「もし二十ヶ月間も子供を身篭ったままの女性が居たとして、その腹部たるや普通の妊婦のおよそ倍はある。それでいて一向に産まれる気配もない。それが事実だとすればやはり尋常なことじゃないじゃあないか。不思議なことだとは思わないのかね。」
「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」 京極堂はそういった。
「ふん、例えばそういった異常な状態を示す妊婦が居るとしようじゃないか。そういう状況なら普通は医者に診てもらうだろう。珍しい症状だから治療が済めば何らかの形で発表されるだろうが、それなら僕も知っているはずだ。しかし生憎僕は知らない。すると治療中の医者が君にだけ情報を漏らしたのだろうか。これも考え難い。患者の個人情報を赤の他人に教えることはないだろうし、医学の医の字も知らない君に相談するというのも非常識だ。万が一したとしても君が僕のところに来ることなんかないだろう。すると君の情報源は医者ではないということになる。ならば君はその妊婦か妊婦の家族から直接相談を受けたのだろうか。その場合はなんらかの事情で医者にかかれないとか今かかっている医師が信用できないとか、まあ事情は色々考えられるが、いずれも雑文書きに相談する内容ではない。君がこっそり嗅ぎ付けたなんてこともないだろう。するとそれは君だけが知っている事実ではなく、不特定多数の人間が知っている事実だと考えられるのが妥当だ。これはもう風聞というヤツに決まっている。それも医学的裏づけの一切ない俗で下世話な風聞だろう。その場合、たぶん君を含めたその風聞を知る人間は、皆一様に戯作者が書いた因縁話や怪談話のような尾鰭をつけて聞いているに決まっている。やれ祟りだの因果だの、いや最近ではそういったおろかな分野にまで化学をくっつける大馬鹿者がいて、心霊科学とかいう言葉まであるそうじゃないか。それはともかく君が僕のところにそんな話を持って来るということは、そういう下卑た噂話にもっともらしい裏づけができるような話をさせたかったからじゃないのか?どうせお得意のカストリ雑誌に猟奇趣味たっぷりに味付けした記事でも書くつもりなのだろうが、そう巧くはいかないよ」
こう言いたくなるような事象はインターネット上にもよくある。
宗教とは、脳が心を支配するべく作り出した神聖なる詭弁だからね
「心理学の方はどうなんだい?」
あれは文学の部類さ。共感できるもののみに有効なんだ。科学の生んだ文学だ。心理学は民俗学と比較すると面白い。心理学は個人個人の患者からサムプルを採って一応は一般的な法則を導きだろうとするんだろう? 民俗学は村やなんかの共同体から共通のサムプルを取って法則性を探る。しかし両方とも最終的には個人に還元されてしまう。文学的なんだな。」
ははは、心理学か。そんな感じだな。あれって学問なのか? とすら思うことがあるわ。
「気分がいいとか、気持ちがいいとかいうのは皆この麻薬の所為らしい。生きていくのに必要な行動は大体快楽を伴うじゃないか。阿片患者と同じように心はそれを求めるからね。動物なら生きているだけで恍惚感を持てたんだ。しかし社会が生まれ、言葉が生まれて、この脳の麻薬だけじゃ不足になって人は幸福を失った。そして怪異を手に入れた。更に失った幸福を求めて宗教が誕生した。代用麻薬だね。阿片だのモルヒネだのというのは代用の代用さ。宗教は麻薬だといった共産主義者がいたが、卓見だね。」
マルクスですね。
言葉というのはクセ者だ。共同幻想を生む。しかしこの共同幻想だって厳密に言えば共同であって同一ではない。仮想現実はあくまで個人のもので、本当の意味での共有はできない。これは宗教にも当てはまる。信者が独りもいない宗教人を何と呼ぶか知っているかい? 残念ながら現在ではこれを狂人と呼ぶ。信者あっての宗教さ。妄想が体系化して共同幻想が生まれて、始めて宗教足りえるのさ。でも仮令同じ宗門の人間であってもまったく同じ仮想現実体験を得ることなんざできない。しかし宗教というのはここのところが実に巧くできている。別々の体験をしているにも拘らずそれが同じだと思い込める仕組みになっている。だから同じ理屈で大勢の人々の心と脳の揉め事を収めることができる。救える訳だね。この仕組みに一役買っているのが言葉だ。
京極堂は”長すぎる妊娠”に就いての話をやっと始めたのである。
「武蔵坊弁慶かな。『義経記』の所伝によれば18箇月だし、御伽草子の『弁慶物語』だと驚いたことに3年3箇月、実に39箇月目に産まれて来たと記してある。髪の毛も歯も生え揃った”鬼子”であったそうだ。『慶長見聞集』に載っている大鳥一兵衛という暴れ者も、投獄された際に18箇月間胎内にいたと嘯いている。もっともこれは自己申告だからどうも怪しいがね。御伽草子の『伊吹童子』では33箇月目、『全太平記』では16個月目に産まれたとある。極悪人や豪傑の判を押されたそのときに、遡って過去ができたのだ。鬼は常に異常な出産によって産まれなければいけない。そういった強い民族社会の共通認識が過去にあった訳だ。特に我が日本ではかなり徹底していた。これは裏返せば、異常な出産によって生を受けたものは鬼になるという共通認識があったということでもある。だから実際の鬼や極悪人は異常な出産の出自を持たなければ説得力に欠ける。因果関係の逆転だ。鬼だと観測された時点で遡って、異常出産という過去が形成される訳だ。だからといって真実以上な出産で産まれた子供が鬼や悪人になる証拠には一つもならないがね。」
「本当に異常な出産だったにもかかわらず普通の人生を送った例はないのかい?」
「ない。なぜなら異常な出産でうまれた鬼子の将来は決まっているのだから、これは確実に殺された。」
「だって酒呑童子なんかは生き延びたんだろう?そんなに確実に殺したのなら鬼や悪人は産まれないことになる」
「だから酒呑童子なんかは鬼の烙印を押されたそのときに遡って過去が決まったっていったじゃないか。そのときは殺されずに捨てられたとかいう理由ができるのさ。もし隠れて生き延びた者で、普通の人生を送った者がいたとしたら、今度は遡って異常な出産の過去は消えてしまうんだ。」
出産体重4500g、産婦人科の新生児室にて、一際大きく黒い赤ちゃんがおぞましい声で泣き叫ぶ姿を見て、「これが本当に私の子供なのか?何か恐ろしいものを産んでしまった気がする。」とつぶやき、悪寒がしたという。数十年前の私の母である。

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