明るみに出た虐殺の実態
1996年10月以降に行われた殺戮及び残虐行為には、ザイール国軍(FAZ)と傭兵、旧ルワンダ政府軍(FAR)と難民キャンプ出身の民兵、そしてカビラが率いるAFDLとルワンダ政府軍(RPA)という、三つの集団がかかわっていた。殺戮や残虐行為の内容や規模は集団によって大きく異なっていた。AFDL部隊および同盟を組むRPAは、民間人や難民に対し大規模な殺戮を行った。AFDLの行った殺戮と残虐行為にRPAも関与していたことが明らかになると、アメリカ政府は立場を変えざるを得なくなった。忘れてはならないのは、アメリカはフツ系難民が多数を占めるザイールの難民キャンプに人道援助を行う一方、RPAと南キヴのツチ系バニャムレンゲの軍事訓練や軍事支援にも手を貸していたという事実である。アメリカ軍による軍事訓練がRPAとAFDLの軍事能力を高めており、もはや暗黙の政治支援や軽度の治安維持支援の域をはるかに超えていると広く思われていた。人道的な地雷除去と訓練プログラムを隠れ蓑に、より積極的な軍事支援が行われていたと考えられていた。
RPAの関与について国際的な監査が進むにつれ、アメリカの政治・経済・軍事面での支援が問題になった。アメリカはルワンダ政府を支持したが、これはカビラ率いるAFDLを支援したことになるだろうか?下院公聴会でのクリストファー・スミス下院議員の質問や、「人権のための医師団」の証言に対して、アメリカ政府はルワンダへの軍事支援の重要性を否定しようとした。人権問題調査チームがカビラによる妨害や活動の制限によって、任務遂行上の困難に直面すると、アメリカは調査に賛成し、これまでに行われた大虐殺の責任を追及する、という立場を取り始めた。
アフガン難民
1970年代末から23年間、アフガニスタンはずっと戦場であった。国際社会がこの国の平和と安定を確かなものとするためにようやく支援に乗り出したのは21世紀になってからで、アメリカを襲った同時多発テロの余波のさなかであった。アフガニスタンから膨大な数の難民が流出する事態を引き起こした様々な紛争は国内問題に起因するが、外国の介入が国内紛争を一段と激化させた。米ソ両超大国の冷戦対立はムジャヒディーン(イスラム聖戦士の意)などのイスラム抵抗勢力による熾烈な武装闘争に火をつけた。ソ連軍はムジャヒディーンの激しい抵抗にあい、撤退するとアメリカはアフガニスタンに対する関心を失っていった。タリバーン勢力の台頭は一部の地域を平定したが、厳格で抑圧的な統制を強めたため、国民生活は悪化の一途をたどった。また、タリバーンの支配はアフガニスタン周辺諸国の関与を強めることになった。なかでもとくにパキスタンはタリバーンを支援することで影響力を著しく強めていったのである。
終わりの見えない戦争の惨禍と、泥沼化したアフガン問題を解決しようとする国際社会の関心は薄れてゆき、アフガン国民は苦難の中に取り残されていった。1978年に共産党が政権を掌握するとアフガン国民は国を離れはじめ、1979年末のソ連軍の軍事侵攻後には大規模な難民流出が起きた。推定では1年間に630万人が周辺諸国へのがれ、そのうちパキスタンには330万人、イランには300万人が避難した。ソ連軍が撤退を開始した1989年2月から91年末までに、およそ30万から40万人の難民が故国に帰還した。その後、92年4月にカブールの共産主義政権が崩壊すると、最多の難民がいち早く本国に帰還、その数はパキスタンから120万人、イランからは20万人に達した。その後も期間は続いたものの人数は減少していった。96年9月にカブールが陥落し、タリバーン勢力が政権の座につくと、新たに5万人の難民が生じた。そのうち80%はカブール出身者であり、さらに30万人の国内避難民がアフガン北部と東部の戦闘から逃れていった。アフガン難民が置かれた状況はパキスタンとイランでは大きく異なっていた。パキスタンに逃れた難民の多くはパシュトゥン族で、この民族が多く住む地域を中心に非難した。難民の3/4は女性と子供で、ソ連と共産主義の信仰の犠牲者を対象にした豊富な資金源のお陰で、国際機関や数多くのNGOが提供する十分な医療・教育支援を受けていた。それとは対照的に、イランに逃れた難民は、タジク人、ウズベク人、ペルシャ語を話すシーア派のハザラ族で、そのうち60%は成人男子であり、イランの労働力を担っていた。イランに滞留した難民に対する国際援助は非常に限られたものであった。1979年のイスラム革命以降、イランの新イスラム政権と西側諸国は緊張関係にあったからである。

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