民主制のもとでは、他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれてくることだろう。様々な国制の中でも一番美しい国制かもしれないね。この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう。この国は、その放任性のゆえに、あらゆる種類の国制を内に持っている。たとえ君に支配する能力が十分にあっても、支配者とならなければならない何らの矯正もなく、さりとてまた君が望まないならば、支配を受けなければならないという強制もない。

とくにずば抜けた素質を持つものでもない限り、早く子供の時から立派で美しいことの中で遊び、すべて立派で美しい仕事で励むのでなければ、けっして優れた人物とは、なれないだろう。すべてこうした配慮をこの国制はなんとまあ高邁(こうまい)なおおらかさで、足下に踏みにじってくれる。国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と行き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ。

若い時から訓練すれば取り除くことのできるような欲望、何一つ為になることがなく、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これらすべての欲望を<不必要な欲望>であるという。われわれが雄蜂と呼んでいた人間とは、そのような快楽と欲望に満たされていて<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方、<必要な欲望>に支配されている人が、けちで寡頭制的な人間に他ならないわけだね?

雄蜂は名もなき民、寡頭制的な人間とは、必要なもの=エネルギーを供給したロックフェラーである。

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寡頭制から民主制が生じてくる過程と民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とはある意味で同じ仕方によると言えないだろうか?たぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう-この自由こそは、民主制国家が持っている最も良きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのはただのこの国だけである。そのようなことへのあくなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、先制独裁制の必要を準備する。民主制の国家が自由を渇望した挙句、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々はあまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者をけしからぬ連中だ、寡頭制的な奴だと非難して迫害するだろう。

このような国家においては必然的に自由の風潮は隅々にまでいきわたって、その極限に至らざるを得ない。このような状態の中では、先生は生徒を恐れてご機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる。買われてきた奴隷たちが、男でも女でも、買った方の主人に少しも劣らず自由であるという状態のうちに達成されるだろう。

僭主独裁制が成立するのは民主制以外のほかのどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。民主制の国家を3つの構成集団に分けてみることにしよう。雄蜂族、尊敬されず、支配の役職から遠ざけられているから、鍛えられていないし、勢力も強くはならない。けれども民主制のもとでは、国の先頭に立つ指導者層は、少数の例外を除けばまさにこの種族であると言って良いのだ。

安倍さん?麻生さん?ブッシュJr?

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もう一つの階層が、つねに大衆から区別される。すべての者が金を儲けることにつとめるとしたら、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになるだろう。雄蜂どもにとってそこは最も沢山の蜜があって、蜜を取るための最もふんだんな供給源となるわけだ。しかしこの階層の者は、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまりたびたび集まろうとはしないものですよ。だから現にいつも分け前にあずかっているのだ。先頭に立つ指導者たちが、もてる人たちから財産を取り上げて民衆に分配しながらも、なお大部分を自分で着服できるその範囲内でね。

最後に民衆が無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると、本当に寡頭制的な人間になってしまうのだ。民衆の習わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に押し立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね。すなわち、僭主が生まれる時はいつもそういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、他の所からではないのだ。民衆の指導者となったものが何でもよく言うことを聞く群衆をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、よくやる手口で不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、こうして一人の人間の生命を消し去り、その穢れた口と舌で同族の血を味わい、さらに人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再分配のことをほのめかすとするならば、このような人間はその次には敵対者たちによって殺されるか、それとも僭主となって人間から狼に変身するか、このどちらの途を選ばなければならない運命にあるのではないだろうか?

僭主となった当初、誰にでも微笑みかけて、負債から自由にしてやり、周囲の者たちに土地を分配してやるなどして、情深く穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね。いったん外なる敵たちとの関係において、あるものとは和解し、あるものは滅ぼしてその方への気遣いから解放されてしまうと、まず第一に彼のすることはたえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね。