスを分けるピレネー山脈に連なる地域である。「バスク地方は二度の被征服の危機を逃れ、一度の征服を受けた」と言われる。紀元前3世紀のローマ軍と西暦8世紀のイスラム軍を排除したが、20世紀のフランコ軍には屈服したという意味だ。バスク人自身はバスク語をエウスカラ、バスク人をエウスカルドゥナク、バスク人の居住地をエウスカディと呼ぶ。スペイン語もフランス語もインド・ヨーロッパ語派に属すがバスク語は全く違う独立語だ。
チェコとスロバキア
民主チェコスロバキアのハベル大統領は92年4月「国家統合の最大の敵は共産主義でも民族主義でもなく、個人の中の野心と欲望だ。視野の広い柔軟な知識人こそ政治的役割を要請される」 6月総選挙を経てチェコ民族とスロバキア民族の大分裂の方向が明確に決まり、7月、ハベル大統領はあっさり連邦の政権を放り出すに至る。同じ西スラブ系のチェコ民族とスロバキア民族の人口比は63%と32%、荷台民族同士ながら、「優勢意識のチェコ人」対「劣性意識のスロバキア人」という構図が国のあらゆる面に現われた。
両民族の融和が共産体制下でも国家統合の最大課題で、チェコ人が党書記長になればスロバキア人が首相を務めるなど、人口比率に基づく権力配分性が取られた。チェコ地方はドイツ、オーストリアなど西欧との関係を深め、工業や文化の面で一定の発展を遂げたのに対して、スロバキア地方はハンガリーとともに農業経済に基盤を置く保守的社会のぬるま湯に埋もれてきた。チェコ人の間からは音楽家のドボルザークやスメタナ、映画でも「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」でアカデミー賞を受賞したフォアマンらが輩出した。他方、スロバキア人の作品は民話や民謡といったローカルな評価しか得ていない。第一次世界大戦の混乱と国境の変動を経た1918年、チェコとスロバキアは約1000年ぶりに統合・独立を果たしたものの両民族間にはさまざまなミゾが残った。93年ついに独立したチェコ共和国とスロバキア共和国が誕生したが、失業率はチェコ2.8%、スロバキア13.3%でチェコ国籍を希望するスロバキア人は約10万人に達するという激しい格差である。

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