つまらぬ人物が、精神、能力ともに矮小になればなるほど、彼に巨人のような力や独創性を求めず、むしろ尊重のずるさに甘んずる体制、ペリクレス(紀元前495-429、古代ギリシアの政治化、アテナイ民主政治の完成者といわれ、アレオパゴス会議の実権を奪って評議会を民衆際場所に移し、役人選出に抽選を用い、役人に日当を支給するなど国政の民主化につとめた)の賢明さよりもこの種の賢明さが好ましく見える体制を彼は称揚するに違いない。その際、こういうアホウは自分の行為の責任で決して苦しむ必要は無い。彼はこのような心配からはとっくに根本的に開放されている。彼は彼の「政治的不細工」の結果がどうであろうと、彼の運命がすでにとっくに定まっていることを十分知っているからである。思うに個々人の水準が低下するにしたがって大政治家の数が増すのが、こうした没落の兆候なのである。彼はしかし議会主義的多数への依存が増すとともに、だんだんと小さくならねばならない。というのは偉大な人物はバカな無能者や饒舌家の小使になるのを拒否するし、逆に大多数の代表者たちは-それはかくのごとくバカであるが-すぐれた頭脳のものを心から憎むものだからである。だがこの民主主義の発明は、最近になって真の恥辱にまで発展した特性、すなわち我々のいわゆる「指導者たち」の大部分の卑怯な特性に、最もぴったり応ずるのだ。いくつかの重要なことをすべて実際に決定する場合に、いわゆる大多数というスカートの陰に隠れることができるのは、なんと幸福なことだろう!
こういう政治の追いはぎを一度見るがよい。彼らが自分のために必要な共犯者を確保し、それとともにいつでも責任を逃れうるようにするために、大多数の賛成を心配そうに請け求めていることか。しかし、この種の政治活動は、心から上品で、同時にしかし勇気もある男は嫌がり憎むけれども、すべてのあさましい性質のものたち-自分の行動に対して個人的に責任を取ろうとせず、防御物を求めるものは卑劣なルンペンである-をひきつける主な理由がこれである。すなわち多数は決して一人の人間の代理ができない、ということである。多数はいつも愚鈍の代表であるばかりでなく、卑怯の代表でもある。100人の馬鹿者からは実に一人の賢人も生まれないが、同様に100人の卑怯者からは、一つの豪胆の決断も出てこない
国家事務を管理する内閣が選ばれるとしてもそれにもかかわらずこれはただ見せかけに過ぎない。実際にいわゆる政府は、まず事前に一般会議の承認を得なければ何も行うことができない。しかし最後の決定は政府には無く、議会の多数者にあるのだから、政府は同時にまた何も責任を問われない。どんな場合にも政府は、ただその時々の多数の意志の執行者であるにすぎない。人々は政治的能力を多数者の意思に順応するか、それとも多数者を自己にひきつけるか、という技術によって判断しうるだけである。職業とかあるいはまったく個人の能力とかにしたがっている選出された500人の民衆代表者たちの内部構成は、分裂して多くはまた哀れな像を生じている。というのは、これら国民から選ばれたものが、同様に精神や知性の点でも選ばれたものであるとはどうしても信じられないからだ! 才知あるとはいえない全ての選挙人の投票用紙からは政治家が同時に100人も生ずるなどと希望的に考えないでほしい。一般に普通選挙から天才が生まれるだろうなどというナンセンスなことにはいくら鋭く対抗してもしすぎることは無い。第一に、ある国民の中にはすべてが聖化されるぐらいの長い間に一度だけ真の政治家が生ずるのであり、、同時に100人もまたそれ以上に一度に出ることは無い。そして第二に、大衆が全ての優れた天才に対して感ずる嫌悪というものはまさしく本能的なものなのだ。選挙によって偉大な人物が「発見」される前には、らくだも針の穴を通っているだろう。
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最も重要な利害において、態度決定をするために必要な知識を持っているものが2,3人しかいないのになぜ500人も選挙するのか? しかり、まさにこれが事の真相なのだ。今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を形成することでなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群を寄せ集めることにある。個々人の人格的偏狭さが大きければ大きいほど、一定の方向へ指導することがますます容易になる。ユダヤ的民主主義とは、正直で誠実で個人的責任をとる覚悟がある男はそれを憎まねばならないのに、このうえもない嘘つきで、同時に特に日光を恐れる潜行者だけに好まれ、価値があるものだ。一方、ゲルマン的民主主義とは、全ての責任を完全に引き受ける義務をおっている指導者を自由に選ぶ、真のゲルマン的民主主義である。そこには個々の問題に対する多数決は無く、ただ自己の決断に対して能力と生命をかけるただ一人の決定だけがある。
議会制民主主義の欠陥を痛烈に批判しておるな。この私も一票の価値はゼロであるという問題発言をしたことがあったが、偶然にもヒトラーが、「今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を形成することでなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群を寄せ集めることにある。」と発言しているのには驚いた。500人もいる議会はその500人全てが立法機関のプロとして、成熟しているわけでもないのは明らかで、また対立する利害を調整するのは人数が多くなればなるほど難しく決定は遅くなり、革新や進化は起こりにくくなる。石破さんや小沢さんは一国会議員でありながらも(幹事長なのかもしれないが)立法家としての能力は他の国会議員の追従を許すレベルではないのは明らかであろう。そんな優れた立法家・政治家たちが国家・国民のために勇気ある政策決定を矢継ぎ早に断行するためには議会制民主主義は足枷以外の何者でもない。この民主主義に対する批判と挑戦とも思える主張は最もだし理解できなくも無い。それゆえドイツでは発禁本扱いにされているのだろうが、今の日本で読まれるべき本であると思えるので、ドイツ語に堪能な諸君はわが闘争をもう少しわかりやすく再翻訳して、日本で蔓延させることは愛国行為と言えるだろう。
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オーストリアにおける汎ドイツ主義運動は、一度次のように自ら問うてみるべきだった。すなわちオーストリアのドイツ主義の維持は、カトリック信仰の下では可能か、不可能か?と。もし可能ならばその場合政党は宗教上あるいはそのうえ宗派上のことにわずらわされてはならないし、もし不可能ならば、そのさいは宗教改革がなされねばならず、決して政党が介入してはならないのである。いつの時代にも非良心的な男が、宗教を自己の政治商売の道具にして平気でいるのだ。こういう議会の無能氏や怠け者には少なくとも後から、なお自己の政治的不正取引を合理化しうるような機会を提供されたときほど、好都合なことはありえないのである。というのは宗教やまたは宗派に彼の個人的な劣悪な言行に対する責任を負わせそのために攻撃するや否や、この嘘つき男は直ちに大声をあげて全世界に彼の今までの処置がいかに正しかったか、また宗教と協会の救済がいかに彼と彼の口先のお陰だけをこうむっているか、という証言を求めるからである。バカな忘れっぽい同時代の人々は、叫び声が大きいために、たいていはもう全闘争の真の主謀者を記憶していないか、忘れてしまっている。そこでこのルンペンは、いまや実際に本来の目的を達成するのである。
一人の敵への集中 汎ドイツ主義運動が、もし大衆の心理をもう少しよく理解していたならば、この運動はこんな失敗はしなかったであろう。人々が一般に成果を戦いとろうとするならば、純粋に心理的考慮からも決して大衆に2つまたはそれ以上の敵を示してはならない。そうでなければ、闘争力を完全に分裂に導くからだ。どんな時代でも本当に偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。

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