日本仏教というのはいささか問題のある言葉で、かつて皇国史観のもとで、「日本」においてこそ「仏教」は最高の円熟に達するとされ、その独自性が「日本仏教」という言い方で表現されたことがある。いわば「日本」と「仏教」とのおめでたい調和ともいうべきものであるが、そんな経緯があるから、どうもこの言葉には抵抗がある。だが、ともかく僕にとっては、おめでたい調和ではなく、むしろ「日本」と「仏教」との相互の居心地の悪さ、どこかしっくりしないところがおもしろいのだ。大体、仏教というのはおかしな宗教で、発生地のインドでは滅びて消えているし、中国や韓国でも滅びはしないまでも、ある時代以降、積極的な思想史的な意味を失ってしまう。キリスト教だって発生地のユダヤ人社会で滅びたではないかと言われるかもしれないが、もともとユダヤ人社会でもそれほど多数を占めたり、大きな影響を残したわけではなかったであろう。ところが仏教はインドでは古代の一代期、思想・宗教界の主流ともいうべき強大な力を誇り、インド最大の哲学者シャンカラ
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でさえ「仮面の仏教徒」といわれるような大きな影響を残している。それがほとんど完全に消えてしまっているのはなぜだろう。中国だって、中世の仏教の全盛期から近世に下ると、仏教にひいきする目から見れば目を覆いたくなるものがある。日本の場合、仏教はかなり強力に生き残ってはいるが、近世以後、思想界の主流としての力は持ちえなかった。もちろん、チベットや東南アジアのように仏教の定着した地域もあるのだから一概には言えないが、どうも仏教には定着しにくい一面があるような気がする。例えば、「空」という発想にはどうにも落ち着きの悪さがある。「空」は「有」として安定することへの絶えざる否定であるから、定着することをはじめから拒否している。


今日われわれは、仏教は538年に百済から日本に伝わったと、歴史の教科書で学んでいる。たが年配の人ならば仏教伝来の年を「1212」と覚えているにちがいない。これはいわゆる日本紀元で、西暦に直すと552年である。前者は「元興寺伽藍縁起幷流記資財帳」などにみえる説、後者は「日本書紀」にみえる説である。じつは、継体天皇から欽明天皇にいたる6世紀前半に関する「日本書紀」の記述は、その頃の政治的混乱を隠ぺいするためか、作為が多く信用できないことが、近代の研究で明らかになっている。そのうえ、仏教伝来の際に百済の聖明王が天皇にあてたという書が「日本書紀」にみえるが、そこには当時まだ漢訳されていない経典の文句が用いられていて、ますます信用できないということになったのである。それに比べて別の系統の古い伝承に基づくと思われる「元興寺伽藍縁起」の説のほうが作為が少なく信用度が高いとされている。それでは538年が絶対に正しいかというとこれも問題が無いわけではない。特に最近、朝鮮古代史の研究が進むにつれ、百済の王の即位年代に14年ずつのずれをもつ2つの系統の根本史料があったと考えられ、そうすると538年と552年の14年のずれは、両説が異なった百済史料に基づいたためという可能性も出てきて、問題はまた振出しに戻った感もある。
中国・朝鮮・日本など、東アジアに広まることになるのは大乗仏教と呼ばれるが、紀元前後頃、従来の仏教に飽き足りない人たちによって興された新しい宗教運動の中で形成されたものである。もっとも大乗仏教とは何であるか、と正面から問うと、はなはだ難しい問題で、いちがいに言い切れないが、「空」の思想や菩薩の利他主義のほか、もともと在家者の活動と深く関わっていたと考えられ、ブッダに対する信の重視など、在家者に対する平易な行を説き、また釈迦仏だけでなくその他の様々な仏や菩薩、例えば、阿弥陀仏、薬師仏、弥勒菩薩などに対する信仰も大きく発展するのである。ガンダーラやマトゥラーで始められた仏教の政策もこうした動向に拍車をかけたと考えられる。中国・朝鮮・日本などで広く信仰される大乗経典、般若経典や「法華経」「華厳経」「無量寿経」などこうした運動の中で形成されたものである。インドにおける大乗仏教は、その後、中観派・唯識派などの哲学を発展させ、また、のちには密教も形成され、これらはいずれも日本の仏教に大きな影響を与えることになる。
史実と伝説 太子のカリスマ的魅力
聖徳太子(574~622)は用明天皇の子として生まれ、推古天皇の即位とともに摂政となって(593)、遣隋使の派遣、冠位12階や憲法17条の制定、史書の撰録など、中央集権の新しい国家体制の整備の力を注ぐと同時に、仏教に心を寄せて、寺院の建立や経典の講説をなした、ということになろうか。近代における聖徳太子観をみるならば、仏教者による素朴な太子信仰から、天皇制と仏教の接点に立つ存在として戦前の国家主義体制下におけるいささかきな臭い評価、自らの転向体験を重ね合わせた亀井勝一郎の、古代の知識人の悲劇という見方、さらに近年話題となった梅原猛の「聖徳太子怨霊論」にいたるまで親鸞とならんで多種多様の聖徳太子論が展開されてきた。
「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)はすでに奈良時代に、日本人の書いた本格的な仏教書としてわが国仏教者の誇りとするところであり、とくに鎌倉時代にはその注釈書も著された。しかし、近代において本格的な批判的研究に手を着けたのは花山信勝であった。花山は戦後A級戦犯の死刑囚の教戒師として東条英機ら最期を看取ったことで名高いが、研究者としては「義疏」の研究に力を注ぎ、先に触れた太子の自筆といわれる「法華義疏」の写本について詳細の調査・検討を試みた。これは御物本といわれ、法隆寺から皇室に献納された四巻の写本であるが、花山はその研究を通してこれを太子の自筆本と認めて良いと結論した。主な論拠は (1)加筆や修正が多く、それは著者自身の手によるとしか考えられない。(2)大陸の学匠の説を大胆に批判するなど、相当の学識と独自の思想を持っており、この時代に太子以外考えられない。
【フィクション系読み物】
2012.10.26 風の歌を聴け 村上春樹初挑戦
2011.12.15|報復相場
2011.11.07: ノーベル文学賞:村上春樹氏は3番手
2011.09.13: シグルイ 山口貴由2/2 ~伊良子清玄
2011.07.05: 民宿雪国
2011.03.18: ガンダム1年戦争 ~国家体制 1/4
2010.08.23: 燃えよ剣
2010.03.12: 探偵ガリレオ 東野圭吾
2009.11.23: 沈まぬ太陽
2008.08.20: 久しぶりに小説を
2008.05.05: 懐かしの民明書房刊