日本経済は高度経済成長期とはいえ、戦後間もない時期で経済に厚みが無く、常に外貨が不足していて、すぐに「国際収支の天井」になってしまい、その度に金融引き締めが行われていた。銀行は日銀の窓口規制が厳しい一方で、民間の資金需要に応えなければならなかった。それまで、預金集めと言えば富裕層を主体にしていた。一般のお宅にお伺いしてまで預金を集めるようなことはやっていなかった。そのため旺盛な資金需要に応える原資が慢性的に不足していた。そこで大手の銀行は金融市場というマーケットで資金を調達することになるが、当時は銀行が振り出した手形やコールローンなどで資金調達していた。これらの資金は、例えば地方銀行や信用金庫、年金などが市場に放出したお金だ。その資金を大手銀行が調達するのだがこれが預金金利よりはるかに高い金利なのだ。その金利水準が最高16~17%といったこともあった。しかし、そんな高い金利では誰も借りない。貸出金利は公定歩合と連動した水準で、長期プライムレートでは8%程度、短期ではもっと低く設定されていた。高い金利で調達した資金を低い金利で貸し出せば、逆ザヤも極まって銀行はたちまち大赤字になってしまう。
「国際収支の天井」:当時の日本企業は、設備投資を行うためのさまざまの機材を輸入に頼っていた。一方で、輸出は安価な繊維製品が主流である。国内が好景気に沸けば輸入が増えるので、貿易収支が悪化する。外貨準備が底をつき、設備機材や原材料が輸入できなくなる


安宅産業が「総合商社」と呼ばれる十大商社の1つに位置づけられたのは戦後も20年経過した1960年代半ばに入ってからで、それでも上位商社にはまだまだ大きく水をあけられていた。危機発覚時の1975年の9月中間決算で比較すると売上高の1位の三菱商事、2位の三井物産の1/4程度に過ぎず、しかも60年代より上位との格差が拡大していく傾向にあった。当時の総合商社の花形はエネルギーや資源部門だ。なんとか万年下位から脱出しようと懸命に商圏拡大を目指している渦中で安宅が始めたのが石油取引だった。1972年、安宅産業の米国子会社である安宅アメリカが船会社の三光汽船と共同でNRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)という製油所の設備資金として1500万ドル、当時の為替レートで約45億円をNRCに融資した。三光汽船が運用する大型タンカー3隻の長期用船契約を安宅アメリカが仲介するためだ。安宅産業の主力銀行だった住友銀行はその翌年の4月、安宅アメリカに対してこの1500万ドルを融資している。
NRCはレバノン系アメリカ人のジョン・ミカエル・シャヒーンという、ニクソン米大統領と親密な関係があると言われた希代の政商の野心そのものだった。シャヒーンは1915年生まれで石油業界に君臨するメジャーに対抗して自前の独立系企業集団を作ろうとしていた。その1つがNRCで、カナダ北東部のニューファンドランド島にある入り江に面して建設された、日産10万バーレルというまずまずの規模の製油所である。当時、アメリカはすでに自国内の原油で石油消費を賄いきれず、原油輸入国に転じ、輸入依存度は増すばかりだった。シャヒーンの狙いは、アメリカ産原油よりはるかに割安だった中東の原油をここに運んで精製し、アメリカに輸出することだった。当時のアメリカの石油価格は、南部では安かったが北部では高かったのだ。
安宅アメリカの資金を得て、NRC製油所は1973年12月15日に操業を開始した。しかし、その折もおり、10月6日にイスラエルとエジプト・シリア間で火蓋を切っていた第4次中東戦争をきっかけに原油生産削減を決めたOPECが、親イスラエル国への報復を企図して、原油価格を翌年1月から一挙に4倍に引き上げることにしたのだ。日本の企業という企業に衝撃を走らせたばかりか、全国の主婦をトイレットペーパーの買占めに走らせた第一次オイルショックである。NRCはオイルショックの直撃を受けた。原油の仕入れ価格が4倍になってしまったら、いくらカナダで製油してもアメリカで売るときは仕入れ価格を割り込んで、大幅に値を下げないと売れない。仕入れ価格を製品価格に転嫁できるまでには相当時間がかかった。この巨大な逆ザヤが原因で、創業開始直後からたちまち大幅な赤字経営に陥り、のちの調査では1年で6016万ドル、約180億円、そして安宅危機が表面化した1975年9月末には1億6000万ドル、約480億円もの赤字を計上したという。安宅産業はNRCを足がかりに、念願だった石油取引の証券を拡大して念願の一流商社の仲間入りを果たそうとしていた。その意識が前のめりになったのだろうか、安宅アメリカはNRCとの間で非常に不利で危険な代理店契約を1973年9月20日に交わしていた。これは安宅アメリカがNRCの契約代理人としてBPの販売会社BPT(ブリティッシュ・ペトロリアム・トレーディング)から原油を買い付け、NRCの関連会社PRC(プロビンシャル・リファイニング・カンパニー)に販売するが、PRCは原油買掛金の見返りとして安宅アメリカに300万ドルの銀行保証状を差し入れるという内容だった。つまり、これでは安宅アメリカには外銀に信用状(LC)を開設してBPTに対する原油買付代金の決済義務が生じるけれども、原油を売る相手であるPRCに対する売掛金の見返りは、わずか300万ドルの外銀の銀行保証状が付くだけというものだった。オイルショックを受けて1974年4月にNRCに対する与信限度額をそれまでの6000万ドルから一挙に1億8900万ドルにまで増やしたのに、この与信限度額に対する見返りはわずか3%に過ぎなかったわけである。
安宅英一会長
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当時の安宅産業の負債総額は1兆円あり、もし安宅産業が倒れれば、1975年8月に戦後最大の負債総額で倒産したばかりの興人の5倍にも達する超大型倒産になってしまう。35,000社もある取引先の連鎖倒産、主力銀行の住友銀行はじめ230行ある取引銀行の債券焦げ付き、関連会社を含めると2万人もの従業員の失業にもつながりかねない。安宅の主力銀行はもう一行あって、それが融資額で住友に接近していた第2位の協和銀行だった。住友より資金量が小さいにもかかわらず住友に近い融資額であったから、安宅破綻で被る痛手は住友銀行よりはるかに大きい。私たちはかなり早い段階で協和銀行と協議を開始したが、彼らの真剣味ときたら並大抵ではなかった。安宅産業の破綻は安宅アメリカの焦げ付きが直接引き金を引いたわけだが、それ以前からこのバブル崩壊が原因になって、国内でも相当に深刻な危機を迎えていた。安宅も不動産に手を出していてゴルフ場予定地として質がよくない土地を高い値段で買い込んでいた。それが不動産価格の暴落で開発が止まるなどして不良債権化していた。実はそれは他の総合商社とて同じである。しかし伊藤忠や住友商事は体力がったから不動産バブル崩壊も何とかしのぐことができた。
協和銀行との協議に入ってすぐに安宅処理の方向性は決まっていた。きちんと経営実態を把握して、他の総合商社に吸収合併してもらう以外に道は無い。合併によって安宅の商権が守られれば安宅の取引先企業の連鎖倒産や人員解雇を最小限に抑えることができるにちがいない。合併先として考えていたのは当初から住友商事と伊藤忠商事の2つに絞られていた。しかし、どちらかというと住友商事は当初から引き気味ではあった。その最も大きな理由は安宅の最大の取引先が新日鉄だったのに対して、住友商事はすでにグループに新日鉄のライバルだった住友金属工業があり、鉄鋼の商権をすでに持っていたことだった。
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