わが闘争 下 国家社会主義運動 2/7~国民の精神

人種の純粋な辺境植民地
そこに達するための道はまず第一に国家が獲得した新しい土地の植民を放任しておかず、特別の基準にゆだねることになる。このために専門に作られた人種委員会が、個々人に移民証明書を発行すべきである。しかしこれはある人種上の純粋さを確定したものでなければならない。そのようにだんだんと最も人種的に純粋で、したがって人種的に最も有能な担い手ばかりの住民がいる辺境植民地の基礎が作られているのである。それとともに彼らは全民族の尊い国民的財宝となり、彼らの成長は民族同胞の一人一人を誇りと喜ばしい期待でみたすに違いない。とにかく彼らの中にわが民族のむしろ人類の将来の最後の大発展の萌芽が保護されて存在しているのだ。民族主義的世界観は、民族主義国家において人間がこれ以上犬や馬や猫を飼育向上させることに熱中せず、人間自身を向上させるようなより尊ぶべき時代、すなわちあるものは自覚して黙って断念し、他のものは喜んで身をささげて子供を作る、という時代に到達するに違いない。幾十万の人々が教会の戒律に縛られ、それを義務と考えて、自発的に独身に耐えているような世界でも、こういうことが可能であることは否定できないのである。そういう戒律の代わりに、絶え間なく行われる人種を毒する遺伝的罪悪を阻止すべし、そして全能の造物主のために、神が人間を創りたもうたように人間を生むべし、という警告を発するならば、子供を作ることを断念することは不可能となるに違いないだろう?
日本にはここ最近、草食系男子や童貞をこじらせているという民族が居るらしいが、日本民族の向上のために自発的に生殖を断念しているのだろうか? 生殖の制限など非現実的だと嘲笑すると、ヒトラーは次のように反論してくる w
ドイツ青年への呼びかけ もちろん、このことは今日の憐れむべき大勢の俗物どもには決して理解できないだろう。彼らはこれを嘲笑するか、斜めに肩をすぼめ、長い逃口上でうめき声を出すだろう。「それはそれ自体まことに結構だ。だが実際にできないだろう!」と。なるほどお前は唯一つだけ心配がある。つまりお前たち個人の生活だ。そしてお前たちには唯一つの神がある。つまりお前たちの金だ!だが我々はお前たちに用は無い。自分たちの個人的生活をこの世の最高の幸福と考えるためにはあまりに貧しすぎる多くの人々、自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じている大勢の人々に向かうのだ。我々は何よりもまず、力強い大勢のわがドイツ青年に呼びかける。彼らは偉大な転換期の中で成長しており、彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ。ドイツ青年はいつか新しい民主主義国家の建設主になるか、最後の目撃者として、ブルジョア社会の完全な崩壊、終末を体験するかであろう。
自信の暗示力
根本から臆病に生まれついた人間は教育によって勇気あるものになしがたいのは確かである。だが臆病な人間が、彼の受けた教育の欠陥によって、身体的な力と強靭さにおいて、もともと他のものに劣っている場合、彼の特性を伸ばしてやることができないのもまた確かである。体が丈夫だという確信があると、どんなに自己の勇気が助長され、そのうえ攻撃精神がわいてくるかは、軍隊を見れば一番よくわかる。軍隊にはももともと英雄ばかりいたわけではなく、普通の平均の人間が居たのだ。今日、崩壊して他国の人々の蹂躙にゆだねられ、横たえているわがドイツ民族こそ、自信の中にあるあの暗示力を必要とするのだ。だがこの自身は既に子供の時から若い同胞に引き入れられねばならない。すべての若い同胞の教育や訓練は全体に、自分たちが他のものより絶対に勝っているのだという確信を与えるようにはからねばならない。若い同胞は自分の身体的な力や強靭さにおいて、民族全体が無敵であるという信念を再び獲得せねばならない。というのはドイツ軍をかつて勝負に導いたものは、各々の個人は自分自身に対し、全体として彼らの指導部に対して持っていた信頼の総和であったからだ。ドイツ民族を再び高めたものは、自由を再び獲得しうるという確信である。だが、この確信は幾百万のものが一人ひとり同じように感じた結論としてのみありうるのである。
歴史教育の原則
特に従来の歴史教育の教授法の改革が企図されねばならない。ドイツ民族ほど歴史をたくさん学ぶ民族は無いかもしれない。だがわれわれほど歴史をうまく利用していない民族も無いだろう。もし政治が生成中の歴史であるならば、さらに我々の歴史教育は我々の政治活動のやり方で方向が決まるのである。最も重要なことは大きな発展の流れを認識することにある。人々は単に過去にあったことを知るために、歴史を学ぶのではなく、歴史の中に将来のため、自分の民族の存続のために指針を得るために歴史を学ぶのだからである。根本的な歴史研究は個々の日付を全て覚えることが必要でそれによってこそ大きな流れをはっきりとつかみうるからだ、といってはいけない。これを確定することは専門科学の課題である。だが普通の平凡な人間は歴史学の教授ではない。彼らにとっては歴史というものは、まず第一に自分の民族の政治事件に対して自分の態度を決定するのに必要な歴史的洞察の尺度を与えるためにあるのだ。さらに人種問題が主要な問題として取り扱われるような世界史が最後に書かれるよう配慮することは、民族主義国家の課題なのである。
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歴史教育は、自国民の自虐的歴史観の創生のためではなく、民族としての誇りと自信、国民意識の覚醒のためになされるべきである。サッチャーの教育改革もしかり、現代日本の教育がこのように改革されることによって害をこうむる国家が、その教育改革に神経を尖らせて干渉してくるのも理解できなくはない。
最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。だが経済生活において有能な人間は、上から決めるべきものではなく、自ら闘って地歩を占めるべきものであるように、ここでも最小の商業から最大の企業に至るまで不断の修練を与え、さらに生活がその時々の試験を引き受けるように、もちろん政治的頭脳の持ち主もまた突然に発見されるものではない。ずば抜けた天才の場合は普通の人間と話が違う。国家はその組織において、地方自治体という最小の細胞から始まって、全ドイツ国の最高の指導部に至るまで、人格原理に根拠を持たねばならない。多数決は無く、ただ責任ある人物だけがある。そして「ラート」(助言、協議、相談)という言葉は、再びその本来の意味に戻される。もちろん全ての人々には、相談相手というものはある。だが決定は一人の人間だけが下すのである。かつてプロイセン軍をドイツ民族の最も驚嘆すべき武器たらしめた原則が意味を転用して将来我々の国家間全体を建設する根本原則であらねばならない。すなわち全指導者の権威は下へ、そして責任は上へ、である。さらにまた人々は今日議会と呼んでいるこの団体を無しで済ますこともできないだろう。だが議会の助言は実際に助言するだけになって、責任は常にただ一人の担い手だけが負うことができるし、また負わせてよい。民主主義国家は、地方自治体から始まってドイツ国指導部に至るまで、多数決によって決めるような代議制はなく、ただその時々の選ばれた指導者に助言し、指導者から仕事を分担させられるような協議会だけがあるのだ。それはその必要に応じて何か特定の領域においては、ちょうど大きな領域の場合その時々の団体自体の指導者や長が持っていると同じような絶対的責任を引き受けるためにあるのである。
世界観は不寛容たるべし キリスト教も自分の祭壇を作るだけでは満足できず、必然的に異教徒の祭壇を破壊するまでに進展せざるをえなかった。こういう狂信的な不寛容さからのみ疑いを入れぬ信仰を形成することができたのであり、しかもこの不寛容さがキリスト教のための絶対的前提なのである。世界史に見られるこういった種類の現象の場合は、大抵こうした独特のユダヤ的な考えに関係しており、実際にこの種の不寛容さや狂信はまさしくユダヤ的本質を具体化している、と異論を挟む人ももちろんたくさん居る。これは十分正しいでもあろう。これは実に悲しむべき事実である。そして人類史のこういう現象はあまりにも不愉快すぎるので、いままで注意されていなかったのである。非常に自由な古代社会において、キリスト教の出現と共に、最初の精神的テロが現れたことを知って、今日、心を痛めるかもしれない。しかしそれ以来、世界がこの圧制に侵害され、支配されており、圧制はただ圧制によってのみ、そしてテロはただテロによってのみ破ることができるという事実は、異論を唱えることができないのである。
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