ラスプーチンは、まるで中世の昔からぬっと現れたかのように、ぼろをまとい、薄汚れた姿で、得体の知れないことをつぶやきながらサンクト・ペテルブルクにやってきた。何年も放浪生活を送ってきた人間であることは一目見て明らかだった。彼は食べ物でいっぱいに膨らんでいるように見える乞食ポケット付の灰色の安物外套を着ていた。ズボンはぼろぼろ、尻の部分は「ほころびかかった古いハンモックのようだった」とイリオドルは書いている。ズボンの下から見える黒いタールを塗った農民ようのブーツはやがて、彼の誘惑道具の1つとなり、上流社会の婦人たちを抱擁した時に、そのスカートに記念の徴の黒い染みを残した。居酒屋の給士のように無造作に中わけしたボサボサの汚い髪は、もつれた長い髭と絡み合って、まるで青白い顔に黒羊の皮を貼り付けたかのようだった。青い唇の上下には口髭が「2本の使い古したブラシのように」突き出していた。もじゃもじゃの眉毛の下のくぼんだ目は青みがかった灰色で、怒ると目つきが鋭くなる。丸っこい爪は汚れていて、手はあばただらけだった。彼の身体は「なんとも言えない不快な匂い」を発散していた。


水に浮かぶ都市・ペテルブルク
「大学プロレタリアート」と呼ばれる学生たちで、青い帽子によれよれの防寒コートを着て、やせこけた顔は上と疲労で年の割には老けて見えた。いくらか元気のいい若者達はサークルを作って革命を企て、暗殺に走った。秘密警察はとりわけ彼らに目をつけ、密かにその動向を探っていた。ウラジミール・イリイチ・レーニンの兄も医学辞典の中に隠した爆弾で皇帝の暗殺を計画した廉で絞首刑に処せられた。20世紀に入ってから既に3人の大臣が学生に殺害されていた
街には活気がみなぎっていた。ここはバレエ、オペラ、石油化学、生理学といった将来性のある芸術、学問の世界的中心地だった。この都が生んだバレエ、ファベルジェのすばらしい宝飾品、流行の前菜に利用されるキャヴィアやウォトカは、西欧で大はやりした。若いヴァツラフ・ニジンスキーは帝室バレエ学校を卒業し、踊り手としてスタートを切ったばかりだった。
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振付師のフォーキンやバレリーナのパヴロフも最近ここを卒業したところで、バレエの興行しディアギレフは雑誌『芸術世界(ミール・イスクースストヴァ)』の編集者も勤めていた。バス歌手のフョードル・シャリアピンはスラムの生まれだが、俳優の演技力を始めてオペラに活かして成功した。プロコフィエフは音楽院に入ったばかりで、リムスキー=コルサコフの教えを受けており、先輩にはラフマニノフがいた。ゴーリキーの戯曲『どん底』は、俳優で、演出家でも会ったスタニスラフスキーの関心を引き、彼独自の「演技手法」(俳優が自己の感情・経験を生かしてその演ずる役柄に成りきろうとするもの)がその上演に取り入れられた。イヴァン・パヴロフは実験医学研究所で行った条件反射の実験で、まもなくノーベル賞を受賞、化学元素の周期的分類法を考え出したドミートリー・メンデレーエフはサンクト・ペテルベルク大学科学部の教授として健在だった。
>錚々たる面子ですね。
アレクサンドラ皇后 ニコライ2世との結婚によってプロテスタントからロシア正教に改宗、ラスプーチンの熱狂的な信奉者。
アレクサンドラが信仰療法師や心霊術に転倒しがちだったのは、世継ぎの男児がなかなか生まれなかったせいもある。1901年までに、彼女はオリガ、タチヤーナ、マリーヤ、アナスターシャの4人の子供を生んだ。みんな愛らしく、健康で、活発な子供達だが、全部女の子だった。ニコライがチフスで病床に伏すと、跡継ぎ問題が急に取り沙汰されるようになった。100年ほど前、精神が不安定で、やや異常でもあったパーヴェル皇帝は、宮廷の陰謀によって絞首される寸前に、女性全般、とりわけ自分の母のエカチェリーナ女帝への憎しみから、「サリカ法(女子を皇位継承から排除する基本規定)」を含む長子相続制による皇位継承法を制定した。これにより、継承権のある男子全員が死亡しなければ、女性はロシアの皇位を継ぐことはできなくなった。長女のオリガが皇位継承権を要求できないと聞かされたアレクサンドラはすっかり絶望的になった。
1902年、アレクサンドラが跡継ぎを生むことを切望していることを知ったフィリッペ博士は、自分の能力を過信して策におぼれた。博士は皇后に男児を妊娠していると思い込ませたのである。彼女はコルセットを着けるのを止めた。そして肥った。皇后は妊娠したので、出産まではレセプションなどには出席しないという公式発表も行われた。妊娠9ヶ月になると、首都では誕生を知らせるペトロパブロフスク要塞からの祝砲の数に期待が集まった。男児誕生なら300発、5番目の皇女ならば100発のはずだった。ところが祝砲は1発も聞こえなかった。アレクサンドラは床に就いた。産婦人科の侍医オットー教授の率いる医療チームが陣痛が始めるのを待っていた。間際になってオットーが診察してみると想像妊娠であることが分かった。社交界は笑った。すでに4人の子持ちである皇后が、偽医者に妊娠しているといわれてそれを信じるくらいなら、どんなことでも信じるだろうと彼は思った。いったん彼女が何かを信じれば、「善良だが意気地なしの」彼女の夫である皇帝も、すぐにそれを信じてしまうのだった。そういう男が1億4千万人の臣民の暮らしに無限の権力を持っていたのである。フィリッペはまさに、来るべき運命を予示していた。皇后の気性や性格からしてそういうことがまた起こっても不思議はなかった。ラスプーチンとのめぐり合いは起こるべくして起こったのである。
補佐官の一人がインテリゲンチャのことに触れると、ニコライ(皇帝)は「その言葉は大嫌いだ!」と話をさえぎり、科学アカデミーはこの言葉を削除するべきだといった。世論に触れた報告書が持ってこられると「世論が何だって言うんだ?」といきりたった。ウィッテによれば、「彼は本来、自説を譲らず、はっきりものを言い、断固とした行動をする人間を嫌った」。彼には自分が愛されない息子で、チビの甥で、話下手であるという劣等感があり、それが「自分より知性や意欲の面で優れた人間」に対する不快感を持たせるようになった。彼は自分より資質が劣る人、あるいは、ラスプーチンのように、そういう「皇帝の弱点を知っていて、自分は資質の劣った人間であるように振舞う人」としか、気軽に付き合えなかった
1904年、アレクサンドラが再び妊娠していることに気がついた頃には、ロシアはいつの間にか日本との戦争に引き込まれつつあった。ロシア軍は大きな不凍港であり、要塞でもある旅順を占領し、1901年のシベリア横断鉄道の完成によって拡張政策に拍車がかかっていた。モスクワから太平洋側のウラジオストックまで、悪路を越え、川を渡っての軍隊の行軍には18ヶ月かかっていた。それが13日に短縮された。宮廷に出入りする投機家の中には、朝鮮にも目を配りつつ、鴨緑江の木材採集権獲得計画を進める一団もあった。日本軍は戦争突入を覚悟せざるをえなかった。
東郷平八郎提督は、駆逐艦11隻を率いて旅順港に急行した。旅順港に停泊中の7隻の戦艦には煌々と明かりが点いていた。艦砲のそばに砲手はおらず、砲弾も装填されていなかった。岸辺の砲台は冬季用にべっとりと油が塗られていて発砲できなかった。東郷の駆逐艦は意のままにロシアの軍艦の船体に機雷を打ち込み、大洋へ引き返した。たった一つしかない機雷網の敷設記録を備えたロシアの機雷掃海艇が、自軍が仕掛けた機雷に触れて沈没した。3月には不意打ちに出た旗艦ペトロパヴロフスク号がロシアの機雷に爆破された。
ニコライが皇室ヨット「スタンダルト」号の甲板から、フィンランド湾を出向して大西洋に向うバルチック艦隊を観閲している頃、ラスプーチンはまだ、ポクロフスコエにいた。艦隊の使命は旅順港の包囲を解くことだった。「今夜が怖い。狭い海峡を通るので、日本軍の機雷にぶつからないか不安だ」と一等機関士がまだバルト海にいるうちから妻に書いている。出航から6日目、ロシア艦隊は北海で操業中の英国のニシン漁船を日本軍の機雷敷設船と見間違えた。法主がへたくそだったので、砲弾はそのトロール漁船にはほとんど当たらなかったが、味方の巡洋艦の1隻に6発も打ち込んでしまった。日本の軍艦はまだ16000kmも彼方にあった。スエズ運河は閉鎖されていたので、ロシア艦隊は喜望峰まわりになった。ロジェストヴェンスキーは燃料不足になることを心配して、石炭を甲板や周囲に山積みにさせた。通気孔にも舷窓にも石炭の煤がつまり、兵士達は熱帯の洋上の暑さにへたばった。石炭の山をどけなければ砲術演習すらできなかった。彼らがまだナイジェリア沖にいた頃、日本軍歩兵部隊は旅順港周辺の高地を占領し、ロジェストヴェンスキーが救援に向うはずだった太平洋艦隊の残りの船舶も撃沈されてしまった。
【民族主義・闘争】
2013.10.24 残虐の民族史 2/3 ~ジンギス汗
2013.03.11 藤原氏の正体 2/4 ~中臣鎌足とは? その出自
2012.12.07|殺戮と絶望の大地
2013.04.03 わが闘争 上 民族主義的世界観 2/7 ~ドイツ民族とユダヤ
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代