哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが真実にかつ十分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの2つのどちらかの方向に別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、国々にとって不幸の止むときは無いし、人類にとっても同様だ。

最も優秀なるものを哲学者と呼ぶか、それを導き出すスキームである憲法であるかが違うだけで、2300年後のヒトラー、最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。 我が闘争より

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<知識>のほうは<あるもの>を対象としてそれにかかわる-すなわち、<あるもの>がどのようにあるかを知るのが、<知識>の本性だろうね。他方、<思わく>のはたらきは、われわれの主張では、思わくすることなのだね? はたしてその対象は<知識>が知るところのものと同じだろうか?つまり、<知られるもの>と<思わくされるもの>とは同じものであろうか? それともそういうことは不可能であろうか?

同一であることは、ありえないことになります。

では<あるもの>が<知られるもの>だとすれば<思わくされるもの>は、<あるもの>とは別の何かだということになるだろうね? かといって<あらぬもの>を思わくするということになるだろうか?それともありもしないようなものは、それを思わくすることすら不可能だろうか? 思わくする人は、その<思わく>を何かに差し向けるのではないかね?それとも、思わくはしているが何も思わくしていないというようなことが可能なのだろうか?すると<思わく>は、この両者の外にあるものだろうか?明確さにおいて<知>を超えるものであったり、あるいは不明さの点で<無知を超えるものであったりするだろうか? 思わくは知と比べれば暗く、無知と比べれば明るいもの、両方の極のうちに位置づけられるのだね。思わくは両者の中間的なものだということになるだろう。もし「同時にありかつあらぬ」と言ってもよいようなものが何かあるとわかれば、そのようなものは、純粋に<あるもの>と完全に<あらぬもの>との中間に位置づけられる。<知識>と<無知>とのやはり中間に現れるようなものだろうと。われわれに残されている仕事は、あるとあらぬの両方を分け持つ者、純粋にどちらとも正しくは呼べないようなものを、発見することだろう。

600年後のナーガールジュナの中観、「空」である。

ある人の欲望が、ものを学ぶことや、すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には、思うに、その人の欲望は、魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽にかかわることになり、肉体的な快楽については、その流れが枯れることになるだろう。ひいては、そのような人は節度ある人間であって、けっして金銭を愛し求める人間ではないだろう。なぜなら余人はいざ知らずそのような人だけは、人々が熱心にお金を求め散在することによって獲得しようと願うさまざまのものに対して、まったく関心がないはずだから」

100年前に遠い地にてシッタールタが、悟りを開くものは金銭に触れるな、んー、シッタールタと言ってることは、ここだけではなく沢山ある。まあ、いいか。

哲学を志して、若い時に教養の仕上げのつもりでそれに触れた上で足を洗うということをせずに、必要以上に長い間哲学に時を過ごした人たちは、その大多数が、よしまったくの碌でなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠いものになってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも、あなたが賞揚するこの仕事のおかげで、国家社会に役立たない人間となってしまうことだけは確かなのだ。

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ここが「ソクラテスの弁明」で言及されていたソクラテスの罪。若者たちを堕落させたもの。それは「哲学」という不毛の学問であったことが、この部分で分かる。しかし、当時から哲学は役立たずと言われていたのか。高校から大学に行くにつれ、化学が物理に、物理が数学に、数学は哲学へなんていうものだから、不完全性定理のことも頭の片隅におきながら哲学も少しかじってみたが、「不毛な屁理屈」としか思えなかった。そんな私も学問の最高峰である数学と理論物理学が、今となっては、”必要以上に長い間費やしてはいけない学問”になってしまったのではないだろうかと思っている。大統一理論もリーマン予想も、世界中で10人くらいの人しか証明の正しさを理解できないだろうし、最高峰故に陥ってしまった数学の哲学化か。

教育と無教育ということに関連してわれわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれた前。地下にある洞窟状の住まいの中にいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方に向かって長い奥行きを持った入口が洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいの中で子供の時からずっと手足も首もしばられたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために頭を後ろへめぐらすことはできない。人たちは洞窟の一部に火の光で投影される影しか見ることができない。

彼の一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光の方を仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても目がくらんでよく見定めることができないだろう。そのとき、ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性があるものの方へ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ」と説明するとしたら、彼は一体何と言うと思うかね?彼は困惑して、以前見ていたもの「影」のほうが、今指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?

真実を観たがらないのは古今東西変わらない人間の性質か。影ばかり見ていると実体より影が真実性を帯びてくると。日経新聞は補完的に読むしかないな。日経新聞を中心に世の中見てたら影が実体になってしまうよw

その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく内部的な構想の最も少ない状態で、治まるのであり、これと反対の人間を支配者として持った国家はその反対であるというのが動かぬ必然なのだ。

真の意味の富者とはすなわち、黄金に富むものの事ではなくて、幸福な人間が持たねばならぬ富-思慮あるすぐれた生-を豊かに所有する者のことだ。これに反して、自分自身の良きものを欠いている飢えて貧しい人々が、よきものを公の場からひったくってこなければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば、善い政治の行われる国家は実現不可能となる。そうすると、国を守る役に、どのような人々がいるだろうか?それはただ国がそれによって最もよく治まるような事柄について、最も多くの知恵を持つ人々、しかも政治的生活にまさる善き生活と他の名誉とをもっているような人々だけではあるまいか。

これ、まだ見ぬ将来、しかし近い将来到来するであろう「発行者なき暗号通貨」の時代?