1994年になると、株価や不動産価格が下がる一方で、住専の危機が社会問題化していた。そんな切迫した状況になっても益出しと買戻しを繰り返して保有株式の簿価を挙げるのはリスクが大きすぎた。来年も再来年も株価が下がり続ければ、今度は逆に株式評価損を計上することになり、これまでせっかく益出しをしてきたのに元の木阿弥にもどってしまう。こんなことを続けていたらいつか必ず大変なことになると私は考えた。実際この株式評価損は当時だけでなく2000年代に入っても銀行や一般企業の自己資本を毀損して経営を苦しめることになった。もちろん赤字分を株式の益出しで埋めなければ自己資本は食われる。しかし保有株式の簿価は変わらずにすむから、今後の株価下落による評価損増大リスクを避けることができる。将来の株価下落リスクに耐えられる。そこで私はこの際、益出しをやめて、赤字決算するしかない判断した。今でこそ銀行の赤字決算は珍しいことではないが、当時は市場に与える影響がどれほどのものになるのか想像もできず、タブー中のタブーだった。過去の例を見ても日本の銀行が赤字決算をしたのは1946年、終戦直後の混乱期の一度だけで80年頃の「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかったのだ。
> 赤字決算禁止の習慣。すごすぎ。
ロクイチの由来となる6.1%の10年物国債は、今から見れば高利回りに感じると思うが、当時としては極めて低金利であり、それはつまり高価格の国債を意味する。大蔵省は大手銀行団を統合したいわゆるシンジケート団にこれを引き受けさせたため、住友銀行を含め、大手銀行のすべてが高い値段の国債を大量に保有することになった。そこに第2次オイルショックと金融引締めが襲いかかり、ロクイチ国債は暴落し、大手銀行のすべてが巨大な含み損を抱えてしまった。額面100円の国債の価格が74円まで下落したのだから、銀行にとっては大きな痛手だ。その頃の国債は時価評価で決算するのが常であったが、この時ばかりは大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達してきた。半強制的に国債を引き受けさせたという負い目があったためだろう。しかし、住友銀行はちょっとへそ曲がりなところがあり、「今まで時価評価でやってきたのにちょっと損が出たからといっていまさら取得原価で評価できるか」ということで、それまでと同様に時価評価していた。このときでさえ、住友銀行は赤字決算をせず株式を売って損失を埋めていたのだ。
> なんか国際会計基準とか、国際金融業務とかと縁遠い世界だなぁ~。中国の銀行もこんな感じなんだろうなぁ…。
1995年の正月明け早々、私は巽会長と森川敏雄頭取のもとに向かい、「こんな状態を続けているとダメージが大きくなってしまいます。思い切って赤字決算しましょう」と進言した。すると、お二人とも即座に了承してくれた。頭取と会長、企画担当者と専務の私の4人だけで極秘に会議を行い、1月17日に業績修正の発表をしようと決まった。ところが、その日の早朝、阪神・淡路大震災が起きた。19,000円台になんとか足をかけていた株価は震災の影響で見る見る下落していき、17,000円台に入ってしまった。「こんなときに銀行が赤字決算を出したらどんなことになるか?」 それでなくても滅多に無い銀行の赤字の発表だ。市場にこれ以上余計な心理的な影響を及ぼすことはすべきではないと判断した私たちは、その日の発表を見合わせることにした。そして10日後の27日、株式市場が多少落ち着いたところで、3月期決算の業績予想の修正を発表し、都銀初の3354億円の赤字(当初予想は600億円の黒字)になると表明した。赤字決算の結果として発生する当期の未処理損失については準備金の取り崩しで対応して来期に繰り越さない方針も示した。具体的には関連会社とイトマン関連の不良債権、大蔵省の意向を受けて都市銀行など民間金融機関162社が出資して設立した共同債権買取機構への不良債権の売却損、さらに債権償却特別勘定への引当金繰入などで総額8265億円にのぼる不良債権を償却する計画だ。そしてさらに予想外のことが起きた。私たちが赤字決算を出した途端、投資家が銀行株を買い始めたのだ。住友だけでなく他行まで軒並み買われ、金融関連株が高騰を始めたのである。マーケットは赤字決算によって不良債権処理が進むとプラスに捉えてくれた。ところが私自身は値上がりする株価を横目で見ながら、内心「しまった!」と思っていた。発表を見合わせた10日間で少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていたからだ。発表した業績予想の修正では赤字幅は3300億円であるけれども、実のところは5000億円程度の赤字があったのである。できればその額で業績予想を修正したかった。
> 西川さんのご英断は理解できるが、即時開示義務違反、5000億円の赤字と認識していながらも3300億円発表とは粉飾ですよ…。市場健全化とは程遠いな。
住専(住宅金融専門会社)は、1970年代に住宅ローン需要が伸び続ける一方で、銀行は融資の審査が厳しく個人向けローンのノウハウが無かったことに対応した大蔵省の強い主導で設立されたノンバンクだ。民間銀行は出資を求められ、1971年から79年までに8つの住専が設立された。住専各社は当初こそ個人向け住宅ローンを扱っていたが、バブル時代になって銀行が個人向け住宅ローンに進出してきたため、新たにニーズが強かった法人向け不動産担保融資にのめり込んでいった。これらが大量に焦げ付き、1995年8月に行われた大蔵省の調査で、住専の不良債権額は後述する農林系1社を除き、全体で6兆4000億円にものぼるとされた。融資された額が突出して多い末野興産の末野謙一氏、桃源社の佐々木吉之助氏といった「住専借金王」たちがマスコミで話題になったもこの頃だ。政府内で問題になったのは政府系金融機関である農林中央金庫、および各県の信用農業組合連合会、全国共済農業協同組合連合会のいわゆる「農林系金融機関」が47の信農連と農林中金の出資によって系列に共同住宅ローンを設立したのをはじめ、住専に巨額の貸し込みを行っていたことだ。それらが損失となり、5300億円とされた農林系の負担能力を超える部分を誰が負担するかを巡って農林系と民間金融機関との間で激しい対立が起き、世論を巻き込んでの大騒動になった。その結果連立与党プロジェクトチームは、農林系を除く7住専の損失額6兆4000億円の穴埋めのために、住専各社に出資した住友銀行を含む、いわゆる「母体行」に合計で3兆5000億円、一般行に1兆7000億円の債権放棄を求め、農林系の負担能力5300億円を超える6850億円については公的資金注入で賄うことで議論をまとめ、12月に村山内閣が閣議決定した。当時大蔵省は危機感を持って機敏に動いていた。住専国会が終わるとすぐに発足間もない橋本龍太郎内閣のもとで不良債権処理の障害の除去に本腰を入れ始め、翌97年6月に不良債権償却証明制度を廃止し、銀行による自己査定に基づく債権処理が導入された。債権を「正常先」「要注意先」「破綻懸念先」「破綻先」の4つに分け、区分ごとに引当金を積んで、繰延税金資産として決算上の税負担をなくすことができるようになったのだ。これは非常にありがたい制度変更であった。もちろん、日本では税務当局の意向が強く、銀行に債権償却を勝手にやらせることには抵抗がある。
> 有限責任の原則もへったくれもねーなあ。
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住管機構の主張は住専の融資が焦げ付いたのは母体行の1つである住友銀行が質の悪い融資先を紹介したからだという。紹介責任があるはずだ、というのがあちらの言い分だった。しかしこれはずいぶん無茶な話である。母体行とは、住専に出資した銀行のことをいう。銀行の出資比率は会社法の規定で5%以内と決められていた。いわゆる5%ルールだ。その先駆的存在が、1971年6月に設立された「日本住宅金融」で、三和銀行をはじめとする金融機関が出資している。社長には大蔵省OBの庭山慶一郎氏が就任した。住友銀行が出資したのは、その次の同年9月に設立された「住宅ローンサービス」だった。住友以外に第一勧業、富士、三菱や長信銀、信託銀行など大手金融機関が大株主にずらりと顔を揃えた。その後も、銀行、証券会社、生保などの金融機関が、1979年までに6つの住専会社を相次いで設立したわけだ。ところが住専各社は店舗網が十分ではない。したがってバブル時代に住専がのめりこんだ法人向け不動産担保融資の案件を銀行側から紹介しなければいけなかったのだ。だから、住管機構の主張を銀行側から見れば、大蔵省主導で出資させられ、融資先まで紹介したのに、焦げ付いた筋の悪い案件を紹介した銀行のせいだ、といわれていることになる。ところが住専にはすでに公的資金が注入され、世論は銀行側にとても厳しくなっていた。そこに拍車をかけたのが住管機構社長の中坊公平弁護士とマスコミの存在だった。国民の税金を取り戻そうと奮闘する中坊さんと、それを応援するマスコミの報道によって、住友銀行はすっかり悪役になってしまった。しかし、問題は何の審査もしないで融資をした住専にある。結局、1999年住友が30億円の損害賠償に応じて和解することで決着がついた。
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