カテゴリー: 読書

歴史を騒がせた悪女たち7/7 ~悪女じゃない、完全なあっぷう

パトリシア・ハースト 誘拐の被害者からテロリストに実を転じた新聞王の孫娘
SLA(シンビオニーズ解放軍)と名乗る過激派は、カリフォルニア州に住む貧乏な人々にすべてに対して一ヶ月につき一人頭
70ドル分の食料費を出せ
というのである。”貧乏な”という基準に当てはまる人々は、推定で470万人ほどいたらしいが、もし
もこれを実行するとなると、なんと一ヶ月で3億3千万ドル、当時の日本円にして990億円ものお金が必要になる。誘拐されて
身代金を要求されるといえば親は金持ちというのが常識だが、これほどの金額ともなればそんじょそこらの金持ちでは出せ
ない。しかし、SLAが誘拐した19歳の女性、パトリシア・ハーストの親は並みの金持ちではなかった。9つの新聞、13の雑誌、
4つのテレビ局とラジオ局、銀鉱山、製紙工場、そして広大な不動産を所有する世界でも有数の金持ちだったのである。パ
トリシアの祖父でありハースト財閥の創始者であるウィリアム・ランドルフ・ハーストは、アメリカの新聞王として名高く、オー
ソン・ウェルズ製作主演の映画「市民ケーン」のモデルにもなった人物である。
それから二ヵ月後、パトリシアはとんでもないところに姿を現した。SLAのメンバーがサンフランシスコ郊外の銀行を襲撃した
のだが、備えつけの隠しカメラがとらえた犯人達の映像の中にマシンガンを構えたパトリシアの姿が映っていたのである。
誘拐されて以来、SLAメンバーの一人ウォルフが恋人だったこと、両親を「商業主義の太った豚」とののしる革命戦士に変身
したことをパトリシアは堂々と世界に公言したのだ。彼女がSLAの残党達とともに逮捕されたのは誘拐事件から1年7ヵ月後、
1975年9月19日のことだった。両親と会うことはできたが、彼女は武装攻撃罪など、11もの罪名で起訴され裁判を受ける身
となった。誘拐されたとはいえ、パトリシアがSLAの思想に共鳴して自主的に彼らと行動をともにしたことは明らかである。な
のに裁判ではまた一転して、彼女はそのことを全面的に否定した。ウィリアム・ウォルフなんか愛してはいなかった、彼とSLA
の黒人指揮官だったシンキューという男は、わたしを暴力で犯した、わたしは自分の意思に反して彼らに従わざるを得なかっ
たのだ、と涙ながらに訴えた

( ゚д゚)ポカーン
しかし、その訴えにもかかわらず、裁判所は彼女に懲役7年という有罪判決を下した。銃撃戦で死んだウォルフが身につけて
いたのと同じペンダントをパトリシアが肌身離さずもっていたことが、有罪の決め手になったという。
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悪女? 魔性の女? これタダの馬鹿女でしょ?
イサベル・ペロン 踊り子から世界初の女性大統領まで上りつめた女
ファン・ドミンゴ・ペロン、陸軍大佐で労働大臣兼厚生大臣だった頃にペロン派を組織し、51歳で大統領に就任した。貧富の差
が激しかったアルゼンチンで、最低賃金の引き上げ、不当解雇からの保護、といった労働者のための新しい政策を次々と実
行に移した。美貌の妻、エビータの活躍もあって、ペロンはアルゼンチン始まって以来と言われるほどの人気を獲得した。しか
しこの政策は人気取りの大盤振る舞いだった。国の経済はたちまち破綻し、それにともなってペロンの人気も急速に落ちてい
った。1952年にエビータが死去するとその同情票でなんとか盛り返したものの、1955年にはクーデターによってアルゼンチン
を追われ、亡命先のパナマでイザベルと知り合ったのである。1961年正式に結婚した。1971年、17年間も行方不明だった前
妻エビータの遺体が現われ、彼をアルゼンチンへ誘った
のだ。エビータという女の巨大な影は、この時からイザベルの上に重
くのしかかってきた
のである。アルゼンチン軍部はペロンとの和解のしるしとして、仮安置所から盗み出し、遠くイタリアのミラ
ノに隠していたエビータの遺体をマドリッドのペロンのもとに返したのである。
エビータはペロンの二度目の妻で、私生児として生まれ、美貌をいかして女優になった。彼女は野心的な女だった。彼女は出
世のために地位のある男ばかり選んで付き合った。そして陸軍大佐で実力ナンバーワンといわれたペロンと知り合った。二人
は手をたずさえて権力の階段を駆け上がった。大統領になるためには貧しい労働階級を味方につけることだ、とペロンに助言
したのもエビータだった。彼女は自分の持っていたラジオ番組などを利用してペロンの政策を熱心に宣伝した。二人は結婚し、
翌年ペロンは大統領に当選した。だが1952年、彼女は子宮がんで死去した。人々はイザベルによってエビータがよみがえる
ことを期待した。だから無条件で彼女を支持したのだ。イザベルにとって不運だったのはそれから1年もしないうちにペロンが
死んでしまった。こういう時エビータなら積極的にペロンの後を受け、堂々と大統領に名乗りをあげたことだろう。しかしイザベ
ルは違った。エビータのように男を引っ張っていくタイプではない。男の後に付き従って生きるタイプだった。政治の表舞台に
出たのも自らの意思ではなかった。他に有力な後継者がいないペロン派にとって彼女は唯一の看板スターである。下りられ
ては困るのだ。
> 可愛そう。この人も器じゃない人だったのね・・・。

歴史を騒がせた「悪女」たち (講談社文庫)
歴史を騒がせた「悪女」たち (講談社文庫) 山崎 洋子

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歴史を騒がせた悪女たち6/7 ~東洋の悪女

楊貴妃 唐王朝を惑わせた傾国の美女
クリスマスには、シティホテルがカップルで満杯になるとか、ティファニーのオープンハートが売り切れになるという話を聞
いた時、大げさな、と私は半信半疑だった。宝石にディナーに高級シティホテル、これすべて男性が支払うのだという。
女の子達もやってくれるものだ。『結婚しない女』という言葉が流行り、経済的なことを男に頼って生きるのはもうやめよう
媚びたりしないで、自力で清く生きていこう、と女たちがシュプレヒコールしたのは、まだつい最近だったような気がすると
いうのに・・・。女というものは、わたし自身も含めてなかなかずるい生き物である。媚びてなんかいないわよ、と言いなが
ら、百の理屈より、一度の甘い微笑のほうが、男を動かす力を持っていることをよく知っている。そして仕事の上でも、ここ
ぞという時には、無意識のうちにその力をつかっている。
>ずるいというか、怠惰なんだよ。男も含めて、そういうもんだろ。
俗に美人は3日で飽きるという。どれほど美しい女性であろうと、単に美しいというだけでは面白くない。それに世界最高の
美女などというものは、本当は存在しない。人の好みも千差万別、要は誰にとって世界一の美女であるかが問題なのだ

>(゚∀゚ノノ゙パチパチパチパチ
>美しい は形容詞だからねぇ、男の主観ですな。
後宮というハーレムを持つ男を長くとらえておくのは至難の業だったに違いない。楊貴妃が悪女だったとわたしが思うの
はそこのところだ。人の良い善良な性格の持ち主だったとすれば玄宗をさっさと別の女に奪われていただろう。現に、玄
宗の愛を楊貴妃と競ったとされる梅妃は、欲のない性格だったがために楊貴妃の策略で後宮から追い出されている。
梅妃はやさしく知性的な性格の持ち主だったらしく、楊貴妃の出現を悲しく思いながらも、特に目立った妨害はしなかった
ようだ。が、楊貴妃の方は違った。玄宗が梅妃の住まいへ行ったと知ると、そこへ押しかけ、あわてて梅妃を隠した玄宗を
責め立てた。楊貴妃の激しい嫉妬は、玄宗が梅妃を宮廷から遠く追いやるまでおさまらなかった。しかしもちろん、楊貴妃
はがむしゃらに玄宗を責め立てたわけではない。そんなことをすれば玄宗は彼女をうっとおしく思い、やさしい梅妃の方に
いっそう心を惹かれていっただろう。玄宗の自分に対する愛、嫉妬見せる頃合、やり方、すべてを的確に計算した上で、楊
貴妃はライバルの館にまで押し入ったのである。そのくらいの計算ができるようでなければ、後宮のナンバーワン女性には
なれない。クレオパトラも伝えられているほどの美女ではなかったという説があるが、楊貴妃の場合も、美しさ以外の要素
が大きかったのではないかと、わたしは想像する。
桂昌院 五代将軍綱吉と徳川幕府を操った大奥の女将軍
成田離婚という言葉がある。海外に新婚旅行へ行き、成田空港へ帰ってくるやいなや離婚してしまうことで、近頃では早
期離婚の代名詞として使われているようだ。この成田離婚の原因に男性のマザー・コンプレックスというのが大きな比重を
占めているという。誰にでもある程度のマザ・コン、ファザ・コンがあって不思議はないが、それも度を越すようでは困る。
日母親に電話する、週末は決まって実家へ行きたがる、母親の意見には無条件に従う
、というような男性では、のしをつけ
て”ママ”のもとにたたき返したくなるのも無理はない。
> マザコン論争か・・・。たたき返したくなってどうする? たたき返すか? ならたたき返されてやるけど。
結婚してもセックスができない、したいとも思わない、という男性も増えているそうだが、これも極度のマザ・コンから来る場
合があるらしい。こういう男性にとって、女性は欲望や尊敬の対象ではなく、ただ自分の世話を焼き、いたわってくれる存在
として必要なだけなのだろう。ではどうやったら、こんなマザ・コン男性をつかまずにすむか。これが実はなかなか難しい。
なにしろ彼らは、母親によって大事にていねいにつくりあげられた男達である。いい大学を出ていい会社に入っていても不
思議は無い。明るく清潔でいかにも育ちの良いエリート風、デートの際のマナーもスマートだったりするからやっかい
だ。
> 笑える・・・洋ちゃんそう怒るなよ・・・嫌な思い出でもあるのかいな?
「この子は末頼もしい。良い師を選んで十分に学ばせてやってくれ」と家光が整然、しみじみとお玉(桂昌院)に言ったほどで
ある。その言葉を支えに桂昌院は熱心な教育ママになった。べったりとそばについて、儒教を中心とする学問に励ませた。
現代でもマザコンになるのは父親不在、または不在同様の家庭で育った男性が多いというが、徳松の場合、まさしくそうい
った家庭環境だったといえるだろう。しかも母の桂昌院は、ほかに生き甲斐を許されない身である。その母子癒着ぶりもな
みたいではなかったに違いない。
> こういうヤツが一番困るんだよ。良妻賢母は結構なんだが変なんだよ。やっぱり。だから生類憐れみの令とか出しちゃうわけ。
> 家にいたら嫌になってくるだろ? またこういうのに権力持たせると民が犠牲になる。合理的な判断できないトップだから。
> 俺の主張をサポートする良い例だな。桂昌院。
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歴史を騒がせた悪女たち5/7 ~ロシアより愛を込めて

エカテリーナ二世 夫から帝位を奪い権力と肉体の快楽を追い求めた女帝
ちょっと前まで、女性の実業家とか政治家と言うのは見るからに男勝りというような人が多かった。それは彼女たちがう
まれつき男っぽかったわけではなく、外見も言動も”男”真似なければ、男社会の中へ入っていけなかった、という時代
背景のせいだと思う。見るからに女らしい女が男のフィールドに足を踏み入れると、男達からは対等に扱ってもらえず、
女たちからは反発された。政治家の中には元女優という人もいる。そういう方達は当然ながら美人なのだが、どこか
“お飾り”の観をまぬがれなかった
。彼女たちの実力は別として、政治家としてはちゃんと評価されていなかったので
はないだろうか。女実業家も同様だ。女としての魅力があればあるほど、仕事内容よりもスキャンダラスな面ばかり
詮索されるのがおち
だった。実力だけでやっていこうという女たちは、痛くもない腹をさぐられないためにも、必要以上
に”男っぽさ”を強調しなければならなかったのだ。しかし幸いなことに、世の中は急速に変わってきた。女であること
を堂々と主張しながら、政界、実業界を初めとしてこれまで男のフィールドとされていた場所で活躍する女性が増えて
きた。強い意志、経済力、女の魅力、と三拍子揃った女たちがこれからもどんどん増えるとなると、恋や結婚のあり方
も当然変わってくるに違いない。
>ねぇ・・・本当に変わってるの? そうなったら俺はもう少し生きやすいぞ・・・
でも女はほんとうにそんな人生を望むのかなあ、たった一人の男を愛し抜くことこそ、女の幸せなんじゃないの、と男
達は言うかもしれない。なんのなんの-。それは古き悪しき時代に生きた女のたてまえにすぎない。本音を言うと女
だって富と権力が欲しいのだ。それに複数のいい男達も。
>そうあって欲しいな。俺が非干渉協定を申し入れたら、
>「『何をしてもかまわない、あなたは自由だ』って、それはあなたの願望でしょ? 私はそうは考えない」
>って返ってきちゃうんだけど・・・俺の少ない、いくつかの経験ではな・・・
エカテリーナ二世、ゾフィー・フリデリーケ・アウグスタ 1729年ドイツの貴族、クリスチアン・アウグスト公の長女として
生まれた。ロシア皇妃となったもの、夫は不能ピョートル、エリザベータ女帝からのいびりに8年耐えたあげく、セルゲ
イ・サルトゥイコフと不倫。悪巧みにたけたセルゲイは、一計を案じた。ピョートルを説得して性器の手術を受けさせ、
エカテリーナとベッドを共にさせたのである。これでエカテリーナは晴れて女帝に妊娠を報告することができた
。だが
エカテリーナは子供を流産し、世継ぎ誕生を熱望する女帝をがっかりさせただけに終わってしまった。遊び人のセル
ゲイは、もうこの頃エカテリーナにすっかり飽きていた。だがとにかく世継ぎをと望む女帝やその側近の意思で種馬
の役割を割り当てられた。真面目に恋をしていたのはエカテリーナのほうだけだった。
1761年12月25日、ロシアに君臨した女帝エリザベータがついにこの世を去った。王座についたピョートルは名ばかり
の妻を排除して愛人のエリザベータ・ヴォロンツォーヴァを皇后の座につけようと考えていた。このままでは命すら危
ないとさとったエカテリーナは勇敢にもクーデターを決意した。ピョートルの前後を考えない気紛れな政策には人々の
不安と反感を煽っている。さらにはこちらには近衛連隊を率いるオルロフ兄弟がついている。次男のグリゴリー・オル
ロフはエカテリーナの愛人だった。その前の愛人であるポニャトフスキ伯はただただやさしい男だったが、グリゴリー
は勇猛果敢な軍人だ。持ち駒として充分役に立つ。この時エカテリーナはグリゴリーの子供を身篭っていた。彼女は
ピョートルに気づかれないよう出産を済ませてから本格的なクーデターの準備に入った。
>気づかれないように出産って・・・さらっと書いてるけどすげーことだ。どうやって隠したんだろう。
>妊娠はさすがに鈍感で無関心な俺でも気づくような気がするが・・・
その折も折、ピョートルから、ひとりでオラエンバウムにあるモン・プレジール館へ来いという命令が来た。罠だという
ことはすぐにわかった。エカテリーナを側近達から切り離し捕らえてしまうつもりに違いない。だが皇帝の命令とあら
ば拒否することはできなかった。館に閉じ込められ厳重に見張られているエカテリーナのもとにグリゴリーの弟、ア
レクセイが忍んできた。彼から同志が逮捕されたことを聞いたエカテリーナは大急ぎで館を脱出し、ついに反乱のの
ろしを上げた。エカテリーナは凛々しい男装で民衆の前に現れ、自ら軍を指揮した。その指導力と決断力は十二分に
男達の目を見張らせた。
クーデターは見事な成功を収めた。1762年、皇帝であり夫でもあるピョートルを逮捕したエカテリーナ、民衆の歓呼の
声に迎えられ、エカテリーナ二世としてロシアの女帝の座についたのである。その後。女帝エリザベータによって幽閉
されていた元皇帝イヴァン6世も夫であったピョートルも、生かしておいては危ないと判断するやいなや、冷酷にあの世
へ送った。男に関しては、セルゲイを失った時の誓いを厳しく守った。グリゴリーにも他の愛人にも惜しみなく位を与え
はしたが、政治に口を出すことは許さなかった。肉体の快楽と自分の仕事を決して混同しなかったのである。ただ一人、
政治家としても男として惚れこんだのが軍人ポチョムキンである。彼は男性的魅力においても政治的手腕においても
エカテリーナを魅了した。また実に頭の切れる男で、自分が旅に出る時は、若い美貌の青年を彼女にあてがうという
ことまでした。さらにその青年が自分の地位を脅かしそうになると、こっそり毒殺することも辞さなかった。しかし、懸命
なポチョムキンも、最後にはプラトン・ズーボフという野心家の美少年に寵臣の座を奪われることになった。この時エカ
テリーナは60歳、22歳のズーボフ
は、その若さと美しさで、女帝の身も心もとりこにしてしまったのである。
ルー・サロメ 奔放な愛で天才達の魂を奪いつくした情熱の作家
ルーは贅沢品に囲まれて育ったが、宝石にも華美なドレスにも興味を示さなかった。学校の勉強も程度が低すぎてつ
まらなかった。彼女が心惹かれたのは愛するロシアの革命であり、神に対する興味と疑惑である。思春期になると同
じ年頃の少女たちはお洒落に身をやつし、夜会で青年将校たちの気をひくことに熱中し始めた。ルーも母親に言われ
て渋々夜会にでることがあったが、お洒落も恋の駆け引きも時間の無駄にしか思えなかった。それよりも農夫や労働
者たちと語り合い読書や思索に没頭するほうを好んだ。大好きな父親が、晩年ロシア人民のことを愛を込めて語って
いたことも、ルーの思想に大きな影響を与えた
ようだ。
>理想的な父と娘の関係。父親冥利に尽きますな。こんな娘が欲しいものです。
偉大なる思想家として知られるフリードリヒ・ニイチェは、25歳でバーゼル大学に教授として招かれた天才である。しか
し神経過敏だった上に体も弱かったので、プロポーズした女性にはことごとく断られていた。パウルの手紙でローマに
出てきた時、かれはすでに38歳。ルーは21歳だった。ニイチェは天才であると同時に独善的で衝動的な、一般でいう
ところの変人だった。彼はルーに会うなり恋をし、性急にプロポーズ
した。パウルはあわてて彼女に結婚する気などな
い。三人で共同生活をしたいといってるだけだとニイチェをさとした。が、ニイチェは引きさがらない。なんとかしてルーを
パウルから引き離し、自分が独占しようとした。二人の男の葛藤が始まった。ルーはそれを知っていたが、あくまで自
分のしたいようにふるまった。ニイチェを狂喜させるような”秘密の時間”を持ったかと思うとパウルの家でひと夏を過ご
しもした。代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」を書き、その後は精神を病んで廃人となった。
アンドレアス、ベルリンの東洋語学研究所の語学教授と結婚した。だがセックスはしない、他の男とは自由に付き合う、
仕事の邪魔もされたくないというのがルーの出した結婚の条件
だった。ルーは30歳の頃まで男性と性関係を持たなか
った。したくないことは絶対にしない。それが彼女の主義だった。そして1897年、ミュンヘンで新進詩人ライナー・マリ
ア・リルケと出会った。リルケは当時22歳、ルーは36歳だった。リルケはまだ有名ではなく、病気がちで弱々しい青年
だった。この頃のルーは、すでに夫以外の男性とセックスを経験しており、その快楽も十分に知っていた。だからリルケ
との恋もセックスを伴った官能的なものだった。
50代に入ってから、ルーはフロイトに出会い、彼の弟子となって精神分析を学んだ。1937年亡くなるまで自由に人を愛
し、知識の探求につとめた。
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おおおおーーー、良い女来たね。ロシアっ子か。この男の遍歴はすげぇ。ニーチェとフロイトって…。悪女です!!
ルーの結婚条件の意味はわかるなぁ。でも実際これ言うと、世の中に怒られるんだよねー。
ルーは、ニーチェじゃなくて、俺のところに来るべきだった。
「俺はお前から一切の権利と自由を奪わない。自己責任という重い義務の基でな。」
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2011.03.11: 永田洋子追悼記念 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
2010.10.28: 破壊工作 金賢姫Forcus
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2010.06.30: のだめカンタービレで思い出すM男のBehavior
2010.03.18: 海外のヤンデレ ヤンデレの研究 
2009.12.07: 一度は言われてみたい口説き文句ランキング
2009.10.28: 女の好みも時と共に成長する
2009.08.31: Madoff’s Other Secret 愛、金、バーニー そして わ・た・し
2009.07.06: 職業Investment Banker? 男と女のM&Aで100mil
2009.05.08: 私はカネ目当てじゃない ~怒りの代償
2009.04.27: 最近オケが楽しい
2008.09.29: 一族の覇権
2008.09.08: いい女発見!
2008.08.20: 久しぶりに小説を
2008.05.12: 夢をアツク語る女
2008.05.09: LiuとTurandot
2008.05.08: サロメ


歴史を騒がせた悪女たち4/7 ~悪女というかグレート

ボニー・パーカー 禁酒法時代を駆け抜けた明日なき青春
わたしが青春を送った1960年代後半、日本の高度成長がもう始まっていたとはいえ、庶民はまだまだ貧しく欧米
のブランド品など並の若い女の子ではとても買えなかった。ルイ・ヴィトンだグッチだといまのように誰でも持てるよ
うになったのは、せいぜい10年ほど前からではないだろうか。(1995年著) お洒落もあの頃は奇妙なほどワンパタ
ーン
だった。ミニスカートが流行れば日本全国ミニスカートだけになり、逆にマキシが流行れば全員、スカートの裾を
ぞろぞろと長く引きずって歩いた。ひとつの流行にみんなが右へならえしていたのだからこっけいな光景だったとい
える。豊な時代になりつつあったとはいえ、まだほとんどの人が自分の感性や価値観といったものに自信を持って
いなかった
のだろう。だから欧米の流行をそのまま取り入れ、そっくり真似るほかなかったのだ。映画もこの頃がら
りと変わった。ハッピーエンドではなく、主人公がモラルも秩序も無視して生き急ぎ、あげくの果てに悲惨な死をとげ
る、というのも好まれた。世界的にヒットしたのが、アーサー・ペン監督の『俺達に明日はない』だった。『ボニーとクラ
イド』というのがこの映画の原題である。ボニー・パーカー、クライド・バロウという、実在した二人組のギャングがモ
デルとなっている。ちょうどこの頃、ウーマンリブなどの運動を中心に、女性の意識革命が進行していた。しとやか
で従順な女なんてもうやめよう、たとえ男性から可愛くないと思われても自分の力で自分の人生を生きよう、という
ことで、”いい女”の定義が大幅に変わりつつあるときだった。
>残念なことに、それは一時の見せかけの流行であり、いい女の定義は2011年の現在も大して変わってはいない。
>しかし、一辺倒な流行を追いかける様は、確かに自分の感性に自信がない証拠だろう。今でも名残は十分にある
>が、昔に比べれば女性のファッションの多様性は十分にある。そして、経済成長の頂点、すなわちバブル期におい
>て、なんら経済活動をしていない若い女性たちがタカビーになるのはなぜだろう? 彼らはどこからその感性に対す
>る自信が沸いてくるのだろうか? @2007年中国にて思う。
映画ではクライドの兄の妻ブランチのキャラクターが印象的に描かれていた。ブランチは男にすがって生きる女であ
る。夫が銀行強盗をやるといえば、それに従う。そのくせ、私にはこんな生活向いていないのよと、年中、愚痴をこ
ぼしている
。思えば、あのブランチ像は従来の「可愛い女」をパロディ化したものだったに違いない。60年代あたりか
らそのような女を女自身が嫌い始め、かわりに自分の意思で行動する女が「いい女」としてクローズアップされてきた。
ハリウッドでもフェイ・ダナウェイを皮切りに、シガニー・ウィーバーやキャスリン・ターナーなど、強い女、戦う女タイプの
女優に人気が集まるようになった。葉巻をくわえ、拳銃を片手にしてポーズをとるボニーの写真が残されている。
>いまでも女から「可愛い女」は嫌われているが、自分の意思で行動しようという現われではなく、ライバル排斥運動
>にすぎず、可愛い女を否定しておきながら、自分だけは抜け駆けして、すがる女になろうとする。それが民だッ!
川島芳子 男装のスパイとして暗躍した清朝の王女 こりゃ、すごい人なんだけど悪女ですかね?
川島芳子の父親は粛親王といい、中国が清王朝だったころの筆頭王族であった。1911年に起きた辛亥革命で、粛
親王の一族も革命派によって北京から旅順へと追われていった。この時、逃亡の手助けをしたのが、川島浪速とい
う日本人だった。日本の力を借りて清王朝の復興をはかろうとする粛親王と、大陸で名を売ろうとする川島とは、利
害関係が見事に一致した。1906年に生まれた芳子は、1914年、東京・赤羽で日本人として育てられることになった。
1927年蒙古の勇将パプチャップの遺児、カンジュルチャップと政略結婚させられたが、蒙古の大草原の暮らしも性に
合わず離婚。上海に渡り、田中隆吉という陸軍少将、諜報活動のプロと出会う。中国国民党幹部の連中で色仕掛け
で近づき、日本軍のために役立つ情報を探り出した。その頃の芳子は、日本が中国を救い、それで清王朝復活が実
現することを本気で信じていたようだ。芳子をモデルにした村松梢風の『男装の麗人』は大ベストセラー。昭和23年3
月25日、芳子は北平第一監獄にて銃殺刑に処せられた。それから2ヵ月後、日本の新聞に奇妙な記事が載った。
川島芳子はまだ生きている。処刑されたのは偽者だというものだ。以来、芳子生存説は根強く囁かれ続けている。
>生存説。かっくいいなぁ。
ジョルジュ・サンド 若き芸術家たちと愛の遍歴を重ねたスキャンダル作家
実名オーロール、19世紀前半のフランスの話だ。愛人だった弁護士、ミッシェル・ド・ブールジュの助けを得て、1836
年、オーロールは離婚を成立させた。完全な自由を手にした彼女は、恋をし、小説を書き、ルダンゴトと呼ばれる男性
服を着て、煙草をふかしながら街を歩いた。彼女は奇をてらって男装をしたわけではない。当時の女性の服装は、非
常にお金がかかるものだった
。オーロールはいつも経済的に困窮していたので、安上がりな男装を選んだだけである。
それに男だと思わせることでどこへでも自由に出入できた。男装はこだわりのなさ、旺盛な好奇心をものがたるものだ
ともいえる。たくましいこの女流作家の前に病弱で繊細、しかもきらびやかな才能を持った男、ショパンが現れた。まさ
しく彼女好みの男、彼女好みの恋
である。ふたりは太陽と月、母親と息子のような組み合わせだった。年齢もショパン
のほうが6歳年下である。
>そうか、ショパンの愛人か。いや、ショパンが愛人かな?
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2008.03.15: モンコックで格闘DVD


歴史を騒がせた悪女たち3/7 ~議論の余地が残る女たち

マリー・アントワネット 
これ悪女なのか? お母様のマリア・テレジアは天下人だと思うのだが・・・、やっぱり内容も薄いし・・・、省略!
ゼルダ フィッツジェラルドの才能の陰で狂った妻
クリスティン・キーラー 英国政財界を震撼させた美貌の高級娼婦
パトロンはスティーブン・ウォード氏で、有名な整骨医で、正解や実業界の有力者と親しい。売春斡旋とスパイ
容疑で、イギリス情報局から目をつけられている人物だった。
淀君 
うーん、わかんねぇ。お市の方も茶々も悲運な女性だとは思うし、べっぴんさんだったんだろうが、北政所、
春日局と何が違うの?運命に身を委ねただけで悪女って言えるのかね?
和泉式部 夫ある身で二人の皇子との恋に溺れた愛欲の歌人
冷泉天皇の皇子
われが名は 花ぬすびとと 立たば立て ただ一枝は 折りてかへらん
(花盗人だと言われてもかまわない。この素晴らしい一枝は、どうしても折って帰ります)
漢詩では一枝という言葉は美女を意味する。
皇子亡き後、偲んで読む
すてはてむと 思ふさへこそ 悲しけれ 君に馴れにし わが身と思へば
やるじゃないか和泉式部。
ブリジット・バルドー 官能的な肉体を武器に男を追い続けた銀幕の黒い天子
最初の結婚でスターの地位を、二度目の結婚で子供を、そして三度目の結婚では富を得た。頭のいい女だ。
がブリジットはそういう計算をする女ではなかった。
「男が何人もの愛人を持つと(肯定的な意味もこめて)ドン・ファンだといわれる。女が同じことをやるとふしだら
だと責められるのよね。」とブリジットは言った。そのとおりである。
男と女じゃないんだな。愛人って言い方やめて、金を渡してるか、もらってるで表現したらどうして責められる
かわかると思うぞ。
ラナ・ターナー ゴシップとスキャンダルにまみれたハリウッドのシンデレラ
1950年代のセックスシンボルがマリリン・モンローなら、ラナ・ターナーは1940年代を代表する世界的なセクシー女優だった。
この時代にはもうひとり、リタ・ヘイワースというラナと似たタイプの女優がいる。
> あー、ショーシャンクの空に に出てくるわ・・・単語として。でも今一つ実感がなかった。
ルクレツィア・ボルジア 父・法王の陰謀の手先となったバチカンの魔性の女
チェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジア、舞台はルネサンス期のイタリア、美貌の兄妹の血塗られたドラマが展開する。
チェーザレはどの資料を見ても美男、冷酷、野心家ということで一致している。それに対して妹ルクレツィアの方は、研究者に
よって説が両極端に分かれる
。ひとつは運命に翻弄された気の毒な女だったというもの。もう一つは冷たい悪女だったという
ものだ。なぜ正反対の説になるのか。その理由はルクレツィアが自分からは何一つ動いてないからである。歴史に現れた彼
女の行動は、みな父親か兄の命令によるものだ。
> チーン、終了でーす!!
クレオパトラ七世 美貌と才知で世界制覇を狙ったエジプトプトレマイオス朝最後の女王
いつの世であれ大衆はスーパーヒーローを待ち望んでいる。そうした人物が実際に現れると、彼に自分達の夢を託し、
熱狂的に支持する。だがどんなスーパーヒーローも人間である以上、いずれ失敗もすれば敗北もする。また老いてくれば、
若い頃のような力は当然失われるだろう。しかし大衆はスーパーヒーローの人間的な弱さを認めたがらない。彼が力を失
ったのは、何か邪悪な力のせいだと思いたがる。その時、もっとも生贄にしやすいのが、たまたまスーパーヒーローのそ
ばにいた美しい女である。あの女のせいで彼は失敗した、あの女が彼を骨抜きにしてしまった、すべてはあの女が悪い
・・・というわけだ。そういう意味において、クレオパトラは楊貴妃と並んで典型的に歴史の生贄だったといえるだろう。
アレキサンダー大王という歴史上の大英雄がいる。20歳という若さでマケドニア王国の王になり、東西の国々を広く制覇し
て、大帝国を築いた人物である。しかしアレキサンダー亡き後には、彼に匹敵するほどの後継者は居なかった。有力な武将
達の間で勢力争いがおこり、広大な帝国はいくつかに分割された。その中で、ギリシャ系昌軍のプトレマイオスの領土とな
ったのがエジプトだった。これが約270年続き、クレオパトラを最後の女王として幕を閉じた。アレキサンダー大王の残し
た国々のうち、ナイル河の恵みを受けたエジプトはもっとも華やかに繁栄した。しかし、永遠に長く続く繁栄はない。代が
進むにつれ、プトレマイオス朝にも翳りが漂ってきた。近親婚で血の純粋性を守っていたにもかかわらず、権力をめぐって、
親子兄弟が血みどろの争いを繰り広げたからである。王の一族は名前も世襲制で、女性はアルシノエまたはクレオパトラと
いう名を代々引き継いでいたが、わがヒロイン、クレオパトラ7世の時代にはプトレマイオス朝も瀕死の状態だったといえ
るだろう。
クレオパトラの美貌がどの程度のものだったのかじつのところわからない。しかし、子供の頃からたいへんな勉強家で、
歌、踊り、医学、科学、物理に通じていたほか語学にも強かった。彼女はなかなかの野心家でもあった。実の弟でもある
夫はまだ子供で、三人の摂政たちに囲まれいいように操られている。いっそ自分ひとりでエジプトを統治したい。そんな
思いを強く抱いていた。そのことに気づいた摂政たちは、プトレマイオス13世を動かして彼女を廃位してしまった。クレ
オパトラはシリア砂漠へ逃れた。彼女には武力と有力な味方もなかったが、知恵と勇気があった。それを上手に使えば、
王座はかならずや取り戻せるという自信もあった。彼女は既にこの時、ひとりの男に狙いを定めていたのである。
一国の命運をその華奢な肩に担い、女ながらに雄雄しく戦っている。魅惑的な乙女であると同時に男性的なスケールも持
ち合わせており、互角に政治の話までできる。そんなクレオパトラは、老いの近づいたシーザーにとって、眼の冷めるほど
新鮮だったに違いない。もちろん比類なきエジプトの富も大きな魅力だった。この国を手に入れるにしてもクレオパトラを
女王としてたてておけば、民衆の反感を買うこともない。
クレオパトラにとってもシーザーは同じような意味で重要な存在だった。
> シーザー亡き後はオクタヴィアヌスとアントニウスの二股か・・・。こりゃすごいね。
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歴史を騒がせた悪女たち2/7 ~ジャクリーン・オナシス

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悲劇のヒロインほど人の心をそそる存在はない。ジャッキーの人気は偶像の域を越え、女神の位置にま
で高められていった。ジャッキーの喪服姿は世界のマスコミを彩った。彼女はかれから遺児であるジョン
とキャロラインを守り、生涯ジョン・F・ケネディの未亡人であり続けるであろう。1986年6月、ロバート・ケネ
ディは兄同様、暗殺者の凶弾に倒れた。人々はケネディ兄弟の相次ぐ不幸に驚いたが、その年の10月さ
らに大きな衝撃を受けることになった。ジャッキーが自ら、アメリカの女神の座を捨て、ギリシャの海運王、
アリストテレス・オナシスと電撃結婚したのである。彼は確かに世界でも指折りの大金持ちだ。だが金儲
けの才があったというだけで、家柄も教養もない成金ではないか。しかも数々の法律違反までして金を儲
けてきた守銭奴だ。容姿も醜いし、女の噂がいやと言うほどある
プレイボーイだ。つい最近も、オペラの世
界的プリマドンナであるマリア・カラスを、夫と離婚させたばかりだというではないか。
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>マリア・カラスの方がべっぴんさん??
>ダラスの衛星中継見て、「あれが次のオナシス夫人だ」って言ってたらしいぞ。
>にしてもオナシス、酷い言われようだ。世界のホリエモンか。
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マスコミはこれまでタブー視されていたケネディ夫妻の裏側を、いっせいに暴露し始めた。まずはケネディ
一族とジャッキーの対立
である。ジャッキーの育った環境は洗練された上流階級だったが、ケネディ家は
男尊女卑思想の強い、どちらかというと田舎者の一族である。競争心が強く騒々しいこの一族に、ジャッ
キーは内心うんざりしていた。しかしまたケネディ家からすれば、ジャッキーの方こそ可愛げのない嫁だっ
た。ただ美人だというだけで大統領であるジョンをしのぐほどの人気があったし、何に関しても一流好みで、
エリート意識丸出しのところが鼻につく。それに何より、ジャッキーはたいへんな浪費家だった。洋服でも
家具でも最高のものを好きなだけ買いまくる。その請求書は大統領夫人であったころはホワイトハウスへ、
未亡人になってからはケネディ家へ送られてきた
。彼女の乱費には故ケネディもかなり音を上げていたらしい。
しかし暴露された内容のおぞましさから言えば、ジャッキーのことよりも故ケネディの方が上かもしれない。
正義と清潔の象徴であったケネディが実は病的とも言えるほど凄まじい女性関係をもっていたのだ。結婚し
ても大統領になっても、彼の女遊びはおさまらなかった。ジャッキーが留守の時にはホワイトハウスに複数
の女を呼びいれ、マリファナを回し飲みしながら乱交パーティを開くこともあった。相手の女性もコールガール
から秘書、有名女優と手当たりしだいだった。なかでも有名だったのがマリリン・モンローとの親密な間柄だ。
ケネディの方は遊びだったが、モンローの方は彼に夢中になった。睡眠薬やアルコールで精神不安定になっ
たモンローは、ケネディがジャッキーと離婚して自分と結婚するという妄想を抱き始めていた。この関係にマ
フィアが目をつけたことを知ると、ケネディはモンローとの仲を清算しようとした。その仲介役をしたのが当時
司法長官だった弟のロバートケネディだったが、今度はそのロバートがモンローと関係をもってしまった。だ
がロバートも、女は好きだが計算高いケネディ一族の男である。モンローが邪魔な存在になるやいなやあっ
さりと捨ててしまった。絶望したモンローは、あなた達兄弟が自分にどんな仕打ちをしたか、何もかもマスコ
ミにぶちまけてやるとロバートにくってかかった。その場に居合わせた俳優のピーター・ローフォード(ロバート
の義弟)がモンローを取り押さえ、精神科医に引き渡した。モンローが自宅のベッドで死んだのは、その夜の
ことだった。睡眠薬による自殺とも事故とも言われているが、なにものかに殺されたのではないかという噂
いまだに根強く囁かれている。
ジャッキーはモンローのことも含めて、夫の女性関係をよく知っていた。だが、そのことで夫にくってかかったり
離婚を考えたり、ということはなかったようだ。ジャッキーの父親であるジョン・ブーヴィエも女性関係の派手な
遊び人だった。ジャッキーの母親ともそういうことが原因で離婚しているが、ジャッキーはこの父親のことも決
して嫌ってはいない
。ケネディとジャッキーの間にはもちろん愛もあったのだろうが、もしかすると彼らのような
特権階級の夫婦観というのは、昔のヨーロッパ貴族のそれに似ているのかもしれない。結婚は互いの社会的
立場を守るもの、家庭さえ壊さなければ遊びの恋愛は自由、というわけだ。
オナシスとジャッキーの出会いは1958年のことだった。ケネディ夫妻を豪華ヨット、クリスティーナ号に招待し
た。それから5年後、大統領夫人となっていたジャッキーは、3人目の子供を早産で失い悲嘆にくれていた。
オナシスはジャッキーの妹と親しかったので、彼女を通して、どうか静養に来ていただきたいと招待を申し入
れた。
>オナシスこえーよ。リアル 映画 幸福の条件ですなぁ・・・。おっとこの映画もデミちゃんか。
>どんな強い女でももっている弱み、「出産」につけこんでくるあたりも流石よのぅ。当時ジャッキー34歳。うんうん。
ケネディは反対した。オナシスはモナコ公国をも牛耳る大金持ちではあるが、仕事でも女グセでも評判の悪い
男だ。マリア・カラスとの不倫で三度目の妻であるティナとも離婚している。妻が単独でそういう男の招待を受
けると自分のイメージが悪くなりかねない、とケネディは判断したのだ。だがジャッキーは夫の反対を押し切っ
てギリシャへ出かけた。旅は楽しかった。オナシスの手厚いもてなしと青いギリシャの海は、ジャッキーの心を
なごませた。オナシスの彼女に対するきめ細かな心配りは、その後も絶えることなく続いた。ケネディ暗殺の
報を聞くやいなや、ホワイトハウスに飛んでジャッキーを慰め、以後は自分の専用ジェット機を彼女に自由に
使わせるという具合だった。そして二人は結婚した。
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オナシスはマリア・カラスを失恋させ、息子アレキサンダーと娘クリスティナをも失望させたが、ジャッキーの方
は全アメリカ、いや世界のジャッキーファンを激怒させた。それほどのリスクを負っても、この結婚は二人にとっ
て価値のあるものだった。オナシスは、『アメリカの女神』だった女性を手に入れることで男性としての実力を世
に示し
、ジャッキーの方は並ぶものなき富に保護されることになったのだ。しかしどういうわけか彼女が華やか
になればなるほど、その周辺には不思議と不幸が訪れた。オナシスの娘クリスティナは乱費と離婚を繰り返し、
息子のアレキサンダーは飛行機事故で死亡した。オナシスの前妻で二人の母であるティナは、オナシスの仕
事のライバルと再婚した挙句、鎮痛剤の常用でなぞめいた急死を遂げた。1975年3月15日、心臓を弱らせてパ
リの病院で治療を受けていたオナシスはついに息をひきとった。ジャッキーはその時、ニューヨークにいた。彼の
最後をみとったのは、娘のクリスティナだけだった。この頃、二人の夫婦仲がどうなっていたのかはわからない。
しかし発表されたオナシスの遺言は、ジャッキーに対する愛と感謝の感じられるものではなかった。4000億円
といわれる遺産のうち、ジャッキーには10億円、彼女の二人の連れ子には30歳になった時にそれぞれ10億円、
そして残りのほとんどが娘のクリスティナ
に贈られていたのだ。これを不服としてジャッキーはクリスティナ相手
に一年半の法廷闘争を繰り広げた。その結果彼女は2000万ドル(当時の日本円で約54億円)の追加遺産を手
にし、ギリシャを後にした。
>わかるなぁ・・・さすがはオナシス・・・1%だけ妻という他人にもくれてやろう・・・ってことだろ?
>ただの浪費家に金渡したって意味ないもんなぁ・・・、浪費には10億で十分、生前に使った金でおつりくるわぃ。

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歴史を騒がせた悪女たち1/7 ~西太后

悪という言葉がつくものには当然ながらあまりいいものはない。悪事から始まって、悪人、悪運、悪書、悪臭、
悪習、悪名・・・きりがないが、どれをとってもマイナスイメージがついてまわる。できることなら、こういう
言葉とは、あまりお近づきになりたくない。では悪女はどうか-。辞書を引くと『容姿の醜い女、性格の悪い女』
とある。へえ、と意外に思われる読者も多いことだろう。わたしも思った。どうも悪女に関する限り、辞書を作
成する側と世間一般とのイメージとは、かなりへだたりがありそうだ。「きみって悪女だね」と言われて怒る場
合ももちろんあるが、ちょっと嬉しい気がしないでもない。一般的にいう『悪女』という言葉には、男を惑わ
せる魅力的な女
、というイメージがあるからだ。ついでにいえば、謎めいている、頭が良い、決然としている
という意味合いも含まれている。単純で気弱で頭の悪い女は、悪女の名にあたいしない。むろん、悪女には残忍、
冷酷、意地悪という要素も、ないわけではない。だがそれでも良い。魅力的ならば、と男も女も胸をときめかせ
てしまう。そういう存在が悪女なのである。
悪女は美女でなければならない。周囲に大きな影響を及ぼす女でなければならない、まっとうでない男性関係が
なければならない。この条件をすべて満たし、なおかつスケールの大きい悪女と言えば、東洋ではなんといって
も西大后
ではないだろうか。皇帝の愛をひとり占めせんがため、彼女はライバルである側室の手足を切り落とし、
生きながら甕(カメ)の中に閉じ込めてしまうのだ。西洋には皇帝ネロの母親アグリッピナ(権力を握るため、次々
と身内を殺した)、エリザベート・バートリ(自分の若さを保つため何百人もの娘を殺し、その血で湯浴みした伯
爵夫人)などという伝説の悪女たちがいるが、悪のスケールの大きさではわが東洋の西大后も決してひけをとる
ものではない。
それを知るには、まず後宮という怪しくも華麗な女の園を除いてみることだろう。俗に、後宮三千人といわれる。
三千人もの美女がはべっているという意味だ。そんなにいたかどうかは別として、日本の江戸時代にあった大奥
同様、ここが皇帝のためのハーレムであったことは事実である。清朝の後宮における女性たちには、さまざまな階
級があった。位の高い準から行くとまず第一階級というのが、皇帝の祖母であたる太皇太后、皇帝の母親である皇
太后、そして皇帝の正妻である皇后。第二階級は7段階に分かれた妃賓、つまり皇帝の側室たちだ。皇貴妃1名、
貴妃2名、妃4名、賓6名となっている。この下にある貴人、答応、常在という位には決まった数がない。何人いて
もいいということだ。最後に第三階級というのがあり、これは宮女と呼ばれる召使たちである。低い身分ではある
がもし帝の眼にとまり寵愛で儲けることになれば妃賓の身分に出世することも可能だった。
1850年、時の皇帝、咸豊帝は21歳だった。美人で頭の回転が早く、歌が抜群にうまい蘭児はたちまち皇帝の心をと
らえた。側室に選ばれたことで彼女は貴人の位を得たのだが、3年後、賓の位に上がった。さらにその3年後、男
の子を産み、貴妃の位まで昇進。名前もこの時点で、懿貴妃と変わった。彼女は時代皇帝の母君になったのだ。
娘が出世すれば実家も当然その恩恵をこうむる。本人の懿貴妃も栄耀栄華も思いのまま、人も羨む天上人である。
普通の女ならここで大満足
したことだろう。だが彼女は、自分の足元、つまり清という国の基礎がいま崩壊寸前に
あることを皇帝以上にはっきりと認識していた。清朝といえば、一次は文化、経済ともに大発展をとげたアジアの
主である。だがそれは昔のこと。巨大ではあるが、支配者層は贅沢に溺れ、農民達は貧苦にあえぐという、腐敗し
た国家に成り下がっていた。農民の暴動が各地で相次いでいる上に、新興宗教団体や回教徒たちまで反乱を起こし、
国じゅうが乱れている。そこへ海外市場を狙うヨーロッパ列強まで進出してきた。ことにイギリスは、阿片とい
う危険なものをどんどん売りつけてくる。彼らの持ち込む阿片がこの調子で蔓延すれば、国は遠からずほろびてし
まう。たまりかねて輸入禁止にすると、イギリスは武力でこれを潰しにかかった。これが歴史に名高い阿片戦争
である。こうして国の内外から攻め込まれているというのに専制君主である咸豊帝は、女の肉体に逃げ込むしか能
がなかったのである。懿貴妃はこれに苛立った
。各省から皇帝のところへ届けられる報告書を自分も熱心に読んだ。
そしてどうすれば清朝を立て直すことができるのか考え、思いついたことを皇帝に進言
した。こんなことは皇后を
始め、他の側室たちには考えられないことだった。女はただ美しく可愛くあればよい。だが懿貴妃だけは違った。
自分には国の支配者としての実力があると信じ、その野望を実行に移す度胸さえも持ち合わせている女だった。
 皇帝が死ぬと皇后や側室たちは、俗世間を捨てて尼になるのが宮廷のならわしである。だが男勝りの懿貴妃が
そんな慣例に従うはずもない。幼い息子を皇帝に即位させ、粛順ほか実権を握る大臣たちに立ち向かう姿勢を明
らかにした。
野心家である西太后はあまり母性的な女性ではなかったらしい。同治帝は実の母である西太后にはほとんどなつか
ず、やさしい東太后の方を慕っていた。18歳の時、東太后が勧めた娘と夫婦になったが、西太后は、同治帝に側室
のところへ通うよう厳しく意見したり、宦官に街の遊郭へ連れ出させたりして、夫婦を切り離すようなことばかり
画策した。これが思わぬ悲劇となった。同治帝は遊郭で性病をうつされ、さらに天然痘まで患って重病人になって
しまった。妻である皇后が見舞いに行くと、おまえのせいで皇帝はこんなことになったのだと皇后を怒鳴り、彼女
が妊娠中であったにもかかわらず、鞭で激しく打った。同治帝が1875年に死亡すると、この哀れな皇后は、すぐに
後を追って自殺したという。おとなしい東太后もこの事件にはショックを受け、あなたのやり方はひどすぎると西
太后に抗議した。西太后はすかさず、人がよいばかりでは宮廷を治めることなどできないと反論した。すると東太
后は、西太后のもっと痛いところをついてきた。彼女の乱れた男性関係である
。西太后の寝室には二人の男が足し
げく出入していた。男といってもこの場合、宦官という性を超越した存在である。本来ならどこに出入しようと
文句の出る筋合いはない。だが若い未亡人である西太后が特定の宦官を偏愛し、深夜の寝室にたびたび招き入れる
とあっては怪しまれるのも無理はない。二人のうちどちらかが偽の宦官で西太后は妊娠した挙句に流産した、とい
う噂までまことしやかに囁かれていた。東太后はそれを持ち出して非難したのだ。それから6年後、東太后は西
太后から贈られた餅を食べた後原因不明の急死を遂げた。西太后が毒殺したという噂があるが、これも真偽の程は
わからない。
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日本改造計画5/5 ~税制改革

個人に厳しい税の仕組み
個人が企業に埋没する原因の一つは日本の税制にある。
> いや、税制こそが、埋没させる仕組みの根源である。
たとえば個人が住宅を取得するには、所得税を引いたあとの所得から購入しなくてはならない。
> 所得税、住民税、厚生年金、健康保険、雇用保険を引いた後の所得から  だろ?
しかし、企業が社員への福利厚生として社宅を提供する場合には、その購入資金のための金利はすべて事業活
動のための経費として認められる。しかもそのようにして取得した不動産も、個人の場合には相続する時、相続税
の対象になる。乱暴に言って、三代で資産は相続税に消えてしまうといわれる。ところが企業の社宅には相続税が
ない。このような税制上の差別がある限り、いい土地はすべて法人所有となってしまうに違いない。個人と法人の
税制上の差別は、不動産の取得に限らない。たとえば自動車の購入、株式投資も同様だ。株式で大きな評価損を
出した場合、法人であれば減益して節税できるが、個人だとその値下がりした分をその年の所得税から控除する
ことはできない。高い個人所得税のもとでは企業が支払う給料は、そのかなりの部分が税金で持っていかれる。そ
れよりは社宅、車の送迎、その他の福利厚生施設の形で支給するほうが有利
なのである。
> そう。これ日本の給与制度の一番のガン。俺みたいに、家要らない、キャバ嫌い、株買いたいって人はこの制度
> のありがたみがゼロだ。でも会社の金で飲み食いしたい多くの民にとって、実はそんなに苦しゅうない。
所得税・住民税を半分に
> 天下の小沢先生を持ってしても、ぜーんぜんできてないな。執筆から15年ほど経過してるが。
自由な人生設計ができない日本人
「子供は勉強のしすぎ、大人は仕事のしすぎ、老人はやることのなさすぎ」といわれる。
> 勉強しすぎだと? 塾や習い事に通いすぎ、というのと違うだろ。子供は塾も遊び化しちゃうだろうし、金をかければ
> 子供の教育問題は解決するという安易な親心に、子供たちは苦しんでるんじゃないの? 学問の追及をしすぎて悪
> いことは何もねぇ
。子供たちの自由な発想で大いに邁進すれば良い事だ。
> 仕事のしすぎ? 年間の祝祭日は先進国でトップの数だが? 仕事って何よ? 残業申請時間のことか? 申請したら金
> もらえるなら申請するだけの話だろ。給与所得者の立場で、誰もそんな仕事してねーよ。
規制からの自由 実態に合わなくなった規制
公共事業は、中央レベルで細かい基準によって配分が固定されており、全国一律に施工される。その結果全国どこ
でも同じような公民館や集会場は建つが、それぞれの地域で本当に必要な公共資本が整備されているかは疑わし
いかぎり
である。
> 個人レベルでもよくあるじゃない。お土産とかさ。欲しいものはてめーで買っとけ。お互いに与え合ったら効用が
> 落ちるだろうが。
真の自由の確立 民主主義は国民の自立から
戦後の日本にこれほど自由がなかったのは、これまで述べたようないろいろな原因があったとしても果たしてそれだ
けだろうか。最大の原因は国民の側にあるような気がするのである。戦前の帝国軍隊は世界一よく訓練され、規律も
しっかりしており、強力であった。ところが敗戦によって軍隊という組織が瓦解するや、たちまち烏合の衆と化した。こ
れは何を意味するだろうか。彼らは組織の駒としては優秀だったが、自分の価値観を持ち、自分の判断で行動できる
自立した個人ではなかったということである。
> 小沢先生、”国民”が「自分の判断で行動」なんて期待するのは無理でしょう。自分の判断で行動できるごく一握り
> の人間が、自分の判断をもたない民をコントロールし、全体の効用を最大化する。その仕組みを作るのが政治であり、
> 実行するのが企業なのではないでしょうか。
【民の欲と国家】
2011.03.01: アジア発展の構図 ~出遅れた国々 4/4
2011.01.20: 項羽と劉邦 ~広大なる中国大陸
2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.10.07: 物欲の定義
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.04.15: 貯蓄率にみる人々の自信度合い
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性


日本改造計画4/5 ~外交政策

私は次の3点でODAはを平和創出の事業だと考えている。
まず、ODAは途上国の産業インフラ建設を促進するだけでなく、科学技術のレベルアップ、教育制度や医療
制度の整備、文化遺産の保存など、多方面にわたって国づくりそのものを支援することができる。また日本の
援助によって途上国が安定し、経済的に発展することは、国際社会の平和に大きく貢献し、結果として日本
の繁栄に役立つ。さらに日本が国づくりのパートナーとして途上国に信頼され、その認識が途上国の国民に
深く浸透していけば日本はどういう国か自ずと理解されると思う。日本が途上国の安定と発展を通して国際社
会の平和に地道に寄与していることが鮮明になれば「日本の顔」はより輝いてくる。日本のODAは「途上国の
自助努力を支援する」という援助哲学に基づき、途上国の要請を受けて援助案件を決定する「要請主義」を原
則としている。援助事業が日本企業によって半ば独占され「そろばん片手の援助」などと批判されるようなこと
はあってならない。同様のことは援助の決定システムについてもいえる。援助は形式上閣議決定のあと、相
手国政府と交換公文を取り交わし、何段階かの調査の上で実施されるが、事実上は閣議決定の前に、大蔵、
外務、通産省と経済企画庁の「四省庁会議」で個々の援助案件が決定されてる
。決定過程が不透明だと指摘
される一因である。そこには、援助のグランドデザインを描く余地はない。
> あんまり浅く広くばらまくのも止めない? 思いっきり偏らせるとかどう??
わが国は古くは遣隋使や遣唐使に始まり、近年の欧米諸国への国費留学生の派遣に見られるように、若者
を国費で海外に派遣し、外国の学問を修得する機会を与えてきた。また最近では子女を私費で海外に留学さ
せる家庭も増え、現在では約12万人強の日本人が海外で学んでいる。
> 私費だから自由なんだが、俺が知る限り、私費は親バカご遊学だな。国費や社費での留学はご遊学比率は
> 減る。それでもコイツはよく勉強してたなというのは数件で、多くは意味あったんか? というのが現状だろう。
これに対し、わが国の高校や学ぶ外国人の数はこのところ急速に増加しているもののまだ4万人程度にとどま
っている。外国人留学生の受け入れに熱心な諸国、たとえば米国では36万人、フランスでは14万人、ドイツが
9万人などに比べればまだまだ少ない。
> 優秀な学生をかっさらいに行くくらいのアクションおこしてもいいよね。まともな学校なさそうなアジアの国が
> いっぱいあるではないか。
ジャパニーズドリーム 「日本人のようになりたくない」
ある著名なアメリカ人の識者が「私たちは日本人のようになりたくない」といっていた。そのときはムッときたが
冷静に考えてみれば、当たり前だと思う。この言葉は、見かけの高い所得とあまりにもかけ離れた貧弱な生活
状態、たとえば劣悪な住宅、貧弱な社会資本、高い物価、長い労働時間、厳しい受験戦争などへの痛烈な批
である。アジアの奇跡と呼ばれた日本の高度経済成長。そのお陰で日本は、戦後の荒廃からわずか50年で
世界有数の高所得を誇る経済大国になった。しかし、経済大国の国民であるはずの日本は豊かな生活を送っ
ているという実感がない。首都圏では、普通の人が一生働いても自力で家を購入することは夢のまた夢になっ
てしまった。どんなにがんばってもまともな家一つ購入できない社会はやはりおかしい。
> そんなに劣悪な住環境か? 広くはないかもしれんが、こんな水周りもしっかりしてる国ある?
> 社会資本ってインフラ? 整ってると思うよぉ。ネット速いし。
> 長い労働時間って座ってりゃ時給で金もらえるんだから良いじゃん。やったらナンボより優しい労働環境だろ。
> 厳しいッたって学校名しか問われないじゃん。順位や成績まで厳しく問われるアメリカより優しいと思うが?
> 周りにけっこう家持ちいるけどなぁ。家買うのが夢のまた夢ってことはないだろう。
国民の生活レベルで見たとき、日本は本当に世界有数の所得水準の国だろうか。ある調査によると、所得の総
額ではアメリカやヨーロッパより高水準の日本も、労働時間当たり所得やそれを物価で割った数値で見る限り、
依然としてアメリカやドイツの7割程度にしかならない。
> 所得というか可処分所得で計算したらどうかね?
> にしてもだよ。一人当たり”GNI”じゃなくて、”GDP”が日本を越えてアジアで一番だとかって一生懸命背伸び
> してる国もお寒いぞぉ。言語がない、通貨がない、言論の自由は何者だ? の世界だぜ。
> 金しかない国なんてまだ良い方。自国の信用で紙幣を発行できないんだから、金すらない、そんな国もある。
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日本改造計画3/5 ~対外・国際関係

日本人の大多数が、心の底では、依然としてできることなら「対外関係」などという煩雑なものにかかわ
り合わず、日本の古来からのシステムや慣行、慣習の中で、平穏で快適な日常生活を営みたいと考え
ている。簡単に言えば、日本人は国際社会では必要に応じて最小限に付き合えばよいという考えである。
そのため、もし国際社会の共通の価値観に基づく行動が、国内の特定の利害関係者に打撃を与えるよう
なときは、当事者は自分たちだけが不当な犠牲を強いられているなどと思ってしまう。ウルグアイ・ラウン
ド(新多角的貿易交渉)の問題もそうである。この種の問題が起きると自由貿易が日本経済にとって、また
国際社会の健全な発展にとっていかに重要化という視点が欠けてしまう。日本が経済大国といわれるま
で経済成長できたのは何故だったか。それは自由と民主主義という共通の価値観によって貫かれている
国際社会が存在してきたからだ。そのメリットを受けて日本は成長してきた。江戸時代に戻って細々と生活
する道を選ぶならそれも一つの行き方だと思う。しかし、現在の繁栄を維持し、さらに発展したいと望むなら
国際社会の理念にしたがって行動し、その発展のために協力しなければならない。それこそが日本の本当
の意味での国益
ではないか。湾岸戦争で日本が負の遺産を残してしまったのは真の国益がなんであるか
の認識が無かったからだ、と私は思うのである。
> 日本人との議論において、安易な攘夷論が持ち上がることが多いが、ここは読んだ方が良いな。
戦前は内閣の中で権力が分散していたために日本の破局を招いたという反省に立ち、現行憲法では、本
来の議院内閣制の趣旨に沿って、国会を国権の最高機関とした上で、その信認を受けた内閣が統治する
ように定めている。その限りでは首相を頂点とする内閣の権力は強大である。ところが戦前からの官僚制
を温存したため、権力の中枢は「官」であり、政治家は「民」の代表に過ぎないという意識をそのまま引き
ずってきた。「官」としての政府が政治の頂点であり、与党はその周辺に存在しているものという図式にな
っている。議会内の多数派である与党が名実ともに政権を担当するという意識が欠けているのではないだ
ろうか。
普通の国になれ 日本の責任と役割 「普通の国」とは何か
国家とは本来利己的な存在である。経済がどんなにボーダーレスになろうとこの本質は変わらない。どの
ようにして国際社会の中で生き抜き、どのようにして国民に豊かで安定した生活をもたらし、発展させてい
くか。200近い世界の国々がその目的のために日夜必死で努力している。それが国際社会の現実である。
ただし、自国の生き残りと反映のための努力あ、他国を顧みないむき出しの国益追求ではない。国民の豊
かで安定した生活の前提になるのは、国家の安全である。今日、経済的にも軍事的にも政治的にもどの
国も単独では自国の安全を保障し得ない以上、各国が協調してそれを実現する
しかない。
 日本の場合、再び鎖国政策に戻り、「清く貧しく美しく」生きていくことを国民があえて望むなら別だが、今
日の豊かで安定した生活を21世紀も維持し、より充実させることが政治の使命である。そのための必須の
条件が国際環境の平和と安定とその下での自由な貿易である。湾岸戦争以来、「国際貢献」という言葉が
流行になっている感がある。しかしそれがひたすら外国のために奉仕すること、あるいは国際社会の付き合
い上やむなく協力することと認識されているとすれば、明らかに間違いだ。国際貢献とは実は、日本が生き
残るための活動にほかならない

平和と自由のコスト
日本はよく「商人国家」あるいは「通商国家」といわれる。しかし、日本は本当の意味で「国家」と呼ばれる
だけの昨日を果たして来たのだろうか。世界市場名高い商人国家は北イタリアに栄えたヴェネツィア共和国
ベニスの都市国家であろう。もっと古くはフェニキアの都市、カルタゴが知られている。これらの国の運命は
どうだったか。ベニスは1000年の繁栄を維持した。ローマに滅ぼされたカルタゴでさえ600年続いた。日本は
まだ40年余りである。ベニスとカルタゴに倣うなら、日本はこのままでもさらに繁栄していけるかに見える。と
ころが戦後の日本はこれらのッ国と根本的に違っている。ベニスは完全な共和制を敷き、政治にも安全保障
にもすべての市民が参加していた。1000年の繁栄は単に商売が上手だったからではない。全市民が一致
団結して地中海を完全に制覇していた
からだ。自由な交易に必要な地中海の平和と安定を巧みな外交と自
前の海軍力で守っていたのである。平和と自由な交易のためのコストを全市民が支払ったからこそ、1000年
も栄華を維持することができたといえる。一方、カルタゴは滅亡の仕方が示唆に富んでいる。平和と自由な交
易のコストをそれなりに支払ったとはいえ、この国はベニスと違って財力にまかせて集めた傭兵で軍隊をつく
っていた
。このため、つには農民を中心としたローマの軍団に滅ぼされてしまった。豊かさではローマよりカル
タゴがはるかに上回っていたのだが、自分の国をカネだけで守るという考えが命取りになった。ひるがえって
日本は戦後、平和と自由の維持のため、どれだけコストを払ってきただろうか。ほとんどコストを負担すること
なく、平和で自由な世界市場の果実を人一倍享受してきたと言わざるを得ない。
> コスト負担というと金を意識してしまうから、自国の平和と自由の維持のため国民一人一人は何をしたのか?
> と問いかけてみてはどうだろうか?
【軍事・軍隊・国防】
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2011.01.28: 小泉官邸秘録 ~有事法制の整備
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2009.03.27: 私の株式営業 ~Fiat Moneyの裏打ち 
2008.12.09: アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図2




日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中

日本の政治制度の根幹は議院内閣制である。与党と内閣が一体となって国政を担当することにな
っている。国会と行政府のリーダーが一つになるのだから、アメリカのように議会と行政府が分立し
ている大統領に比べると、非常に強力な体制
といえるだろう。そのトップに立つ内閣総理大臣は、ほ
とんど万能に近い権力を握っているはずである。ところが、実際の首相は万能どころか”半能”の権力
さえ持っていないかのようだ。このギャップはどこから来ているか。戦後政治の特質に原因があると思
う。大戦が終わって50年弱。戦後の日本の政治は国民みんなで働いて得た財をいかに公平に国内に
分配するかということだけに終始してきた。
> Workしすぎてて怖いな。市場原理に背く好事例といえるだろう。経済一流、政治は二流。そんな
> ことない
だろう。世界で稀に見るで公平な社会が出来上がっているじゃないか。政治のおかげで。
問題はその後の政治だ。戦後の経済混乱を克服し、経済的に大きく発展したにもかかわらず、相変わ
らず財を分配するだけの政治、経済優先の政治に終始し、冷戦が終わってもそれを変えようとしない。
すなわち、戦後日本の政治は、対外政策の大枠をアメリカに任せ、国内の配分の問題に専念してきた。
そのためには強い権力は不要であり、みんながもたれあってなんとなく決めるほうが便利だった。問題
の第一は権力のいたずら分散である。制度を冷静に眺めるなら、全ての権力が総理総裁たる首相に
集中しているのだが、実際には自民党政権の権力は、自民党の権力政府の権力とに分かれてしまっ
ている。
> 年金と消費税か。民主主義を勘違いしてる。民の関心事をそのまま政治に持ち込んでどうする?
> リークアンユーの言葉を思い出せ。「我々が何が正しいかと決めます。国民がどう思うかは気にする
> 必要はありません。」
> ある男が言った。「何が正しいか、どうすべきかは私が決めます。民たる妻がどう思うかは関係ない」
日本政府の最高意思決定機関であるはずの閣議が全く形骸化している。閣議では実質的な議論は行
われず、最終決定はその前になされている。もはや閣議は儀式に過ぎない。中央官庁事務局の最高責
任者の会議である事務次官会議もかなり形骸化しており重要な意思決定の場とはいえない。ではどこで
決めているのかというと、それが明確に見えてこない。関係する事務当局がそれぞれの政策をどうすり合
わせ、誰がどこで決定したかがわからない。逆に言えば誰も責任を取らない中で政策が決まっている
である。
大久保、伊藤、原、吉田に学ぶ
近代120年の歴史の中で、注目すべきリーダーとして次の四人を挙げたい。彼らはきわめて個性的な存
在だ。それだけの周囲の意見に耳を傾ける物分りの良いリーダーを理想視しがちな日本風デモクラシー
の観念からすれば、同時代の人たちからは決して高い点数は得られなかった。そのことは4人の引き際が
はっきり物語っている。大久保と原は、強引とも言えるような政治手法を批判され、現職のままテロリズム
に倒れた。伊藤は首相をはじめ多くの新設ポストに就きながら、最後は枢密院議長に祭り上げられ挙句に
暗殺されてしまった。吉田は首相として四面楚歌の中で政治生命を失った。
> 例えて言うならば、無冠の帝王、ジェロムレバンナとアーネストホーストだね。勝とうと思ったらホースト
> のようになってしまうが、何がしたいの? プロでしょ? 客から金とってナンボ。客が判断し、客が引く。
> 客が楽しめるようにルール改正するなら、それは民主的だが、選手視点で安全・勝利を重んじてしまっ
> たらどうなる?
 大久保利通は、明治維新と廃藩置県の断行に大きな役割を果たし、太政官政府の下に内務省を建設
し初代内務卿として殖産興業をはかった。韓国に出兵すべしという征韓論に反対し、粉砕したのも大久
保だ。さらに西南戦争に勝ち抜いて中央集権国家を築き上げた。明治国家の基礎をつくったのである。
 伊藤博文は内閣制度をつくり自ら初代の内閣総理大臣となり、明治憲法を制定した。その一方では明
治国家の対外的な独立をめざして条約の改正を推進した。
 原敬は、政友会総裁として明治国家の中に政党を定着させ初の本格的政党内閣を率いて第一次大戦
後の日本の内政と外交に貢献した。
 吉田茂は、親英米派と官僚集団を権力基盤にして、GHQと取引しながら第二次大戦後の改革を進め、
講和独立を達成したのである。
彼らがこのように強力なリーダーシップを発揮できた理由は何だろうか。私は、彼らが強烈な国家意識、
つまり使命感
とそれを実現するための権力意思を持っていたことだと思う。彼らは周囲の批判を受けなが
らも自らの使命を果たすために、権力機構を完全に掌握し、実行のための体制を固めたのである。
> まとめていうと彼らの偉業は権力の集中を行ったことにあると小沢先生は
> 言っていると思うのだが、そこもうちょっと詳しく書いてくれると嬉しかった。
【国民意識と愛国心】
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2008.10.22: 香港とシンガポールの違い
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日本改造計画1/5 ~民の振る舞い

米国アリゾナ州北部に有名なグランド・キャニオンがある。深さは1200メートルである。ある日、
私は現地へ行ってみた。そして、驚いた。国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかか
わらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。しかも大きく突き出た岩の先端には若い男女
がすわり、戯れている。私は辺りを見回してみた。注意をうながす人がいないばかりか、立札す
ら見当たらない。日本だったら柵が施され「立入厳禁」などの立札があちこちに立てられている
はずであり、公園の管理人がとんできて注意するだろう。私は想像してみた。もし日本の観光地
がこのような状態で、事故がおきたとしたらどうなるだろうか。おそらくその観光地の管理責任者
は新聞やテレビで轟々たる非難を浴びるだろう。観光客が来るのになぜ柵を作らなかったのか、
なぜ管理人を置かないのか、なぜ立札を立てないのか。だから日本の公園管理当局は、前も
ってありとあらゆる自己防止策を講ずる。いってみれば行動規制である。観光客はその規則に
従ってさえいれば安全だというわけである。
 大の大人がレジャーという最も私的で自由な行動についてさえ当局に安全を守ってもらい、それ
を当然視している
。これに対してアメリカでは自分の安全は自分の責任で守っているわけである。
> うーん、正しい・・・日本の特徴であり、良さであり、またウザいところでもある・・・
なぜ、日本の社会はこのように規制を求める社会なのか。断っておくが、私は、規制を求める社会
が間違っているというのではない。社会のあり方の問題としては、正しいとか間違いとかいうもので
はない。日本には日本の歴史と伝統に基づく社会のあり方がある。日本人が規制を求めるのは日
本社会の特性に原因がある。日本の社会は多数決ではなく全会一致を尊ぶ社会である。全員が
賛成して事が決まる。逆に言えば一人でも反対があれば、事が決まらない。こういう社会であくまで
自分の意見を主張するとどうなるか。事が決められず、社会は混乱してしまう。社会の混乱を防ぐに
は、個人の意見は差し控え、全体の空気に同調
しなければならない。同調しない者は村八分にして
抑えつけられる。その代わり、個人の生活や安全はムラ全体が保証する。社会は個人を規制し、規
制に従う個人は生活と安全が保証される、という関係だった。
> そんな日本が気に入らない場合でも、日本を変えようとするのは、もったいないと思っている。
> ここまで不合理な社会を維持しているのは、世界でも類を見ない稀少性があるからである。
> 黙って外に出て、外から見ている分には、それが美しく見えてくる。
いまや時代は変わった。日本型民主主義では内外の変化に対応できなくなった。どのように変革す
るか。政治のリーダシップを確立、地方分権、規制の撤廃。これら3つの改革の根底にある究極の目
標は、個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。個人の自立がなければ真に自由
な民主主義社会は生まれない。国家として自立することもできないのである。人々はいまだに「グラン
ド・キャニオン」の周辺に柵を作り、立入厳禁の立て札を立てるように当局に要求する。自ら規制を求
め、、自由を放棄する。そして地方は国に依存し、国は責任を持って政治をリードするものがいない

真に自由で民主的な社会を形成し、国家として自立するには、個人の自立を図らなければならない。
その意味では、国民の”意識改革”こそが現在の日本にとって最も重要な課題といえる。
> 改革のために必要なのは民の意識改革というのは同意だね。しかし民の望むものを与えるのが
> 良い政治とするならば、どうだろうか?
 私は小沢先生のように国家を司る立場ではないが、家庭
> という小さな社会にあてはめて考えてみたらどうだろうか? 夫が妻に対する柵を全て取り除き、自
> 由を得ることを妻は望んでいるだろうか? 履き違えた自由と権利ばかりを主張し、それに伴う責任
> は放棄する。それが民の本質だ。私もそんな国家の改革に必要な意識改革のために、全ての柵
> を取り除くように努めているが、女性や社会からはあまり良い反応は得られていない

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美智子さまと皇族たち4/4 ~女性の旅立ち

波乱を含んだ皇族たちの船出
美智子さまが皇室に入り、宮廷をとりまく社会を見渡して驚かれたことの一つは離婚の多さだったろう。といっても、もち
ろん”現職”の皇族ではない。皇籍を離れた元皇族たちだ。終戦のとき、宮家は14家あったが、そのうちの三家を直
宮家といい、ときの天皇の兄弟であった。秩父高松、三笠の三宮家である。残りの11宮家のうち、伏見、閑院、山
階(やましな)の三家は維新前から続いており、その後創立されたのは東伏見、梨本、久邇、賀陽(かや)、北白川、
竹田、朝香、東久邇の各家である。この11宮家のほかに、三家-有栖川、小松、華頂宮家もあったが嗣子がない
ためにすでに廃絶していた。この11宮家51人が敗戦のため、GHQの意向もあって皇籍を離脱したのは昭和22年
10月14日のことだった。戦争に敗れた日本は怒涛が逆巻くように、インフレが猛威をふるい、世相が荒廃していた。
一民間人としてはじめて世で生きていくにはなんとも心細い船出だったろう。皇族時代、当主は全員が陸海軍の職業
軍人であったが、軍は一兵も残さず消滅していた。若い皇族は学校や会社に入り、再起をはかることもできた。しかし
30代から上の世代の人たちはいまさら平社員ともいかず、だいいち、これまで軍人の道しか知らなかったのだから、社
会に出てもあまり使いものにならないことは目に見えていた。それに対して女性にはまだ可能性があった。
デモクラシー、男女同権、女性上位などがスローガンとしてもてはやされ、社会進出が目立った。
離婚の第一号は、賀陽宮恒憲王の長女として生まれた美智子さんであった。御摂家につぐ名門、九清華家の一つ、
徳大寺公爵家の次男斉定氏に嫁いだが、1年にもならないで離婚している。理由については、斉定氏が病身だった
からとか、公爵の次男ゆえ公爵夫人になれないからとか、田中男爵家の義人少佐を忘れられなかったから、などとい
われるが真相はつかみにくい。いずれにせよ、この離婚は美智子さんからイニシアチブをとったという点で画期的だった。
夫から妻に離縁状を出すことはあっても、妻からというのは極稀だった。
次は李鍵公殿下と誠子妃。「王公族」の身分を失って、ともに民間人だったことと旧朝鮮の殿下だった。李鍵公は、
戦後日本人として生きるべく、桃山虔一と改名した。もっとも30年ごろまでは無国籍の身になっていた。桃山氏の
財産の大半はソウルにあり、東京では邸が空襲で焼け、財産は5万円の銀行預金だけだったという。皇族の身分
を離れても、11宮家のような一時金を受けなかったので、その日から生活の心配をしなければならなかた。もともと
夫人は新婚当時から夫を軽く見るところがあった。父は分家したとはいえ、大名伯爵家の生まれで、母俊子さんは
松平信子さんの妹なのである。そんな意識に加えて、誠子さんには重大な夫への裏切りがあった。結婚して一年
余りがすぎて長男に恵まれた李鍵公はこれで「公家」は安泰だと欣喜した。そして長男のK君を溺愛した。戦局
が厳しくなると空襲の被害に備えて血液型の検査をすることになった。ところがK君は二人の間に生まれるはずのな
い血液型
だった。殿下は驚倒せんばかりだったが、国を挙げて戦っている時にことをあらだてては皇室が大きく傷つく。
出身が異国だっただけに遠慮も働き、殿下はこのことを一人胸に秘めたまま、屈辱に耐えたのである。しかし戦後の
妻の態度に、桃山氏はこれまで元皇族の名誉にと耐えてきた、この件への堪忍袋の緒が切れたのである。
> うーん、すっごいね。AとBだと難しいのよ。全部生まれる。OとOで子供Aとかお洒落だよね。華麗なる一族とか、
> こんなんばっかり読んでるとさ、血液型だけじゃ信用できないんだよね。否定しようがないくらい外見が似てないとさ。
元皇族の離婚第三号は夫婦とも皇族出身だった。伏見宮博恭王の三男博信王は大正15年、臣籍に降下し
て華頂の姓と侯爵を賜り、廃絶した華頂宮家の祭祀をうけついでいた。閑院宮華子女王と結婚。ところが海軍
大佐だった華頂氏は、終戦後は植物遺伝学の研究に没入する日々となった。きわめて無口で温厚そのものの、
もともと学者肌の人だったのである。一方、明るく社交的で美貌の華子夫人は、夫とは正反対に婦人衛星団体
の総裁として、渉外活動で出歩くことが多くなった。そしてそうこうしているうちに戸田豊太郎氏と親しくなってしまっ
た。戸田氏は英国ケンブリッジ大学に学び、スマートで弁舌もさわやかな英国型紳士である。ある夜、自宅の離
れの応接間で親密にしている現場を華頂氏に目撃されてしまった
。逆上した華頂氏は一方的に夫人と離婚した。
価値観が一変し、誰もが自由を謳歌できる時代になると華子さんのなかにも今まで自分の中に眠っていた「女」
が呼び覚まされたようだった。
> だよなぁ。女だって、色々やるよな。自宅でやっちゃうとはなかなかの肝っ玉だが。
閑院宮春仁王は、陸軍少佐で終戦、戦後倉庫会社を作り年々業績を伸ばし旧皇族中の旗頭といわれた人
だった。その夫人直子さんは一条公爵家の出で姉の朝子(ときこ)さんは伏見宮博義王(戦病死)の妃。華頂
氏は博義王の弟である。閑院氏は知的ハンサムで人柄も良い人だがなぜか結婚当初から直子妃に興味を示さ
なかった
。軍時代に西口という当番兵と親しくなり、戦後も彼を閑院家の執事としていた。そしてしばしば、妻の直
子妃の眼前で不自然な行いをしていたという
。そのため直子妃も空閨をかこち、あるやんごとなき方と親しくなり、
戦後まもなく妊娠し、中絶している。閑院氏とは夫婦でありながら、一度も懐妊することがなかったのに・・・。つい
に直子さんは家を出てしまった。閑院氏との虚飾の愛に、いつまでも耐えられなくなったのである。閑院氏は妻に
逃げられた屈辱と口惜しさに激怒した。皇族だった人の常として、愛はなくても夫婦の形だけは生涯続けていき
たかったのである。
> 閑院宮氏は実業家だろ? タダで離婚できるのなら良しとしなければ、競争社会で生き残っていけないぞ。
> 眼前で不自然な行いをしていたという・・・、いいな、これ、笑える。俺も眼前で不自然な行いしちゃおうかな?
賀陽邦寿氏の純愛
邦寿氏は離婚第一号賀陽美智子さんの長兄で、実に三回の離婚を繰り返している。最初の結婚は26年2月、
相手は津雲国利代議士の長女龍子さんであった。周囲から祝福されて賀陽家に入った龍子さんだったが、2日、
3日、4日と日は過ぎても、夫の邦寿氏は妻に指一本触れようとしないことが気がかりだった。龍子さんも夫婦と
なれば夜の生活はどのようになるのか知識としては知っている。皇族育ちゆえ、その方面は無知なのかとも思った
が、どうも態度がよそよそしいのである。新婚旅行をしないのは、皇室ではそのような例がないから、といわれて納
得したがどうもおかしい。
あれこれ描いていた新婚の夢が無残に破れて、ウツウツとする龍子さんだった。実は邦寿氏は親の結婚強請に効
し切れずに式を挙げたが、心には深く期するものがあった。当時邦寿氏にはひたむきに愛する一人の女性がいた
である。それも元舞妓さんだった。南洋子という大工の娘だった。9人も兄弟がいたため、10歳のときに祇園の妓
方(置屋)に預けられ、13歳から芸妓(舞妓になる前の半玉)になった。一重瞼の大きな目は利発そうでチャ
ーミングではあったが、美人というほどではなかった。二人は出会い、その春に京大を卒えた賀陽氏は、東京銀行
に就職が決まっていた。そこでご両親、兄弟のいる東京に戻ってきた。同じころ洋子さんも上京してきて大森のア
パートに住んだ。しかしこのころになるとさすがの賀陽氏も彼女との結婚は諦めていた。かといって愛情がなくなっ
たわけではない。大学最上級のころ孝宮和子内親王との縁談が持ちかけられた。昭和天皇の第三皇女である。
それをお断りしてご両親を大変怒らせ悲しませた。旧佐倉の藩主、堀田伯爵の娘英子さんとの縁談にも賀陽氏
は乗らなかった。英子さんは学習院一の美人と騒がれ、政商小佐野賢治氏の妻となった。
 洋子さんは上京後しばらくして、結核を患う身となってしまった。一旦京都に帰ったものの賀陽氏は再び東京に
呼び寄せ、昭和医大に入院させた。それから駒込に小さな家を建て、ばあやをつけてそこで療養させた。賀陽氏
自身は下落合のご両親と住んでいたが、毎日必ず見舞いを欠かさなかった。栄養になるバター、チーズ、果物そ
の他の食料品、当時はまだ不自由なころであったが、賀陽氏は両手に下げて日参し、どうしても見舞いに行けな
いときは電報で知らせていたという。賀陽氏の洋子さんへの愛情は涙ぐましいばかりだった。結核ゆえ伝染の可能
性もある型かもしれあいが、枕頭に長く付き添って励まし慰めていた。しかしその介抱の甲斐もなく27年に息を引
き取った。祭壇には洋子さんの浴衣姿の写真とともに、賀陽氏に宛てた洋子さんの手紙が、もう一つの額縁に飾
られていた
。関西方面に出張するときはいつも墓参りを忘れず、法事にも毎回出席した。父、南佐太郎さんは元
皇族殿下が、自分の娘に対してここまで深い愛情と情けを与えてくれることに感涙していたが、賀陽氏の洋子さ
んへの追慕の情はそればかりではなかった。いまはもうないが、当時の洋子さんの家は入り組んだ狭い住宅地の
角地にあり、病室だった部屋は細い道路に面していた。薄暮になったころ、その部屋の近くで食い入るように見つ
め佇む賀陽氏の姿が、洋子さんが亡くなった後、なんどか見かけられた

> これは厳しいな。死んでいるゆえに思い出は美化され、悪くなることはない女が相手か。龍子さんも気の毒に。
> 単なる俺の推測だが、邦寿氏がここまで尽くしていたのなら賀陽一族はこのことを知っていたのではないだろう
> か。龍子さんという嫁には真実はいつまでも知らされないが、一族のものは全員知っている。担がれてたことに
> 気づかされた時の龍子さんの怒りは想像に難くないぞ。
> 龍子さんには気の毒だが、この賀陽邦寿氏の精神力に驚嘆。俺だったらどうでもいい女でも一晩供にすると・・・。
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美智子さまと皇族たち3/4 ~おたたさまの恐怖

お姑としての美智子さま
皇室という格式や前例、伝統を大事にする世界に入るということは、どんなに大変なものであるかは最初から覚悟していた。
しかし不幸にも菊のカーテンの内部での風当たりは予想以上の厳しさであった。もはや夫君を除いては孤立無援。しかし
その夫君も皇太子とはいえ、この世界では力がないのは侍従と同様であった。ナンバー2、次代天皇ゆえ宮内庁の長官
以下全員は、皇太子の指示、希望通りに動いてくれるかと思いがちだが、決してそうではない
のだ。美智子さまは頭脳明
晰な方だけに、そのような空気をすぐ感じ取ったのであろう。しかも、これまでよき理解者であった昭和陛下を激怒させるこ
とが重なって、美智子さまは一挙に奈落の底に突き落とされた気持ちだった。東宮ご夫妻は毎週一回、皇居に両陛下を
お招きし、団欒と夕食の三時間余をすごす習わしだった。しかし皇后様に無視されることが多く、美智子さまにとっては毎
週のその日が苦痛でたまらなかった。理由をつけて欠席することがあったが、それが3回、4回とつづけば真実でないことくら
いすぐ分かる。いや、女官長の内通で初めから知られている。皇后様に気をつかった陛下は「美智子がそんなに来たくない
なら、もう来なくて良いッ」とびっくりするような大声で怒りをあらわにされたことがあった。さらに昭和37年頃、聖書事件(常
陸宮が聖書に親しんだことで、美智子妃が誤解を受け、陛下から激怒された
)があり、美智子さまは陛下の逆鱗に触れ、
脳天を金槌で強打されたような衝撃を受けた。当座は口数もほとんどなくなり、沈鬱に物思いにふける日々が続いたとい
う。ご結婚の頃より10キロ体重が減っていた。
> 3時間の無視か。俺はもう30年以上、可愛い女性から無視され続けているがノウノウと生きておるぞ。
> そんな俺も美智子さまと同じく、繊細でな。家の中の不和が原因で去年の12月がボトムだが10キロ体重が減ったよ。
> 幸せな家庭生活で幸せ痩せして、惨めな独身生活で不幸太りしちゃう人も居るのかも知れないなぁ。
皇太子のお妃は皇族か摂家(五家)、せいぜい清華家(九家)から入っていたから美智子さまほどの苦難はなかったと
は思う。しかし、皇族出身のいまの良子(ながこ)皇太后も、実は嫁姑問題では、人知れず苦しみをなめられていた。
良子さまは大正13年に皇太子裕仁天皇と結婚されたが姑にあたるときの皇后節子(さだこ)さまは、男勝りで気性の
強い方だった。節子さまは五摂家の一つ、九条道孝公爵の四女だが、ご生母は15歳から九条家の小間使いとして働
く野間幾子さんである。ご生後七日目より高円寺村の農家で、里子として育てられ、近所の農家の子と泥まみれになっ
て遊んでいた。学齢になって九条家に戻ったが、野間幾子さんはすでに九条家を離れていた。母子の愛情に恵まれない
方だったのだ。皇太后良子さまはお姑の貞明皇后からことあるごとにご忠告を受けていた。貞明皇后はきわめて保守的
で、とくに旧来の風俗習慣、しきたりを大事にする方だった
からそれらに外れると、妃殿下でも女官でも強く注意された。
たとえば前髪でいえば、官中の祭祀やおめでたなどで「おすべからし」「ときさげ」にすることが多いから、戦前までは短髪や
パーマは厳禁だった。しかし仕事に忙しい女官は、戦後パーマをかけはじめた。良子さまは「お手入れが楽でいいわね」と
羨ましそうだったが、貞明皇后の手前、それはできなかった。良子皇后がはじめてパーマをかけられたのは28年3月、貞
明皇后が崩御されてから2年近く過ぎてから
だった。貞明天皇が皇居へ見えるとなった時、女官たちは毎回震え上がった
ものだという。長い独特のご挨拶の文言や服装、所作などに落ち度がないかどうか、2,3日前から気の毒なくらいにはり
つめた。それは良子皇后もまったく同じだった。
> 嫁姑問題は皇室も同じと。ところで女性に質問です。そんなにお義母様は怖いですか? 私男なので理解できません。
> 旧来の風俗習慣、しきたりを大事にする
> 一族家は平民だから、この逆でした。合理性を伴わない習慣や風習は全て否定された。将来の俺嫁は覚悟しろよ。
> 女だから劣っていても許されるなんて男尊女卑的考えは、一族家では認められない。
毎週一度、東宮ご一家で皇居を訪ねるとき、美智子さまは皇后様の好きな絵や画家の予習をしておき、共通の話題
で話がはずむようにつとめられた。同様に草木の事前勉強をして、植物好きの陛下(昭和天皇)を喜ばせられた。陛下
の植物の話といえば、あまりに学問的すぎて、侍従たちはそのお話にお付き合いするたびに辟易とするのが常だった。た
えば、一つの花についても、学名からその由来、どんな色のどんな形の花が、いつごろが盛りで、そしていつ散るのか・・・
と、聞く人がうんざりしていてもおかまいなく、滔々と続けるという方だった。その一徹さはいかにも学者らしいが、そのため
に母君の貞明さまともこのような会話があった。陛下がある日大宮御所へ母宮を訪ねたさい、鶴の一種について話が
及んだ。その鶴が「○○科に属すんでしょ」とおっしゃる貞明さまに陛下は反論された
いえ、鶴目の鶴科に属す○○鳥です。」
「そうじゃないでしょ、○○科のはずですよ」と貞明さまは譲らなかった。貞明さまも頭の良い方で、ご自分の記憶力に自
信があったからだが、このときは陛下のほうが正しかった。学問のことでは陛下もきわめて頑固だったから、お互い主張し
あって、大きな声が隣室に侍る側近にも手に取るように聞こえた
。陛下は関連した鶴の話も説明して理解を求めたが
効なく、お話は数分にも及んだという。最後に根負けした貞明さまが、
「じゃあ、そういうことにしておきましょ」
と「しょ」を尻上がりに言って打ち切られた。しかし陛下は、
いいえ、おたたさま。『そういうことにしておきましょ』ではありません、そうなんです
と陛下も「そうなんです」の「そう」に力をこめてとどめを刺された。学者肌の方ゆえ、中途半端ですますことのできない
方だった。
> 母と息子の会話とはいえ、皇太后と天皇の会話だからねぇ。その場に居合わせた側近は生きた心地がしなかった
> ろうよ。「いいえ、おたたさま」これお洒落だな。「あの時、おたたさまが朕におっしゃった」 なんかぎこちない言い方に
> 思えるのは朕だけか?
> 俺嫁は安心されたし。一族家におけるおたたさまと朕の会話はこのような学術的な話でもなければ、株式やデリバ
> ティブを論ずるわけでもない。ただ、私利私欲・不合理な慣習にとらわれた金遣いや行動をすると「なんで?」と理
> 由を追求されるだけだ。しかし、現・皇太子様はお言葉遣いが平民にかなり近いな。

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美智子さまと皇族たち2/4 ~平民と皇族の違い

良子皇后は久邇宮家の出身。昔の気質から抜けにくい方だけに民間人のお妃出現にはかなりの不快感を抱かれたらしい。
陛下も側近に「小人と女は度しがたいとはいうがね・・・」と少々うんざりした口調で洩らされたそうだ。宮廷挙げての根強い反
発に皇太子はある日、秩父、高松宮妃を御所に招いて自ら説得につとめたことがある。おれが三時間半に及んだにもかかわ
らず、美智子さんへの風当たりは収まらなかった。思いあまって、「結婚したら美智子は、叔母さま方の上に立つ人になるんで
すよ」と自重を促しもした
が、むしろ逆効果を呼ぶことになった。いよいよ、松平常盤会会長から指名された牧野東宮官長が
東宮御所入りした。「乗り込んできた」といったほうがふさわしかった、と旧側近はいう。初めから美智子妃に厳しく当たったらし
い。「ああしてはいけません」「大名家と宮家はちがいます」、「それでは宮妃殿下としてはずかしくありませんか」 と口調こそ丁
重だが、ことごとく言葉に棘があった。
美智子さまは母冨美子さん似で、浩宮の養育や躾に人一倍ご熱心だった。殿下と相談の上、すでに親子同居を決め、
母制を廃止

外出時を除いてはできるだけご自分の乳を与えてきた。
留守の間、浩宮の世話が人によって偏らないようにと、母親のこまやかな愛情を注いだ“ナルちゃん憲法”も、さらなる充実を
めざしてペンを走らせ”条文”を増やした。
子守唄を3つ、テープにハミングで吹き込みました。私の声を忘れないよう、時々かけて聞かせてもらうわけです。
> 「あぁ、やはり平民出身よのぅ。ここをどこだとおもっとるんじゃ?」という皇太后の声が聞こえてきそうだ。
> 美智子さまには悪いが、こういうのが母の見本として、報道されたり、神話化すると、俺も煙たいぞょ。
天皇家の財産
戦前の皇室は天皇家も各宮家も、厚い財政的保護があり、非常に豊かだった。とくに天皇家は世界一のお金持ちであった。
徳川時代の天皇家は、幕府からの約10万石の石高でやり繰りするしかすべがなく、台所状態は非常に苦しくその貧乏物
語は数多く伝えられている。明治維新により天皇が名実ともに日本の元首になると、歴代の政府が天皇の権威を極度に高
めることに熱中した。天皇家の基本財産を増やす方針を立て、全国各地の山林を皇室財産に組み込んだ。それを御料林
といいそこから上がる材木の払い下げやその運用利益などで、皇室財産はうなぎ上りに増えていった。御料地の面積は132
万町歩を越え、日本内地の総面積の何%かを占めるほどだったのである。それが敗戦を境に一変した。秘密のベールに包まれ
ていて知るすべがなかった天皇家の財産だが
、GHQの手で白日のもとに晒されることになった。皇室財産の総額が当時の額
で15億9千万円
と公表されたとき、あまりの天文学的数字に誰もが一驚したものだった。しかしこの金額にGHQは不満足
で再提出を命じた。21年には37億円と発表された。物価の上昇分もあったがこれにも宝石、貴金属製品、伝来の美術
工芸品は含まれていない。さらにGHQはこれらの皇室の全財産を凍結して移動つまり隠匿や他人に贈ることを禁じた。のち、
すべてを国庫に収めたが一夜にして世界一の富豪から、財産ゼロとなってしまったのである。ただし皇居をはじめ、赤坂御用
地や那須、葉山、須崎など、三御用邸や京都御所、修学院離宮や正倉院などは皇室用財産とし、御用邸は国から借り
て使っている、との形にした。もちろん賃貸料などをとらないから、実質的には戦前の天皇私的財産であった頃と変わらない
といえる。ついでに、当時の各宮家の財産を見ると、さすがに天皇家とは比較にもならない。昭和天皇の三弟宮の額は、秩
父宮家が2257万円、高松宮1億2536万円、三笠宮が1137万円となっている。しかし昭和22年に1回限りの「財
産税」が課せられ、各宮家では四苦八苦して納められた。なにしろ秩父宮が1457万円、高松宮が1億21万円、三笠
宮が637万円という高額だったのだから。高松宮家が飛びぬけて多いのは、大正13年に廃絶した有栖川宮家の財産を
結婚と同時にそっくり受け継いだからである。また空襲で本邸が焼失を免れたことも幸いした。
>鬼やなぁ・・・幸いしてねーだろ・・・。高松宮の税率80%だぜ。実質全額没収に近い「財産税」の実態。
紀子さんスマイル
婚約報道のあと、紀子さんの住居のある目白周辺は常に報道陣と見物の人々があふれていた。そんななかで誰もがまず驚
いたのがその住居だった。父、辰彦さんは学習院大学経済学部の教授であり、一家は学習院第五共同住宅という、3DK
の借家アパートに住んでいた。テレビがベランダで洗濯物を干している、母の和代さんを映し出した。その建物も、ありふれた
風景も、日本の平均的な庶民の生活だった。かつて美智子さまが今上陛下とご結婚なさる時に「民間人が皇室に」と随分
騒がれたものだ。しかし、美智子さまの生まれた正田家は民間人とはいえ、名門の実業家で、当時既に斜陽化していた旧
皇族よりもある意味ではずっと勢力があった。それでも旧皇族でも旧華族でもないということで、たいへんな苦労をされたし、
いじめにもあったのだ。
> 紀子さんの家って平均的な庶民だったか? どちらかというと平民の中でも貧しい階級だったように記憶しているが?
川嶋家に「もしもし、アヤノミヤですが、キコさんいらっしゃいますか」と電話がかかり、そのたびに紀子さんのお母さんがオロオロ
したという話もある。ご結婚前の美智子さまに皇太子が電話をされるときは、かならず友達か侍従が間に入り、直接皇太子
から電話を入れることは決してなかったことを思うと時代が変わったと思う。
> もしもし、アヤノミヤですが・・・、かっこいいなぁ。響きがいいなぁ。
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美智子さまと皇族たち1/4 ~天皇制と皇室

戦前うけた皇室教育
敗戦まで、全国津々浦々の公立小中学校には「奉安殿」があった。正門から後者に向かう一隅に立てられ、その回りは柵で
囲んである。木造校舎の場合でも、奉安殿だけは、小さいながらもレンガかコンクリートづくりの堂々たるものだったので
異彩を放っていた。このなかには天皇、皇后両陛下のお写真、つまり「御真影」と「教育勅語」も一緒にしまわれていた。
そして四大節の式日や卒業式には、モーニングかフロックコートに白手袋をはめた校長が、それらを重々しく取り出し、
講堂で全校生徒に拝礼させたのである。四大節とは四方拝(元旦)、紀元節(建国記念日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(明治
天皇誕生日)である。教育勅語の朗読をもしトチッたりしたら大きな失態とされ、二、三箇所も誤読したり、つまずいたな
ら左遷の運命にさえあった。戦前の著名な作家、久米正雄の父は、大正のころ小学校長として校舎の火災にあい、奉安殿が
焼けてしまった。そのため、責任を負って自決までしている。当時は「不敬罪」があって警察や憲兵がきびしくチェックし
ており、宮内省から賃下げの写真を焼失させたのは死に値すると見たのである。
戦後の動乱の中での天皇、皇室
21年元旦に、陛下はいわゆる”人間宣言”をされている。神様-神格天皇であったことを否定されたのだ。しかも天皇の上
にはGHQのマッカーサー元帥が”日比谷天皇”といわれて君臨していた。天皇の退位、戦争責任などが諸外国からつよく求
められ、国内では共産党幹部が、天皇制打倒、戦争責任などを声を大にして叫んでいた。世田谷区では米の配給が10日
もおくれていた。怒った区民達百余人は赤旗を先頭に皇居になだれ込んだことがあった。食糧メーデーが皇居前広場であった
が、そのなかの一人がプラカードに「朕はタラフク食っているぞ。なんじ臣民飢えて死ね。ギュメイギョジ」と書き、それ
が新聞、ニュースでとりあげられて話題になった。まだ「不敬罪」があるころで政府が告訴すると被告は左翼シンパの弁護
士をつけて争った。
そこへマッカーサー元帥が「すべての人間は平等である。天皇といえども同じだ」と表明したから政府としてはいかんとも
しがたい。ただの名誉毀損に切り替えざるを得なかった。
23年1月、参議院の初代副議長についた松本治一郎氏は、天皇の拝謁を拒否、という前代未聞のことをやってのけた。
国会の開会式には、衆議院、参議院の正副の議長が、天皇に敬意を表してお辞儀に上がることになっている。それには作法が
あって天皇に背や横を向けては失礼という考えから、横ばい、あとずさりをして退出することになっている。しかし、新憲
法の下、国民が主権者ということになっているのに、戦前の作法のままだったから「そんな蟹の横ばいみたいなマネができ
るか。人間天皇になったはずだろう」と側近に噛み付き、ガンとして拝謁しなかったのである。このように、天皇、皇室観
が一変するほど、敗戦の痛手は各地各所で大きかった。
皇室に入られ、美智子さまが驚かれたことの一つは、天皇家、宮家では、長男と次男は待遇に雲泥の差があるということだ。
数百年、千年前までは兄弟で皇位をめぐる争いがありそれが天下の動乱にもなった。兄弟間の争いだけでなく、父天皇の好
みや、時の勢力関係などにより長男が退けられて、弟が皇位につくこともあった。天皇家が鎌倉時代の中期に南朝と北朝に
分かれた原因などはその好例である。それらの反省に立って、長幼の序が厳しく言われるようになったのだ。特に天皇家に
おいてはそれが絶対的で、昭和天皇のすぐ下の弟秩父宮(雍仁親王)や今上陛下の弟常陸宮(正仁親王)のように兄君とは1歳か
2歳違いでも天皇になる方とそうでない方ということで、ご生後すぐから別々に養育され、待遇にも大きな差がつけられた。
旧皇族、華族、常磐会
皇族の女子は結婚によって皇籍を離れる。また新王でなく、「王」の称号の男子の次男以下も先に書いたとおり民間人とし
て社会に出るのである。皇籍を離れるに際しては、国から5000万円あまりの一時金のほか、勲章をいただく。皇族を続け
る男子が成年の際最高位大勲位菊花大綬章をいただくのに対し、民間に入る見込みの人は成年式にあたり一ランク下の勲章
となる。それが勲一等旭日桐花大綬章だ。ちなみに女子皇族で成年に達した人、あるいは秋篠宮妃殿下になった紀子様のよ
うに、民間から入った人は結婚の日、勲一等宝冠章を受ける。これは女子だけに与えられる勲章である。一度に大量に離脱
した例は、敗戦で、直宮三家(秩父、高松、三笠の各宮)を除いて一斉に「臣籍降下」したのだった。東伏見、閑院、伏見、
山階(やましな)、賀陽(かや)、久邇、梨本、北白川、竹田、朝香、東久邇の十一家である。
常磐会の会長松平信子女史は、東宮職参与として皇太子(今上陛下)のお妃選考に大きな力を持っていた。しかし、正田美
智子さんの登場で、お妃選考における自分の席が棚上げされてしまった。女史は娘に当たる秩父宮妃の力を借りてまで抑え
ようとした。小泉信三と黒木従達氏はこれをはねつけて皇室会議に漕ぎつけたのだった。小泉氏らは女史の顔を立てるため
に二つの頼みを託した。お妃教育で「礼儀作法」を講じてもらうこと。東宮女官長を推薦してもらうことだった。結婚により
美智子様には女官が必要になる。女史は、遠縁の牧野純子さんを推挙した。二人とも旧姓は鍋島で、常磐会においては会長
と理事の関係だった。すなわち牧野女官長は常磐会の意を受けたお目付け役として就任したのだった。代々木の松平信子さ
んの家で皇后の女官長保科武子さんを交えた三人でしばしば会合をもっていた。保科さんは北白川宮家の出。美智子さまが
妃として浮上するまで数年間は、北白川肇子さんがつねに本命視されていたが、その大叔母である。もちろん常盤会会員だ
った。ふつう、皇后の女官と皇太子妃の女官があい会することはあっても仲良く私的な会合をもつことなどあまりない。
それが美智子憎しに燃える松平女史が、牧野東宮女官長から美智子さまの話をあれこれと聞き、それを悪意にとって伝え、
ときには溜飲を下げる。そして保科さんからは皇室の人々に松平さんからは常盤会の役員、さらに親しい会員にと、美智子
さまに対する歪められた話が広がっていく
。牧野女官長は本来、美智子さまを忠実にお守りする立場にある。前代未聞のこ
の行為は、まさしく反逆以外のなにものでもない。
> う・・・いくつなんだ松平女史? 随分ネーさんに見えるけど、小学生なのかな?

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【差別被差別構造】
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2010.09.27: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ批判
2010.08.10: 母と差別
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2009.10.22: お金と人の行動の法則
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.08.11: 初めてのビンタン
2009.07.15: 無差別な世界に思える国際都市
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
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2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2008.10.10: あなたが信じているのはお金だけなの?
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.08.22: Olympicと国家
2008.01.09: どうでも良い芸能ネタも外人相手だと




石油戦略と暗殺の政治学

タイトルとイメージ違いますねぇ、この本は。「第四次中東戦争以降の中東政治力学」とした
方が適切だと思われる。
この本で主に取り上げられている暗殺された人物は、サダトとファイサルである。
エジプト大統領のサダトとサウジアラビア国王のファイサル。
sadat.jpgFaisal2.jpg
シリア 陰謀とクーデターの国、1949~54年までに5回のクーデターがあった。
親イラク派、民族主義、中立派の争いが原因。
レバノン 信仰のモザイク、人口わずか150万人、マロン派のキリスト教、スンニー派、シーア派
国会の議席99は6対5の割合でキリスト教とイスラム教とに分けられたうえで宗派別によって比例
配分されている。
流血のイラク革命
冷戦のさなかで中東の持つ意義は石油にあった。ペルシア湾岸の石油埋蔵量は世界の7割近くあり、
産油国のイラン、サウジアラビアおよびイラクは西側に属する王国であり、残るクウェート、カタールは
当時イギリスの保護国で開発はメジャー(国際石油資本)が受け持っていた。石油輸出機構(OPEC)な
ど、まだ存在しなかったころである。自由世界は万難を排して、この宝庫を「赤の魔手」から守らなけれ
ばならない。その要求から1955年11月に成立したのが反共軍事同盟のバグダード条約だった。翌56
年にスエズ戦争が起こると西側は中東石油の重要性を思い知らされた。スエズ運河が封鎖され、さら
イラクから地中海に抜ける送油管がシリアの手で爆破されると、備蓄のなかった西欧はたちまち石
油危機に襲われてしまったのだ。ところがナセルはアラブ民族主義の英雄として、その影響力をアラブ
世界全域に広げ始めた。そこでアイゼンハワー大統領はバグダード条約を強化する意味で、中東特別
教書を出す。親米派のサウド・サウジアラビア国王がイラクとヨルダンに和解の手を差し出したのは、こ
の教書の意を汲んだ上での行動に違いない。アイク・ドクトリンの名で知られるこの教書は、ソ連の直接
攻撃がなくとも現地政権が共産主義からの侵略の脅威にさらされたと感じて救いを求めれば、アメリカ
は即座に武力介入して同政権を助けるというもの。これはナセルによる「赤の脅威」を拡大解釈したもの
で「石油ドクトリン」とあだ名がついたほどである。レバノンが「シリアからの共産主義勢力の侵入」を国
連安全保障理事会に提訴したのはアイク・ドクトリンを横目でにらんでの行動だった。6月になるとヨルダ
ン情勢が不穏になったので、イラクは援軍派遣の気配を見せる。こうして世界の目が中東に釘付けされ
ているとき、反共軍事同盟のかなめの地であるバグダードで、7月14日、カセム准将による王政転覆の
クーデターが起こったのである。青年国王ファイサル二世が死んでイラク王家は滅亡した。
ファイサル王の生涯 (イラク国王ではなく、サウジアラビア国王の方)
ファイサル・サウジアラビア国王の暗殺は、第4次中東戦争以後の国際情勢におけるもっとも劇的な事
件である。建国の祖であった父イブン・サウドから将来、王国の外交をになるものとしての教育を受けた。
1953年、父の死とともにサウドが二代目の王として即位したが、兄弟の仲はしっくりいかなかった。そ
れは国内情勢よりも東西冷戦という国際情勢が、父王の描いたビジョンよりはるかにめまぐるしい速さ
で回転したためといえるだろう。すなわち、戦略上の観点からみた中東はソ連に接する「柔らかい下腹」
であり、しかもそこに世界最大の量の石油が埋蔵されている。この資源を確保しようとする米国と、勢力
を軟化させようともくろむソ連という二大勢力の確執の中で、サウド王は元首として、なすところ知らなか
ったといってよい。しかも中東はナセルの登場により、民族主義の炎が渦巻き、サウド王の生来の浪費
癖は、こうしたアラブ急進勢力のかっこうな攻撃目標だった。ついに1964年リヤドに宮廷革命が起こり、
サウド退陣、ファイサル即位となるのだが、このときファイサルは王族一同の合議のもとに円満な譲位
という形式を整え、サウド追放を主張する急進派王族の行き過ぎを抑えて、ついに一滴の血も流させな
かった。即位後、財政の立て直し、アラブ連合(現在のエジプト)のナセル大統領との和解を軸とするア
ラブ連帯の推進、1973年の10月戦争の際、全力をあげてエジプトとシリアを助けた。
 国内の信望厚かった老国王がLSD密売の経歴を持つという甥の凶弾に倒れた。エジプトの外交はナ
セル時代以来、東西冷戦の中で東寄りだった。サダト時代になって、同大統領は米ソ協調体制に対応
して西寄りの姿勢を見せ、キッシンジャー長官の調停工作に期待した。このサダト新路線の誕生には、
ファイサル国王の力がおおいにあずかっていた。すなわち同国王は膨大な石油収入を活用してアラブの
政治大国エジプトを支え、いわゆるアラブの大義を穏健路線のなかで生かし、こうして中東和平を実現
させようとしたのであった。これはキッシンジャー構想と見合うものだ。米国が中東和平構想の見直し
を行わなければならぬのは当然と言えよう。サダト大統領の受けた打撃も深刻なものがあろう。その
和平構想も根本から再検討を迫られるからだ。エジプト、サウジアラビア間に築かれていた信頼関係
は継続することができるだろうか。リヤドに外交的空白が生じたことは、シリア、パレスチナ解放機構
を含む穏健派の危機でもある。
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麻雀狂時代

正確にはなんという病気か、なにしろ専門医に見せないからわからない。症状は、ナルコレプシーというに似ているが、
まァその種の神経病であろう。今、神経病は新種がどんどんできていて、いずれも原因が究明されていない。なおらな
いのなら、病名などなんだって同じである。
>そうだなぁ・・・、ホント、治らない病気を一生懸命気にしている人の気が知れないよ。
メリケンおタマ
私たちの間でメリケンおタマとか、ヤンキーおタマ、とか呼んでいるご婦人がいる。実にどうも、妖艶華麗な女性なので
あるが、残念無念彼女、そう若くない。イスラエルと日本との混血で、ユダヤ系によくある大女。美人というには貫禄が
ありすぎて抵抗があるが、大勢の人の中に居てもなんとなく眼がいく女である。
私は小声で言った。「カードは誰のもの?」
「彼女のだ」と河合は言った。「しかしヴァイスクルの新品で封を切ったぜ」
ヴァイスクルはカードを扱い慣れた人ならひと眼でわかる。世界最高のトランプ製造会社で、厳重な品質管理をし、不正
が入る余地のないことで定評がある。大分以前に、トランプ製造会社に押し入って、原版にガンをつけてくるギャング映
画があったが、つまりこのヴァイスクルのような会社があって、秘密金庫と同じくらいに警戒厳重だから、そういう発想が
生まれるのであろう。カジノはどこでもヴァイスクルの新品カードを使っている。もしガンがついていたらカジノが破産す
る原因になってしまうからである。
タネのない魔法がこの世にあるとは信じられない。カードのいかさまについてあまり深入りしたことはないが、まず容易に
考えられることに手芸があろう。カードの山の下の札を、上から出した如く見せる。或いは上の札を片手の手練で一枚、
下へはぐってしまう。しかしこの方法はカードの山を片手で持ち添えなければならない。カード遊びをする時の正式な礼儀
として、山はいつも卓上におき、一番上の札しか手を触れない
ということになっている。次にシャッフルしている時の技巧
があろう。麻雀の積み込みと同じく、シャッフルしているうちにカードの順序を覚える、或いは自分に有利に揃える。もっ
と簡単なのは、カードの山を傾けて視線に入れることも可能であろう。しかしこれも、
山を手で持ちそえなければならない。
彼女は正式に、山を卓においている。また、彼女でなく、我々がシャッフルしている場合も同じような能力を発揮する。
ではガン札だとするか。可能なのは鉛版の段階で印刷関係者が目立たない特徴をつけることである。もうひとつ、版下
屋さん、乃至は原画作成者が特徴をつけることだ。これなら厳重管理のヴァイスクルといえども、予防のしようがない。
しかし私はこれも疑問視していた。管理の眼をくぐってパスする程度の目立たない特徴が、ゲームをしている最中の遠
目にわかるだろうか。それに、彼女のカードの駆引きはプロのものであり、一時的なガン札に頼っているようにも思えない。
「とにかく、スターがなかなか出てこないな。ひょっとするとこれは流行歌や映画の世界よりも麻雀のスターを造ることが
むずかしい
のかもしれないね。」
「スター待望論ですね。」
「天才少年よいずこ。天才少女ならもっといいが」
天才を発掘することはむずかしいが、不可能事ではない。すくなくとも現在の碁将棋のように英才が集まってくる可能性
はなくはない、と私は考える。しかし、それは選手年齢が現在よりずっと下がった時点ではじめて可能になるだろう。
二十代ではもうおそい。十代の選手たちでタイトルが争わなければならない。天才というものは、旺んな生命力の裏打ち
が必要
である。ティーンエージャーが活躍するとして、そうなると、5つ6つの幼児の頃から牌を握ることが必要になってくる。
碁将棋やバレーやピアノと同じことで、個人技能のプロになろうとしたら、幼児から天才教育をほどこされなければならない。
幼少期に体で覚えるのだ。能や歌舞伎の世界でも同じである。その場合、他種目と違って、麻雀は博打だというイメージ
がマイナス条件である。幼児に博打を教える親はない
。競技麻雀も年々盛んになっているが、まだ現状のところ、博打でな
い麻雀があるということが世間にいきわたっていない。すると、かりに天才教育をほどこされた天才児が登場するとしても、
当初は、競技麻雀に理解のある家庭からであろう。競輪選手がそうであった。戦後、競輪が創設された時、圧倒的に
自転車屋さんの息子が多かった。高校の自転車部などから英才がくりこみだしたのはやっと最近である。
麻雀もデリバティブも投資も同じだな。おぎゃあと産まれたその日から、その横には既に株価があった・・・
それが投資一族の意味だ。しかし、その真髄は・・・株でもデリバティブでも博打でもない。私利私欲、見栄と栄誉を捨て、
勝つこと。勝ち続けること。 以上。 投資一族の長より。
地方競馬の、某という大馬主の馬券を呑もうというのである。草競馬だから、当然、といってもいいほど、仕組みのレース
が混ざる。草競馬は賞金が安いから、ただ賞金目的でフェアに馬を走らせていたのでは、飼葉代も怪しい。馬主は馬券
を買って儲けるより仕方ない。ところが、世の中がだんだんうるさくなって、異常な売上を監視する目が草競馬でもきびし
くなった。したがって、穴場で正規に馬券を買っていてはヤバい。そこで狙われるのが、ノミ屋なのである。パツをかませ
た馬券はノミ屋に入れる。これが少し前までの常識であった。ところがそれではノミ屋がたまらない。競馬、競輪ともに、
ここ数年、ノミ屋がつぶれることが多くなった。ノミ屋受難時代である。たいがいのノミ屋はだからその危険の無い小口
のサラリーマンを相手にすることを喜ぶ。そう面白い目も見られないのだがパツをかまされる危険が少ないからである。
そこでパツ屋の方も、危険を承知で受けてくれるノミ屋を探すことになる。
条件は出したんです。もちろん向こうからの条件も呑みました。向こうの条件は、買いに制限をしないこと
ぎょえーーん。これノミ屋の鉄則に反してるよ。下限はコストパフォーマンスの向上のため。上限は自分の懐を守る
資本力勝負にしないための基本法則でしょう。

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ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4

大量殺戮兵器 爆弾代わりに使われたスペース・コロニー
宇宙世紀0079年1月3日、ジオン公国軍は、宣戦布告の3秒後、地球連邦軍艦隊に襲いかかった。同時に、
敵対するスペース・コロニーにパルス・ジェット・エンジンを仕掛け、地球に落下させる”コロニー落とし戦略”が開始され
サイド1,2,4の28億人がこの戦略の犠牲となった。一週間戦争である。人間の住んでいるスペースコロニーを爆
弾代わりとし、地球に落とす。この戦略は、いわば究極の戦略無差別爆撃であるといえよう。飛行機は発明されるや
第一次世界大戦で使用された
。イタリアのジュリオ・ドゥーエ陸軍少将は1921年に著した『制空権』の中で、戦場
に存在する敵は偽りの目標にすぎず、真に攻撃目標とすべきは都市、産業、鉄道、橋であると主張した。さらに彼は、
敵国の人間を戦闘員(軍人)と非戦闘員(民間人)にわけたこれまでの戦争は時代遅れだと喝破した。これからの
戦争は軍人のみではなく、全国民が行うものだ。だから勝利を得るには敵国民の物心両面のよりどころを撃破し、社
会組織を最終的に崩壊せしめなければならない
というのだ。民間人は戦争の打撃に最も耐えられない存在だから、
これを叩け、というのが、ドゥーエ少将の理論であった。同様な理論はアメリカのビリーミッチェル陸軍准将も持っていたが
彼は軍内であまりにも強硬に主張し、反対する上官を罵ったので、軍法会議にかけれれてしまった。ドゥーエ少将の理
論を実践したのがドイツ(スペイン・ゲルニカ)と日本(中国 重慶)だった。
敗者が復活して再び戦争を引き起こしてしまうのは、なぜか?
戦争が終わってみて気づくのはジオン本国がほとんど無傷で残ったということである。多くの成年男子が戦死したし、コロニ
ーのひとつマハルは、ソーラレイシステムに転用されたため、事実上、使い物にならなくなっていただろう。しかし、コロニー落と
しによって荒廃した地球に比べれば、その被害はあまりにも軽微だ。独立を叫んで全人類に挑戦したジオンは、その力の
ほとんどを残したままだったのだ。そのうえジオン本国が戦場になっていないので、多くのジオン共和国国民は敗戦の実感に
乏しかったものと思われる。確かに、多くの者が出征したまま生きて還らなかったが、後方にいた国民は敵(連邦軍)の姿
も未定内。ニュースか何かで敗戦を知っても荒廃した国土を見て途方にくれるようなことは彼らには無かった。しかも1年
戦争の戦われた12ヶ月間のうち、開戦から10ヶ月はジオン軍が圧倒的に優勢だった。ジオン軍の退勢が始まったのは
11月のオデッサでの敗北からだ。その後ソロモンが奪われ、ア・バオア・クーが落ちて休戦協定までわずか2ヶ月。本国の
ジオン国民にとって1年戦争は勝っていたはずなのにいつの間にかに負けたことにされていた戦争
、といったところではないか。
そんな彼らを待っていたのは、地球連邦政府によるスペースノイド圧迫の政策だった。連邦政府は宇宙移民の子孫たちに
相変わらず自治権さえ認めなかった。この連邦政府の政策は大きな誤りだった。スペースノイドに自治権を与えるべきか否
かはここでは論じない。しかし、与えないのなら、スペースノイドの力を徹底的に削ぎ、連邦の権力に屈服させるべきだったし
それを行う力が無いのならある程度の自治権を認めて、いわばガス抜きをすべきだった。連邦政府はただ、まだ戦争を引き
起こす余力を残した人間たちを疎外し、弾圧しただけだったのである。強い相手にケンカを売ったようなものだ。連邦政府の
高官はもっと歴史に学ぶべきであった。
第一次世界大戦はドイツの敗戦に終わった。1918年11月11日、ドイツ側の代表がパリ郊外のコンビエーニュの森で
休戦条約に調印した時、イギリス兵もフランス兵も、またこの2国とともに参戦していたアメリカ兵も、捕虜を除いてただのひ
とりもドイツ国内にいなかった。だから後方のドイツ国民は、多くの戦死者を出してはいたが、ひとりの敵を見ることもなく、敗
戦を迎えてしまった
のである。そのうえ、ドイツの敗戦には11月3日にキール軍港での水兵の叛乱に端を発したドイツ独立
社会民主党によるドイツ11月革命が大きく影響していた。革命はドイツ全土に飛び火し、9日には首都ベルリンでも労働
者が共産スパルタクス団の指導で立ち上がった。これを見た皇帝ヴィルヘルム二世はオランダに亡命。ここにドイツ第二帝政
は崩壊した。皇帝亡命後、政権を押し付けられた社会民主党のフリードリヒ・エーベルトは革命の激しさにこのままではドイ
ツは共産化すると判断。過激な共産スパルタクス団に対しドイツを共和国とすることで妥協を図った。ドイツは共和国として
敗戦を迎えたのである。ドイツの共和国化は軍部も承認した上でのことだった。しかし軍部は戦後、敗戦は革命勢力の裏
切りに責任があると社会民主党を非難した。戦場での打ち続く敗戦を知らなかったドイツ国民はこの言葉を信じ、戦争に
負けたのは敵に敗れたからではなく、”背後からの一突き”のお陰だと思い込むようになった。こうして、休戦条約は失敗だっ
たと考えるドイツ人を待っていたのは、イギリスとフランスが用意したベルサイユ条約だった。1919年1月にフランス外務省
で行われたパリ平和会議は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本で構成されており、敗戦国ドイツは含まれていなか
った。この会議でドイツの処理は、対独懲罰主義者のフランス首相ジョルジュ・クレマンソーの主導のもとで行われた。ここで
決まったベルサイユ条約の内容は231条から成っていたが、戦争の全責任はドイツにあると断じ、したがってドイツの海外
植民地はすべてを没収され、本国領土の一部はフランス、ベルギー、ポーランドに割譲され、軍備は10万人以下に制限
され、さらに最終的には1320億マルクという天文学的な賠償金の支払いを要求された。ドイツはこの条約の調印を強制
され、もっと穏やかな内容を期待していたドイツ人は戦後のベルサイユ体制を”命令された平和”と呼んで反発した。当時
のヨーロッパで軍備を一方的に制限されるのは主権国家でなくなるのと同義だったし、なにより凄まじい金額の賠償金はド
イツ経済を一気に悪化させた。ドイツ国にはイギリスとフランス、とくにフランスへの怨嗟の声が充満した。ところが戦勝国側に
はこのベルサイユ条約を実行させる力が残っていなかった。イギリスもフランスも国力が戦争で疲弊しきっていた。大国アメリカ
はベルサイユ条約を上院が批准せず、その後の国際連盟にも参加せず、孤立主義をとってヨーロッパ情勢への関与をやめ
てしまった。ソ連は社会主義国になっていたので、ヨーロッパから完全に締め出されていた。結局ベルサイユ条約は敗戦を認
めず、再び戦争を起こす国力を残したドイツを怒らせておいて、怒ったときに対処のできない体制を作り上げてしまったのだ。
ドイツを押さえられないのなら、ドイツを怒らせる屈辱的な条約を押しつけるべきではなかった。1年戦争の後に地球連邦政
府がジオンに対してしたことは、20世紀はじめのイギリスとフランスの失敗とほとんど同じであった。当然、結果もまた、同じよ
うに推移することになる。20世紀にはフランスへの復讐を叫ぶナチスがドイツの政権を取って20年後、再び戦争を引き起こ
した。宇宙世紀には連邦の圧制に反発するスペースノイドがジオンの旗のもとに結集し、デラーズ・フリートの”星の屑作戦”
やネオ・ジオンによる第一次・第二次のネオ・ジオン戦争により多くの人命が失われたのである。
【民族意識系】
2011.01.21: 項羽と劉邦 ~軍神の伝説
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.07.22: タイ旅行 農業と宗教vs金融と資本主義
2009.07.21: タイ旅行 究極の製造業である農業
2009.07.08: 世界一レベルの低いDerivatives Investorが生まれた理由
2009.07.07: 世界一レベルの低いDerivatives Investor
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2 
2008.06.20: 美の基準 ~民族を超えたArbitrage
2008.05.13: 語録 ~中国のお友達



ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4

戦局を一変させた戦法と兵器 「新兵器開発とその集中的投入」
ジオン軍のコロニー落とし戦略を支えていたのはモビルスーツの存在だった。モビルスーツの大量投入により、ジオン
軍は迎撃を図る地球連邦軍艦隊を一蹴したのだ。そのことは連邦軍がその後、慌ててモビルスーツの実戦配備
に乗り出したことでも明白だろう。新しい戦術が戦場の勝敗を決め、歴史さえ動かした例は多い。古くは紀元前
330年頃のアレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)の東征
である。
アレクサンドロス三世は、マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東に隣接していたアケメネス朝ペルシア帝国に攻撃
をかけた。連合軍はペルシア軍より数の上で劣勢であったが、ことごとく勝利をおさめ、ついにペルシア帝国を紀元
前334年、滅亡させた。勝利に導いたのは、彼の父フィリッポス二世が考案した“ファランクス”と呼ばれる重装
歩兵部隊
だった。彼らは4メートル弱の長槍で武装し、縦横16メートルの陣形を組んでいた。この計256名の
部隊は、大王の命令で自在に動けるように厳しく訓練されていた。連合軍は騎兵隊と軽装歩兵部隊でペルシア
軍を”ファランクス”部隊に追い込み、次々に撃破していったのである。鉄砲を使った新戦術も歴史を変えた。
 1575年の長篠合戦で、当時、最強と謳われた武田騎馬軍団を迎え撃った織田信長は配下の鉄砲足軽隊
に3000挺の小銃(火縄銃)
を持たせていた。鉄砲を初めて使用したのは13世紀のモンゴル軍で、ヨーロッパ
遠征に使用された。ヨーロッパではベルギー人が最初に使ったと言われている。小型の大砲として開発された鉄砲
は、15世紀末には全ヨーロッパに普及し、フランスのシャルル八世は鉄騎隊や銃兵隊を編成していた。日本に小
銃が伝わったのは1543年。伝来から17年後の1560年には駿河の大名・今川義元が500挺を保有して
いた。洋の東西を問わず戦闘の帰趨(キスウ)を決する兵器として注目されていた鉄砲だったが3000挺もが
集中して使用されたのは長篠合戦が初めてであった。
 20世紀では、ドイツ軍の戦車と航空機を使った電撃戦が歴史を変えた。戦車の使用法は大別して二つある。
ひとつは歩兵部隊に配属し、歩兵戦闘に協力させるものである。この戦法は主に第一次世界大戦で用いられた。
もともと戦車は歩兵の塹壕攻撃を支援する目的で開発されたのだから、これは当然であった。しかし、戦後、ドイ
ツやイギリスの一部の軍人は、戦車は歩兵とともに分散させるのではなく、戦車のみで集中的に運用すべきだと
考えた。イギリス陸軍ではこの思想は上層部に受け入れられなかったが、ドイツではヒトラーがハインツ・グデリアン
大佐たちのこの考えに賛成し、機装師団の編成が進められた。ただし、当時のドイツはベルサイユ条約で戦車の
保有を禁じられていたから、戦車開発は秘密裏に行われ、また訓練にはソ連領内が使われた。グデリアン大佐の
戦法は、戦車に歩兵、砲兵、工兵などを協力させるやり方だ。ドイツ軍が第二次世界大戦初期にこの戦術を駆
使した。彼はさらに、戦車に航空機も協力させていた。まず、戦闘機や急降下爆撃機で敵を混乱させ、それから
戦車を中核とした機甲部隊が攻め込むのである。この場合、歩兵や砲兵は徒歩ではなく、兵員輸送トラックで移
動する。進撃速度を人間の歩く速度に合わせていたら、戦車の機動性は大幅に失われてしまう。全軍の速度を
戦車なみにすることで、敵に先制攻撃がかけられるわけだ。先制と集中。これが電撃戦の基本であった。
電撃戦がもっとも効果を発揮したのは対フランス戦においてだった。フランス軍もいずれドイツ軍が攻め込んでくること
を予想し、国境線にマジノ線と呼ばれる要塞を築いて待ちかまえていた。だがオランダ陥落の5日後にドイツ軍がな
だれ込んできたのはマジノ線ではなく、戦線の中央部からであった。ここはアルデンヌの森林地帯で、戦車は通過が
困難と考えられていたため、フランス軍の守りは薄かった。しかしドイツの戦車師団はそこを衝き、フランス軍とイギリ
ス軍の大陸派遣軍を分断。一気に大西洋沿岸まで進撃してしまった。この巧妙な作戦と電撃戦によってドイツ軍
は第一次世界大戦では4年かけても攻略できなかったフランスをわずか1ヶ月で降伏させてしまったのである。
当時、フランスは世界最強の陸軍国といわれていた。戦車の保有数もドイツより多かった。戦車自体もドイツより
優秀だった。ドイツの戦車といえば重戦車ティーガーや中戦車パンターが有名であるが、これらはいずれも1943年
以降に実戦配備されたもので、1940年当時の主力戦車は小型のⅡ号、中戦車のⅢ号であり、大戦を通じて
ドイツ軍の主力となったⅣ号でさえ、その数はまだわずかだった。Ⅱ号、Ⅲ号よりもフランスのルノーやシャールといった
戦車のほうが、ずっと高性能だったのである。しかし、フランス軍は戦車を歩兵の支援兵器として分散配備していたの
で、集中運用のドイツ軍の前に一敗地に塗れてしまったのである。ドイツ軍は、戦車の性能だけではなく、戦術で勝
利したのだ。現在でも戦車の運用法はこの電撃戦に習っている。ただし、電撃戦にも弱点はあった。機械化された
部隊は燃料を多く消費する。西欧ではガソリンスタンドも多く、燃料の補給は容易だった。また西欧は道がよく戦車、
装甲車、輸送トラックは非常に走りやすかった。だが、1941年から始まった独ソ戦ではそうはいかなかった。ソ連に
はガソリンスタンドが少なく、また、整備されていない道はわずかな道ではすぐ泥濘となった。そのため、電撃戦も西欧
ほどスムーズには行えなかったという。ジオン軍も一年戦争初頭には、モビルスーツのザクを集中して使用し、連邦軍
を圧倒したものと思われる。
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2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海




ガンダム1年戦争 ~軍隊統制 2/4

参謀の不在 独裁者は参謀をおかず、自分で大部隊を動かしたがる
地球連邦軍が予備の艦隊を早めにしかも大量に投入したことと、ジオン軍の指揮をとっていたギレン・ザビ総帥
がキシリア・ザビ少将に殺害され、指揮系統にわずかな時間ながら空白が生じたこと。この2つが、ジオン軍が
ア・バオア・クーでの戦闘に敗れた原因になったと思われる。最終防衛ラインであるア・バオア・クーを失ったジオ
ン公国は同時に戦争指導層を失ったため、急ぎ休戦に傾いた。事実上の敗戦
である。連邦の予備艦隊はと
もかく、ギレン総帥がその要職にもかかわらず、最前線で指揮をとったことがジオン公国の死命を決してしまった。
ジオン公国の最高責任者である彼は、前線での指揮を部下に任せ、自分は後方にいるべきだった。しかし、
ギレン総帥に限らず、独裁者というものは自分で何でもやらなければ気が済まないものらしい。アドルフ・ヒトラ
ーは、大隊の動きにまで口を出した
と言われる。大隊は連隊の命令で動き、連隊は師団命令を受ける。師
団は責任ある軍司令官の総帥によって行動する。ヒトラーが小部隊の作戦にまで干渉したのは、将軍たちに
不信感を抱いていたからだ。当時のドイツの将軍たちは多くはユンカーと呼ばれる貴族の出身だった。貴族と
は名ばかりで、自宅も抵当に入れてしまうほど困窮したものが多い、どちらかというと下級士族に近い存在だっ
たようだが、貴族は貴族だった。一方、ヒトラーといえば第一次世界大戦に従軍したが位は将校ではなく、伍
長だった。その彼がドイツ国防軍最高司令官に就任したため、貴族出身の将軍たちは平民出の元伍長に忠
誠を誓い、その命令を受けなければならなくなったのである。
 参謀を連れずに大部隊を指揮した人物には、ナポレオン・ボナパルトがいる。1789年からの革命によって国
民国家となったフランス全土から、徴兵を行うことができた彼は1800年から1813年までの14年間にのべ
261万3千人を徴兵したといわれる。1812年に行われたモスクワ遠征では45万の兵士を動員している。
ナポレオンがそれまで率いてきた部隊とは比較にならない大部隊だった。当時、一度に動ける兵力は
45,000が限界だ、と言われていた。ナポレオンはその10倍を率いていたのだから、少なくとも全軍を10に分
割しなくてならない。そこで彼は部下を独立した師団に振り分けていく、師団制度を導入した。そこまでは正しか
ったが、ナポレオンは自身を天才だと考えていたので、参謀に頼ろうとはしなかった。命令を発しても、その命令
は師団には届くものの、意図までは伝わらない。指揮官には自分の血縁者を実力を無視して採用していたせ
いもあり、統帥がまるでうまくいかず、モスクワに入城するまでに4分の3以上の兵士が逃亡してしまっていた。
これにロシア軍の焦土戦術が加わりナポレオンは大敗北を喫することになったのである。
後方業務
ホワイトベースはマチルダ・アジャン少尉が指揮するミデア輸送隊から2度の補給を受けていた。補給こそ軍隊の
生命線であり、実戦部隊など前線にいて弾を撃つだけだ、と極論する人さえいるほどだ。この補給を指揮する能
力に優れていたのが、アレクサンドロス大王
だった。彼のマケドニア・ギリシャ連合軍がペルシャ帝国軍に勝てたの
は、補給組織が優秀だったからだと言われている。国王が傭兵を雇って戦争していた17世紀ヨーロッパでは、補
給は本当に大事であった。食料の補給がうまくいかず、待遇が悪くなると、傭兵たちはあっさり脱走してしまうから
である。そのため、当時の将軍たちは食糧補給に神経を使った。新たな土地を占領するたびに、そこに貯蔵庫を
作っていかなければならなかった。
スパイ
ジオン軍は連邦軍のエルラン中将を買収してスパイとしたり、ベルファスト基地近くに住む少女ミハル・ラトキエを雇って
情報を集めさせてりしていた。サイド6(中立区域)にも市民を装ったスパイを配置していたし、アレックスの破壊を目指
したサイクロプス隊も一種のスパイ部隊といえるだろう。連邦軍のほうも、レビル大将の手元にジオン軍の新型モビルスー
ツの設計図が大量にあったことから考えて当然、諜報活動を行っていたものと思われる。
戦争にスパイはつきものだ。その歴史は古い。なにしろ『旧約聖書』の「出エジプト記」や『孫子』にその記述があるくらいで
ある。日本では隠密として南北朝時代あたりからスパイが活躍していた。戦国時代には、その活動は活発で、とくに甲賀
、伊賀の地侍は有名だ。伊賀の地侍は、本能寺の変の際に境から領国に脱出した徳川家康の身辺警護でその功を
認められ、江戸時代に入ると幕府に仕えた。ただし、その地位は極めて低かった。
欧米でスパイを組織的に使うようになったのは、ナポレオン戦争や南北戦争のあたりからである。日露戦争では、日本陸
軍の明石元二郎
大佐がスウェーデンのストックホルムで、情報収集や後方攪乱活動を行っていた。スパイの組織的運用
が確立したのは第一次世界大戦だといわれる。オランダ出身のドイツ軍のスパイ、マタ・ハリが有名だ。彼女はオランダ軍
将校の妻だったが、パリでインド舞踊のダンサーとして頭角を現した。その裏では詐欺師モンテサック侯爵(自称)とともに
諜報活動を行っていたが逮捕され、銃殺された。第二次世界大戦が近づくにつれて、各国のスパイ活動はその規模が大
きくなっていった。1941年の秋、当時の近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実(ほつみ)とドイツの新聞記者リヒャルト・
ゾルゲ
がソ連のスパイとして逮捕され、処刑された。
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2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
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2009.03.27: 私の株式営業 ~Fiat Moneyの裏打ち
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2008.09.24: 俺の欲しいもの
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ガンダム1年戦争 ~国家体制 1/4

戦争当事国の政治体制 
国家の正式名称は政治体制を表しているのが普通だが…
地球連邦は連邦制だし、ジオン公国は公王制ということになる。連邦制とは統一された主権の下、中央
政府と地方政府が権限を分けて国民国家を形成している制度
を言う。アメリカ、オーストリア、カナダ、ス
イスなど、多く存在する。ほとんどの場合、外交、軍事、通商、通貨、通信、交通など統一した政策を必
要とするものを連邦政府が担任し、治安、教育、福祉などは地方政府の分担となっている。地球連邦の
場合は、地球と各スペースコロニーで連邦を形成していたのだろう。地球も、いくつかの地域に区分されてい
たものと思われる。しかし、中央と地方の力関係がどのようなものであったのかはわからないし、元首の存在
も不明だ。元首がただ『ガンダム』の劇中に登場しなかっただけなのか、あるいは、はじめからいないのかは、
明らかにされていないのだ。一方のジオン公国は、その名の通り公国制を敷く。公国(principality)
とは公(duke)の称号を持つ人間が統治する小国
だ。”公”というのは大公や公爵のことで、国王に比
べると格は一段下がる。また、公国は完全な独立国ではない。たとえば実際にある公国・モナコは、一応は
独立国で元首はいるものの、関税権はフランスが握っている。元首の存在さえ不明確だった地球連邦にくら
べ、ジオン公国のほうははっきりしている。元首は公王だ。その下に首相がいる。首相が行政全般に対して責
任を負っていると考えていいだろう。首相には国会で選出される場合と、元首によって任命される場合があ
るが、ジオン公国ではおそらく後者だろう。反民主主義を標榜するザビ家が、多数決で首相を選ぶようなこと
を許すとは思われないからだ。もっともどのような手段で首相が選ばれようが、ジオン公国では首相はもちろ
ん、公王でさえ有名無実の存在だ。政治、軍事はギレン・ザビによって動かされている。ギレンの正式な肩書
は大将だが、彼が劇中でそう呼ばれることはほとんどなく、もっぱら総帥と呼ばれていた。広辞苑などを引くと
総帥とは”全軍を指揮統率する人。総大将。最高指揮官”の意味だ。組織内の正式な職名ではなく、事
実上の支配者を指す言葉である。
戦争の大義名分 ジオンの独裁者はいかにして国民を戦争にかりたてたか
ジオン公国はサイド3がジオン・ズム・ダイクンの主張したジオニズムを実践すべく共和制を敷いた国家だ。
オニズムとは、生命発祥の地である地球を聖域とし、、環境汚染の進行を停止させるため、すべての人類
は宇宙に居住すべきだというエレズムと、すべてのスペースコロニー住民は自治権を保持すべきだというコロニ
ズム(サイドズムともいわれる)を合わせた思想
である。この思想は多くのスペースノイドの共感を呼んだが、
ジオン・ズムはそのためには独裁が必要であるなどとは一言も言っていない。結局、ギレン総帥はジオニズム
を自分に都合のいいように解釈し、変質させたわけだ。ちょうどマルクス主義が、レーニン、スターリンを通じて
共産党による一党独裁体制に変化していったのに似ている。戦争時には自分たちの民族の優秀性を主張
し、それを持って戦争を正当化する場合が少なくない。第二次世界大戦時の枢軸国、日本、ドイツ、イタ
リアがいい例だ。また旧ユーゴスラビアのセルビア人の一部では大スラブ主義が唱えられ、悲惨な内戦をもたら
した。
ジオン公国における民族主義とは?
スペースコロニーが地球からの移民で成立しているからだ。民族主義を主張する場合、その土地は古くからそ
の”民族”が定住しているものだが、スペースコロニーでそんなことはあり得ない。サイド3には同じ民族がそっ
くり移住したのだろうか? とするとほかのサイドでも民族ごとに移住が行われたのだろうか。ジオン国民は一つ
の民族なのか。民族は言語、文化、宗教を共有しているもの
だが、このうち言語はそのことを判定するための
参考にならない。地球圏の人間は、みな同じ言葉を話しているからだ。それは英語と思われるが実際のところ
は不明だ。また文化についてもはっきりと書かれていない。ただ移住させるなら一定の地域の人間を同じコロニ
ーに移してしまう方が効率がいいだろう。明治維新から大正期にかけての北海道開拓移民のようなものだ。
するとやはりジオン国民には民族的同質性が存在していたのである。さらに宇宙移民が多くの場合、個人の
意思とは無関係に行われたであろうことも忘れてはなるまい。常識的に考えてスペースコロニーなんぞに住み
たいと思うわけがない。住み慣れた土地を離れるのだし、行先は宇宙だ。些細な事故からコロニーの住民が
全滅してしまうのではないか、という不安も、当然あったはずである。一方、地球に残った人間もいた。
行くか残るかを分けるものは、おそらくカネか権力へのコネであったに違いない。コロニーには地球に残った人間
への怨嗟の声が満ちていただろうし、移住させられることに劣等感も感じただろう。そのような感情がジオニズム
を受け入れる土壌になったろうし、またギレン総帥の歪んだ思想をも支持してしまったのではないか。
【フィクション系読み物】
2010.08.23: 燃えよ剣
2010.03.12: 探偵ガリレオ 東野圭吾
2009.11.23: 沈まぬ太陽
2009.10.16: 華麗なる投資一族 明るい家族計画
2009.10.09: 華麗なる一族 困った女と良い女
2008.08.27: 3人の文学少女
2008.08.20: 久しぶりに小説を
2008.05.08: サロメ
2008.05.07: 魂を賭けよう
2008.05.05: 懐かしの民明書房刊


史上最大のボロ儲け ~ポールソンという男 1/6

ポールソンは1980年ハーバードビジネススクールをきわめて優秀な成績で卒業した(クラスの成績上位5%に入っ
ていた。そのころ学内で人材募集を行っていた企業のうち、もっとも高額の初任給を提供していたのはコンサルティン
グ会社
だった。そのためポールソンはコンサルティング会社に関心を寄せた。ウォール街は当時まだ下げ相場に苦しん
でいたのだ。こうしてポールソンはボストン・コンサルティング・グループに就職した。一流ビジネススクールの卒業生しか
雇わない地元の有名企業である。就職した手の頃は、上級コンサルタントであるジェフリー・リバートの助手として、ワ
シントン・ポスト社の不動産投資に関するアドバイスを担当した。ポールソンは当初、不動産投資に賛成していた。
ビーチハーストのポールソンの家の価値が、ここ20年にわたり上昇していたからだ。住宅は良い投資先に思えた。リバ
ートはポールソンと同い年だった。そればかりか、生粋のニューヨーカーである点も、ハーバード・ビジネススクールの卒業
生である点もポールソンと同じだった。リバートはポールソンに住宅価格のチャートを見せた。それによれば確かに住宅
価格は過去数十年にわたり驚くほどの上昇を示している。しかしリバートはその期間のインフレ率を考慮する必要があ
ると指摘した。インフレ率を考慮した住宅価格の年間上昇率はわずか1.5%に過ぎない。つまり再調達原価以下で
購入できる安い住宅やビルでなければ、不動産投資はあまり魅力的とはいえない
ということだ。
1984年にベアー・スターンズに入社した時、ポールソンはもはや28歳だった。しかし合併買収取引のために週に100
時間働き、瞬く間に出世していった。銀行家というものはたいてい自分の取引の腕前を自慢した。自分には収益の高い
金融取引を見抜く力があることを顧客に見せびらかそうとした
。しかしポールソンは、芸術や演劇の話題からビジネスの話
を始めるなど、もっと控えめな接し方をした。部下が失敗をした時に遠慮なく厳しい言葉をかけるなど、ぶっきらぼうな一面
もあったが、ほとんどの同僚が、快活で信頼できる人物だと好印象を抱いていた。「80年代はM&A一色で銀行家たちは
みんなうぬぼれていたよ。でもジョンが自分のことを過大評価することはなかった。現実的な男だったんだ。」ベアーの後輩ロ
バート・ハーテヴェルトの言葉である。
 ポールソンはニューヨークの華やかな社交界に馴染むような人間には見えなかった。気さくで機知に富んでいたが、ある種
の堅苦しさやよそよそしあがあり、夜の街に繰り出す時もネクタイはなくてもジャケットはたいてい着用していた。また、会話が
つまらなくなると話の途中で帰ってしまい、連れを当惑させることもあった
。マンハッタンのしゃれたソーホー地区にロフトを借り
そこで数百人の友人や知人を招いてパーティを開くようになった。クリスマス・ツリーの下に招待客へのささやかなプレゼントを
置いておいたという。夜には友人たちと遅いディナーを満喫した後、人気ナイトクラブへ出かけることが多くなった。時には、一
晩のうちにアップタウンのクラブからダウンタウンのナイトスポットまで回ることもあったらしい。しかし、ポールソンが実際住んでい
たところとなると話は別である。ほかの人なら嫌がりそうなアパート
だったり、奇妙な偽木やぼろぼろの家具のついた驚くほどあ
りふれたアパートだったりする場合が多かった。あるアパートなどは、靴のディスカウントストアの上にあった。ベアースターンズで
ポールソンはデートに失敗した話など、自虐的な話をして後輩を喜ばせていた。あくまで自分を格好良く見せようとするほか
の銀行家とはきわめて対照的
である。ポールソンぐらいの銀行家ともなればオフィスの前に車を待たせておくのが普通だったが
ポールソンはいつもバスや地下鉄を利用していた。後輩のハーテヴェルトとタクシーに相乗りすることもあった。
やがてポールソンは、ベアー・スターンズで働くことに苛立ちを感じるようになった。彼はほとんど毎日、夜遅くまで仕事をして
いた。ところが、それだけの努力をして行っている取引に対し、自分の取り分を主張する同僚があまりに多いため、ポールソン
の取り分が少なくなってしまうのだ。ポールソンは政治的な駆け引きが苦手
であり、賞与を決定する会社幹部に取り入ろうと
いう気にもなれなかった。たとえば、ポールソンが一役買った取引により3600万ドルの利益を上げたことがあった。グラス&カ
ンパニーという投資会社とともに、食品・保険会社アンダーソン・クレイトン・カンパニーを6億7900万ドルで買収した取引で
ある。しかし3600万ドルの利益といっても、ベアー・スターンズのような大企業にはわずかな額に過ぎず、その利益は何百人
もの社員に分配されてしまった。しかし、ポールソンが聞いた話によると、買収事業に着手したばかりのグラス&カンパニーでは
同じ3600万ドルを5人の社員で分け合ったという。ポールソンは大企業では稼げる額に限りがあることを実感した。そもそも
ベアー・スターンズの場合、収益の大半を占めているのは、取引による利益ではなく、顧客から受け取る手数料なのだ。しかし
ポールソンが望んでいたのは、取引による莫大な利益だった。
ポールソンが会場に現れても、顔を向けるものはほとんどいない。それでもいつの間にか美しい女性たちに囲まれていることが
多かった。これといって特徴の無い容姿をしていたが、知的で頭の回転が良かった。また聞き上手でいつもいたずらっぽい笑み
を浮かべながら人の話を聞いていた。1980年代後半というと、うぬぼれの強い生意気な投資家や銀行家がニューヨークの
社交界を支配していた時代である。それなのにポールソンは自分の財産や経歴をひけらかそうとせず、どこか取っ付きやすい
ところがあった。そのため友人たちも、気兼ねなくアドバイスを求めたり、ちょっとした借金を申し出たりすることができた。デート
のために愛車のジャガーを貸してもらったこともあるようだ。「ジョンは実に面白い魅力的な男だった。女性はみんなジョンのこと
が好きだったんじゃないかな。盛大なパーティーを開き、最高のレストランやクラブに連れて行ってくれることを女の子たちはよく
知っていたよ」 ポールソンは金目当てに集まってくる人には警戒を怠らなかった。逆にレストランやクラブの勘定を進んで払おう
とする女性や友人を選んだ。
>女の嗅覚・・・怖いわぁ・・・
【金融工学理論の実践】
2011.01.31: 最強ヘッジファンド LTCMの興亡 ~崩壊への序章
2010.10.25: 三田氏を斬る ~金融工学の理解と解釈
2010.09.15: 株メール Q7.株価のマルコフ性
2010.07.01: 数学を使わないデリバティブ講座 ~リスク中立
2010.01.25: 50% Knock-In PutのPremiumって実現できるの?@最終章 LVの要請
2009.11.10: 為替オプションの基本勝ちパターン? プッ
2009.10.08: 亀井さん日経平均先物禁止
2009.10.06: Black-Scholesは間違っている2
2009.09.29: Black-Scholesは間違っている
2009.08.05: 金利をSalesに教える
2009.06.16: VAR SWAPのGamma+VanillaのGammaでGamma Neutralになるか?
2009.06.02: Multi Underlying OptionのGamma Trading
2009.05.26: Crossed GammaとDeltaの定義
2008.10.13: 株と通貨の相関
2008.09.21: CDSはCorrelation Derivatives
2008.01.21: 悲しい時は、中立測度変換
2007.12.26: Global Basket Correlation


ミサイル防衛 大いなる幻想

Ballistic Missile Defense 弾道ミサイル防衛
弾道ミサイルに、大陸間弾道ミサイル(ICBM)がある。多くは核弾頭を搭載する射程が5500km以上の弾道ミサイルで
地上から発射された後、上昇しながらブースター・ロケット(通常三段階)を切り離し、5分ほどで燃料を燃やし尽くす。大気圏
外に飛び出し、真空中を秒速7km(時速25,000km)に近い高スピードで飛行する。地球を4分の1周する距離を30分
以内の時間で攻撃できる。大気圏外で弾道を切り離す。弾頭が大気圏に再突入した段階では秒速900m(時速3200km)
以上のスピードであり、再突入後、数十秒で爆発に至る。
弾道ミサイルの攻撃から守る軍事手段としては、発射前に発射台や制御手段を破壊する方法がある。しかし、隠された発射シス
テムや予告のない発射を想定するとこの方法には限界があり、結局、向かってくるミサイルに対するに対する「盾」を開発するしか
ない。ミサイルを撃ち落す兵器としては、迎撃ミサイル(インターセプターと呼ばれる)とレーザー兵器が開発されている。大気圏
外を飛ぶICBMの速度は秒速7kmに達するから、ICBMの迎撃には秒速7-8kmの迎撃ミサイルが開発される

レーザーBMDシステム、米国は空中配備レーザー(ABL)と宇宙配備レーザー(SBL)を開発している。数機のボーイング747
に高出力化学レーザーを搭載して、高度約13,000mでパトロールさせる。衛星が、敵ミサイルの発射を知らせると、最寄りのAB
L機が急行して敵ミサイルを自らのセンサーで捕捉し、レーザー・ビーム照射によって破壊する。宇宙配備レーザーは、レーザー兵器
を地球周回軌道に乗せる。そして宇宙からブースト段階の敵ミサイルを破壊する。敵ミサイルの追跡、レーザー・ビーム照射の照準
合わせなどの目的に、それぞれ別のレーザーを使用しなければならず、複雑な相互調整からくる諸問題がある。ましてや、巨大で微
妙な装置を宇宙に打ち上げ、大電力を維持するSBLに至ってはまだ初期の研究開発段階であり、技術的な問題はまったく見通
しがたっていない。
ロシアからの視座
過去10年間、私たちは核兵器拡散防止の努力が、全く停滞した状況を見てきた。ロシアと合衆国の両大統領が署名したにも
かかわらず、STARTⅡはいくつかの理由で成功しなかった。その主な理由は、NATOがロシア国境まで拡大する計画を実現を
目指し、ソ連消滅後に唯一の超大国となった米国がNATOの協力を得てコソボで激しい爆撃を行ったため、共産党の支配的な
ロシア議会が同条約の批准を望まなかったからである。包括的核実験禁止条約(CTBT)、核不拡散条約(NPT)はまったく
機能しておらず、人類は新たな核軍備の時代へ急速に向かっている。
ロシア側から見ると今日の主な障害は核兵器問題に関する米国の立場である。STARTⅡやCTBTの付随文書を米議会上
院が批准しそこなったこと、米ロ両国の戦略核軍備を1500発へ削減するというプーチン氏の提案をクリントン前大統領が支持
しなかったこと、1972年のABM条約(対弾道ミサイル制限条約)についていっているのではない。もし米国がNMD(国土ミサ
イル防衛)の開発を続行すれば、ロシアはSTARTⅡ、CTBTから脱退する
だろう。確かにクリントン前大統領はNMDシステム
配備の延期に合意した。しかしNMDほど米国で知られておらず、ロシアや世界のほかの地域ではさらに知られていない他の対ミ
サイルシステムについて、彼は何も語らなかった。私は紛争地域の米軍を守ることを目的とする、戦域ミサイル防衛(TMD)につ
いて言っているのである。戦域防衛計画、戦域高層地域防衛(THAAD)、改良型パトリオット(PAC-3)、海軍戦域防衛
及び、海軍地域防衛はNMDにとって代わる候補になる可能性がある
。TMDとNMDの区別はあいまいである。
中国の懸念
NMDは中国の安全を害する
NMD計画によれば、米国は配備の第一段階において100発の迎撃体をアラスカ州に配備する。4分の1の迎撃率をもつとすれ
ば、米国は最大で同国に向かってくる25発のミサイルを撃墜できる。これは米国を標的として長距離ミサイルを開発しているとい
われる「問題国家」の脅威に対抗する能力としては十分以上のものである。中国側から見ると、米国が「問題国家」のみを念頭に
おいて600億~1000億ドルを支出しているという説明は納得できないのである。そのような問題国家が保有する弾道ミサイルに
よる大陸間攻撃能力は、いまだ存在しない
。核保有を宣言した5カ国を除けば、イスラエル、サウジアラビア、インド、パキスタン、
朝鮮民主主義人民共和国そしてイランのみが現在射程距離1000km以上の中距離ミサイルを保有していると考えられている。
これらのうち、インド、パキスタン、北朝鮮、イランの4か国は、射程距離3000km以上の中距離ミサイル開発のために進行中の
計画を持っているかもしれない。しかし、そのいずれかが、ここ10年かそこらで大陸間弾道ミサイル能力を取得することはきわめて考
えにくい。現在のところ、ロシアと中国のみが、ICBMに積載した核弾頭で米国を攻撃する能力を有している
中国は自国の核能力を公に透明化していないけれども、13,000kmの射程距離を有し米国に到達できる能力を持つCSS-
4ICBM戦力は、西側の戦略問題の分析家によっておよそ20発ほど
であると考えられている。ロシアが数千の戦略核兵器を自由
に使用できることを考慮すれば、米国が思い描いているNMDはロシアの全面核攻撃を阻止することはできない。それゆえに中国政
府は米国のNMDは中国の戦略抑止力を事実上無効にすることを意図している、との見方をとらざるを得ない。
大量破壊兵器のない中東
1996年、エジプト空軍のムハマド・エルシャハト将軍は記者会見を行い、ミサイル防衛システムを建設するためにエジプト政府が
講じるさまざまな措置に言及した。彼はイラクによって発射された弾道ミサイルの多くが米国のパトリオット・システムによって迎撃
させた1991年の湾岸戦争から得た教訓について語った。また。エジプトが購入、開発するミサイルとミサイル防衛システム
をいくつか列挙した。結果として軍備競争が始まった。それはさらにエスカレートするだろう。なぜなら、ミサイルと対ミサイ
ル・システムを使った米・イスラエル共同軍事演習が2001年2月19日にイスラエルのナカブ砂漠で行われたからである。
中東はすでに非核兵器地帯が設立された他の地域とは違う。既存の非核地帯では地域全てにおいて核兵器は存在しな
かったが中東の一国であるイスラエルは、かなりお保有核兵器とミサイル防衛システムを取得している。イスラエルの兵器
によって狙われている死の脅威に対抗するため、この地域の他の国は、化学兵器または生物兵器とその運搬手段を取得
しようとするかもしれない。
1940年代、マーシャル諸島民は、米国による一連の核実験のためにビキニ及びエニウェトク環礁の住まいから退去させられた。マ
ーシャル諸島民は1946年から1958年の間に67回行われた米国の核実験から生じた放射能の遺産と供に生活している。
1999年10月、クワジャリン環礁でミサイル防衛システムの実験を行った。カリフォルニア州で発射されたミサイルから射出された
一発の模擬核弾頭は、クワジャリン環礁から発射された迎撃ミサイルによって空中で撃墜された。つづいて2000年1月と7月に
行われた2度の実験では、標的に当たらなかった。ペンタゴンはクワジャリンであと16回のNMD実験を続行するつもりであり、各実
験に1億ドルがかかるであろう。今日、クワジャリン環礁開発局と土地所有者に支払われる借地賃料は、毎年1300万ドルに及
んでいる。クワジャリンで雇用されている1277人のマーシャル諸島民のうち、1060人以上はレイセオン・コーポレーションが経営
するレンジ・システムズ・エンジニアリングとインテグレイテッド・レンジ・エンジニアリングで働いている

NMDの支持者は、敵は潜在していると言う。米国の納税者の支持を生み出すためには、どこかに敵の姿を描写しなければならない
からである。フランシス・フィッツジェラルドは、著書『青空への脱出』の中でNMDは「スターウォーズ」として知られた1980年代の評判
の悪い戦略防衛構想(SDI)の後継者であると指摘している。それは実現不可能な一国的安全を求める米国のイデオロギー的
な極右派によって推進されている。NMDの口実とされるちっぽけな北朝鮮の亡霊は、本当の目的のためのごまかしに過ぎない。
本当の目的は宇宙兵器の開発と21世紀の宇宙志向の戦争の準備であり、あらゆる起こりうる紛争の戦域における米国の全面
的な軍事的優位の確立である。これらのすべてにおいて、すでに最高を記録している軍産複合体の収益は莫大なものになろう。

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【軍事・軍隊・国防】
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2010.11.02: 米国、サウジに600億ドルの兵器売却へ
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2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね 
2009.11.05: 核拡散 ~新時代の核兵器のあり方
2009.05.19: 俺の欲しい車 
2009.03.27: 私の株式営業 ~Fiat Moneyの裏打ち 
2008.12.09: アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図2


アジア発展の構図 ~出遅れた国々 4/4

インドネシア
インドネシアは、タイとマレーシアと異なり、過去の負債を引きずり続けていた。貿易収支は黒字であったが、経済収支は債
務の利払いから常に赤字
であり、輸出が停滞すると経済危機が発生しやすい構造であった。対外債務は95年に1000
億ドルを上回り、DSR(デッドサービス比率、毎年の返済額の輸出稼得額に対する比率であり、20%が危機ラインと言
われている)は30.9%に達した。このため、タイで発生した為替危機がインドネシアに波及したが、その経済に及ぼした影
響はよりひどい結果になった。1ドル=2400ルピアをドルペック制で維持してきた為替レートは一気に10000ルピアを
上回る水準に切り下がり、輸入財価格の暴騰が加工輸出産業の輸出停滞と輸入消費財の価格暴騰、対外借入依存
が高い民間企業の経営を圧迫した。
フィリピン
GDPの産業別構成から、すでに1960年に製造業の比率が高く、アジアの中で早くから工業化が発展していた。しかし
60~70年はほぼ同水準、70~80年は拡大、80~90年は停滞的に推移し、95年の製造業の比率は60年の水準
でしかなかった。フィリピンではNIESやASEANで生じた製造業が経済を牽引する力に乏しかったことを示している。GDP
成長率は80年代に高成長を達成した他のASEANとまったく異なる状況を示し、特に製造業が低成長であり、80年代
にマイナス成長率を記録した中南米諸国に近い状況であった。
 上位50社の17外資企業のうちアメリカ11、日本4、イギリス1、スイス1で旧宗主国アメリカ企業が影響力を保持して
いる。アメリカ人はフィリピン独立後も米比通商協定により1974までフィリピン人と同等の権利が認められ、他の外資企業
より有利であり、ゆえに直接投資に占めるアメリカの比重が大きい。フィリピン民間資本はアメリカ企業の優位性と国内志向
的性格から外資流入による競争激化を望まず
、したがって外資は輸出加工区や保税工場制度を利用する輸出型か合弁
が中心で、投資環境は他のASEANより悪い状態であった。
社会主義路線から自由化への転換 中国とインド
アジアの2大国である中国とインドは人口稠密、貧困という特徴を有し、ゆえにこれがアジアの典型であると長く世界の人々
に認識されてきた。第二次大戦前は先進資本主義国に翻弄され、インドはイギリスの植民地、中国は列強の権力下に置
かれていた。それゆえ両国は戦後において資本主義経済から自由経済を隔離して発展することを目指した。しかし多くの人
口を抱え、国内需要に依存した工業化が可能とみなされてきた両国
であったが、NIESのような経済成果を達成できず、
むしろ多くの開発途上国と同様に保護主義下で育成した製造業の非効率等が問題となってきた。そのため中国は1970年
代末、インドは90年代以降に経済を自由化させる路線へと政策転換
した。
 中国では集団農業制を個人の生産請負制に切り替えるという改革が1979年から始まり、この市場メカニズムの部分的な
導入が次第に今日言われる改革・開放政策へとつながった。集団農業下では、農業余剰を重工業部門へ移転させるため、
国家による農産物買付の低価格設定と強制買付制度が実施された。また労働報酬体系は農民の収穫貢献度という曖昧
な基準によって労働量に関係なく集団内で平等に分配されるという傾向があった。短期的にはイデオロギーによる鼓舞によって
農民を生産増加に向かわせることができたが、次第に生産拡大のインセンティブは失われていった。これが79年、農産物買付
価格の引き上げ、請負制が導入され、生産拡大と生産性の改善がもたらされた。農業余剰を投入して社会主義経済建設
のために最も重視された工業は重化学部門
であり、量的拡大が質的改善に結びつかず、農業と同様に非効率な構造が形成
された。一方で軽工業部門は軽視され、工業部門は国民の欲求を満たすことができなかった。
 インドの工業化は社会主義国のそれに類似していた。資本財部門の優先投資により限界貯蓄率を高め、国民所得の増加
を目指した。しかしこれが機能するには、資本財産業を優先するとともに、生産増加による所得効果が貯蓄に向かい、貯蓄が
投資されて増加した資本財生産物を投入しなければならない。さらに資本財が投資され、資本財生産増加→所得増加→貯
蓄増加→投資増加→資本財生産増加という循環が想定
された。これを実行するために、循環の漏れが生じないように厳格な
経済規制
が導入された。規制政策は、公共部門と民間部門の分野規制、産業認可規制、輸入規制、投資規制、外資規
制、価格規制等の細部に及び、インド工業化の中心政策となった。しかし規制政策はは、認可の遅延、認可に伴う汚職を
もたらし、これが一方では生産停滞と非効率を、他方では独占をもたらした。社会主義的工業化政策によってインドが目指し
た経済発展とその平等な配分は、経済停滞と不平等の拡大をもたらした。

アジア 発展の構図 アジア 発展の構図
梶原 弘和

東洋経済新報社 1999-04
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アジア発展の構図 ~ASEANの発展 3/4

東南アジア工業化の牽引者 民族資本・華僑・外資
シンガポール
マラヤ連邦としてマレーシアと合同して独立した当初は、国内市場向け生産を目的とした輸入代替工業化を計画していた。
しかし65年の分離独立後から、マレーシア市場に期待することが不可能となり、国内市場や有力の企業家、資本家を欠く
という初期条件から、シンガポールは市場だけでなく資本も外国を依存する輸出志向工業化を採用
した。外資は特定部門
に集中的に流入し、70年代は石油精製が第一位であり、製造業生産の36%、付加価値の17.5%、輸出の約20%を
占めた。、あた毎年の製造業准投資額のうち75~80%が外資によって行われた。シンガポールは国全体がいわば輸出加工
区のようなものであり、開発途上国では少ない100%外資企業を認めた国であった。
 外資の圧倒的な経済力に対して、一定の防衛手段として機能を果たしたのが公営企業である。売上上位20位のうち外
資14社、公営4社、地場2社、上位100社では外資67社、公営13社、地場20社で、外資の比率が高い一方で公
営が一定の比重を占めている。公営企業の主要業種は航空事業、造船、石油精製、金融、海運、不動産、観光等
に及
び、その企業数は600社を上回る。公営企業の非効率から経済全体を非効率化させるという事例が多いが、シンガポール
の公営企業は効率的で、しかも政府政策を先取りして事業を展開しており、華僑・華人が経営する民間企業といっても過
言ではない。地場民間企業の製造業分野での比重は低い。金融やサービス部門では有力な企業グループが形成されてい
るが、製造業では他のASEAN諸国に比較して企業グループの数が少ない。また三大華僑・華人銀行グループのOCBC、
UOB、OUBは有名であるが、ビールやソフトドリンクの飲料を除いて、製造業への投資は積極的に行っていない。
タイ
農林漁業に代わって製造業を中心とした第二次産業が、80年代中期以降増加してきた。輸出に占める製造業品のシェ
アは85年42.2%、95年72.6%も急増した。80年代前半の経済危機を乗り切るために、政府派輸出拡大を政策
の中心に据えた。外資を積極的に導入するために、輸出産業に加えて労働集約産業に対する100%外資が許可された。
また輸入関税の引き下げ、輸入規制の緩和、産業保護の削減、輸入品と国産品の差別的事業税の修正、価格統制の
緩和等によりタイが輸出を重視する政策に転換したことが明らかになった。政策転換に呼応して、日本、次いでNIES資本
のタイへの流入が増加した。60~85年でタイのBOI(投資委員会)に登録された外資の資本累計は103.59億バー
ツであった。86~94年に許可された外資は3207.29億バーツに達し、空前の投資ブームが起きた。
 しかし、タイは1997年7月に短期国際資本の攻撃から為替相場の暴落、株価の暴落から企業業績が急激に悪化し
97年のGDP成長率はマイナス0.4%低下した。バーツは70年代初期から米ドルとリンクさせていた。開発途上国は為替
取引量が少なく。短期的な外資の流出入で為替相場が大きく変動するのを避けるために有力な国際通貨と連動して変化
させる手段を採用した。IMFのいうようにこれは市場メカニズムによる価格決定ではないが、タイをはじめとして開発途上国で
は為替安定手段として有力であるとみなされた。タイでは85年以降の投資ブーム期にドルリンクが有効に作用した。当時は
円高・ドル安、したがってバーツ安であったことから輸出向け生産を目的とした外資・あるいは輸出向けに転換してきた国内
資本にとって投資インセンティブとなった
。しかし90年代中期にこれが円安・ドル高に変化すると、逆に輸出、投資にマイナス
となり、経常収支の悪化を大きくさせた。経常収支の赤字は93年に開設させたオフショア市場(BIBF)を通じて手当てで
きたことから、ドルリンクは維持されたのである。ドルリンクとオフショア市場は内外資本にとっても為替リスクなしにドル資金を得
ることができ好都合であった。ここに国際資本が目をつけ攻撃し、その資金量からついにタイはドルリンクから変動相場へと転
換したのである。
マレーシア
マレーシアのGDP構成、輸出構成、製造業付加価値構成の推移はほぼタイのそれと同じ傾向を示し、80年代中期以降
に急激に変化した。ブミプトラ政策の大きな柱として1980年代から第二次輸入代替ともいえる重化学工業化をマレー人に
限定して実施
した。これが財政を圧迫し、他方で80年代の世界経済後退から輸出減少して国際収支圧力が高まった。
そのためにさらに外資を流入させることを目指し、86年に投資奨励策と規制緩和を導入した。雇用規模350人以上の投
資は100%外資を認め、FTZに入居しなくても同じインセンティブを与え、工業調整法(一定規模以上の企業は毎年の
ライセンス取得を義務付けられ、取得に際しては種族構成に見合った雇用構成、株式保有比率として30%はマレー人で
なければならない)対象企業の資本金250万リンギ(従来は100万)、従業員75人(従来は50人)に引き上げたこと
から一部の大手企業を除いて多くの企業はこの規定の対象外となった。98年9月、為替管理として、海外市場でのリンギ
取引の禁止、外国人勘定間の資金移動は中銀の承認が必要、輸出入決済は外貨建て、非居住者のリンギ持ち出し・
持ち込みは1000リングを限度とする。居住者による外貨持ち出しは10,000リンギ相当以上は中銀の許可を必要とす
る、を実施した。また貿易にかかわる為替交換、海外からの直接投資による利子、配当の本国送金は認められたが、リンギ
建て資産の売却代金は1年間据え置いた後に外貨への交換が認められることになり、事実上海外からの短期投資はでき
なくなった。
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アジア発展の構図 ~NIESの発展 2/4

香港の発展とアジアへのインパクト
香港で始まった輸出志向工業化は、当初から政策的な裏づけがあったわけではない。香港が植民地であり、レッセフェール
(自由放任)のもとにあったからである
。香港は自由貿易港としてイギリスの支配の下で第二次大戦前から貿易・金融を
中心としたサービス産業が発展していたが、独立した政治体制を有しておらず、政策支援によって工業化を推進することは
なかった。香港は市場としては狭く、工業化にとってはマイナスであった。しかし商品や原種資金の調達も容易であるという
特徴を有していた。第二次大戦後はこれに加えて中国大陸から多数の難民が流入し、多くの未熟練労働力を抱えること
になった。大陸からの難民は労働者だけでなく、上海で発展していた紡績業を行っていた企業家も含まれていた。これらが
結びつき、香港で製造業品の加工輸出が展開される契機が生まれた。
経済規模の小さな香港の急速な発展は、生産要素価格を高騰させ、それを吸収するために経済構造を高度化させなけれ
ばならなくなった。特に労働供給が限定されていることから賃金上昇が著しかった。1980年代後半の香港ドルの対米ドル
に対する為替レート上昇によって拍車がかかり、香港ドルは85-91年間に約20%きりあがった。したがって企業は対応と
ともに生産拠点を香港外に求めるようになった。特に80年代の中国における改革・開放政策の本格化に伴い、隣接する
広東省への生産拠点移転が増大
した。広東省への海外直接投資は1985~92年末までの累計で中国全体の39.8
%(契約額ベース、件数では38.7%)と圧倒的なシェアを占めた。また広東省への直接投資の契約金額の80.1%が
香港・マカオからのものである(ただし、香港を経由して投資された香港以外の国の投資がかなり含まれている)。
広東省の面積は中国の2%、人口は5.5%を占めるにすぎないが、経済的には1991年のGDP、工業生産、農業生産
は中国全体の約9%を占め、中国経済の中心となった。
アジア発展モデルとしての台湾中小企業とその将来
54年時点で実施された調査によれば、製造業企業数は39,748、このうち公営企業が52で圧倒的に民間企業の数
が多かった。しかし資本総額の約60%、生産の約50%を公営企業が占め
、民間の1企業当たり資本額は公営の1万分
の1で、民間企業の多くは食品、衣服、履物等の日用雑貨産業が中心の零細規模であった。政府は公営企業を中核と
して輸入代替工業化を推進するために、基幹産業のほとんどを公営化におくとともに、製造業だけでなく資金配分機能を有
する金融機関を公営とした。このため公営企業=大企業、民間企業=零細・中小企業という構造が50年代に形成され
たのである。しかし公営企業は94年に固定資産総額の14.4%、付加価値総額の7.1%、総従業員数の2.9%を占
めるにすぎず、製造業は民間企業の発展に支えられてきた。多くの中小企業が誕生した要因の一つが、農地改革による旧
地主階層の製造業への参入である。台湾当局は農地改革において、農地買収の補償として旧日本人所有の接収企業
である台湾セメントと台湾紙業の2大企業、ならびに台湾工こう会社、台湾農林会社の管理下にあった多数の中小企業を
地主に払い下げた。企業払い下げ価格は水増しされていたといわれているが、企業を創業時から運営するよりも既存企業を
もらい受けたほうが企業経営の経験の無い地主層が製造業へ参入しやすい方法であった。台湾では一般銀行16行のうち
13行が公営であり、民間銀行は設立時の政府支援、公営銀行の資本参加、規模が小さい等の理由から金融部門に占
める比重は小さい。台湾銀行の調査では、中小・零細企業の借入金の90%強(1976~85年平均)が短期借入で
あったと推計している。つまり担保力の弱い中小・零細企業、あるいは家計は必要資金を高金利な短期借入や未組織金
融部門から調達せざるをえない状況
であった。その平均金利は、銀行貸出金利のほぼ2倍になっている。
 中小企業が積極的に規模を拡大させる誘因を乏しくさせた理由は、労働市場からも生じた。台湾の製造業部門の労働
移動率は、業種による違いはあるが全体的に高く、1974年は製造業・年平均で入職率4.40%、退職率3.40%、
90年は各々3.07%、3.58%でこれは日本の2~3倍の水準であり、企業間でもかなり自由に移動が行われている。
台湾の賃金構造は規模格差や年齢格差が小さく、したがって有利な条件があればすぐに移動する要因となる。このため中小
企業は技術訓練等を通して労働者の質の向上を図ることが難しかったといえよう。台湾では中小企業が数多く誕生しながら
も、中小企業は日本のように大企業との系列関係の中で生成、発展したわけではない。中小企業は国内企業の関係より
も、外国商社や外国企業との国際的な関係の元で発展した。
 中小企業からなる内資企業の輸出を拡大させた要因を実施された政策面から見ると、まず為替制度の合理化を指摘する
ことができる。一般的に、輸入代替工業化を推進してきた発展途上国は、輸入代替産業が必要とする資本財や中間財を
輸入しやすくするために過大評価された為替レートを設定する傾向が強い。またこの一方で主要一次産品の輸出を維持する
ために、為替レートを設定する二重ないしは複式為替レート制をとる国も1950~60年代に多く見られた。複数または実勢
を反映しない為替制度のもとでは合理的な経済運営を行うことは難しく、価格プレミアム等から不正が蔓延するとともに要素
価格に歪み
をもたらし、経済発展の大きな障害となる。台湾では58年に外国為替貿易改善案を発表し、まず複式レート制
を二重レート制に転換した。基本レート(1ドル=24.8元)と基本レートに外国為替取組証の公定価格(11.6元)を
加えた2つの為替レートを適用した。60年には当時最大の輸出企業である台湾糖業公司に適用していた1ドル=40.03
元をすべての輸出入商品及び外貨送金レートとし、為替レートの合理的体系が整えられた。40.03元の相場水準は実質
的な為替切下げであり、輸出増加に貢献した。
>24.8と11.6の2重レート制って・・・
韓国の経済発展と財閥
 韓国は1960年代以降に急速に発展を遂げ、90年代には先進国クラブと呼称されるOECDへの加盟が実現した。自動
車や半導体等の先端産業分野でも先進国にキャッチアップしてきた韓国であったが、97年末から経済危機に遭遇し、IMF
コンディショナリー下で構造改革を余儀なくされるに至った。その要因は、急速な発展を実現してきた韓国の工業化メカニズム
そのものにある。
 韓国は台湾やASEANのように有力な一次産品を有しておらず、一次産品輸出による外貨獲得に依存した輸入代替工
業化を継続できる能力に乏しかった
。また地下資源やこれを加工する産業も日本の植民地時代から北朝鮮に集中し、南の
韓国は農業地域として位置づけられてきた。そのため日本から引き継いだ製造業部門や企業経営者も無いに等しい状況で
あった。南北で独立を達成した1950年代に輸入代替工業化を実施したが、こうした初期条件からうまく機能しなかった。
代わって60年代から輸出志向工業化が実施され、製造業品の輸出拡大を経済発展の中核とした。輸出企業には格段の
優遇を与え、政府保証で海外から取り入れた資金を公営銀行を通じて融資した。海外資金に依存して新たな分野への参
入を推し進めることになった。韓国のこうした発展メカニズムの要点は輸出にあり、輸出により海外借入資金を返済することが
でき、輸出が増加する限りにおいて経済危機に直面することはなかった。機械を中心とした先端産業は価格、品質、販売力
等の多くの要因が輸出競争力に関係し、簡単に先進国企業から市場を奪うことが難しい。また機械産業は多くの部品や素
材を含む裾野産業を必要とするが、財閥を中心に発展してきた韓国ではこれが決定的に欠けていた

 1990年代のマクロ指標を韓国と台湾で比較すると、韓国では貿易及び経常収支の赤字の継続拡大と対外債務の増
加が続いている。韓国と台湾はすでに対外投資や援助を行い、国民所得水準からもはや中進国というより先進国といえる
経済構造に変わった。台湾は80年代以降に経常収支の黒字が続き、800億ドルを超える外貨準備高を誇り、これを対
外投資や援助として投入してきた。韓国は90年から貿易収支及び経常収支の赤字が続き、これを海外資金で補填して
きたことから97年の対外債務残高は1000億ドルを超えた

 政府が大財閥として公表してきた30財閥の自己資本比率は18.2%であり、日本の東証一部上場企業平均の32.
8%に匹敵する自己資本比率を有しているのはロッテだけであった。
p91 表4-5 製造業の従業員規模別構成
jtk.JPG
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アジア発展の構図 ~アジア地域の特徴 1/4

東アジアでは効率的で輸出力のある内外企業が存在する。中南米やフィリピンでは経済危機に直面した時点において、
経済を牽引する企業に乏しく、危機によって倒産するものが多かった。東アジアでも企業の倒産は生じているが、しかし
一方で危機以後も輸出を維持、増加させて危機からの脱出を試みている企業も数多く存在する。また絶対的貧困者
が増加し、経済危機がさらに政治的不安定をもたらして経済的困難が長期化する自体を回避する努力が続けられて
いる。東アジアの経済危機は為替金融問題から生じ、金融自由化と硬直的な為替システムのインバランス、金融ガバ
ナンスの問題が解決すれば安定するはずである。欧米や日本に企業による東アジアの企業買収や企業資本シェアの拡
大は、東アジアの成長潜在力の高さと企業の将来性を反映し、中南米のような失われた10年のような事態に東アジア
は陥らないであろう。ただし東アジア経済への影響力が大きい日本経済の安定及び発展が早急にもたらされなかった場合
には、東アジアの経済回復への道のりは厳しくなるだろう。以上が本書の問題意識であり、その核心は東アジアではいか
に経済を牽引できる企業を育ててきたか、なぜ多くの開発途上国ではこれができなかったか
ということにある。
1999年の本、通貨危機後に出された本ですなぁ。NIESとか言葉遣いが古くていいね。
P12 表1-1 一人当たりGNP
gnp-p.JPG
P17 表1-3 貧困人口比率
poverty.JPG
ILO(国際労働機関)が主要開発途上国の貧困人口を都市と農村で調査した結果から、東アジアと中南米の部分
だけを示している。貧困とは生命を維持するために最低限必要な食事及び身のまわりのものを購入する所得水準以下
の状態と規定している。すでにOECDに加盟した勧告の貧困人口比率は都市と農村で1桁の低水準に達し、輸出志
向工業化による所得増加は確実に貧困層を減少させてきたことを示している。他のNIESの統計は無いが、先進国並
みの一人当たりGNP水準と以下で示す各種統計値から判断して、間違いなく貧困人口比率は韓国のそれに劣らず、
少ないはずである。ASEAN-4では、マレーシア、タイの都市貧困がかなり少ないが、農村の貧困は20~30%に達す
る。インドネシアは都市の貧困人口比率が農村よりも高く、都市部門がいまだ十分に発展していないことを窺わせる。
フィリピンは南アジアと同水準(貧困人口比率はインドは都市38%、農村49%、バングラディシュは都市56%、農村
51%)の高い貧困人口比率であり、これまで経済開発が順調でなかったことを反映している。所得水準と貧困人口比
率を比較すると、中南米の変化は東アジアのそれと異なった状況にある。1995年の一人当たりGNPの水準では、韓
国のそれに近いアルゼンチン、 マレーシアの水準にあるブラジル、メキシコ、 タイの水準に近いベネズエラ、パナマ、コロン
ビア、ペルーでは農村だけでなく都市でも貧困が蔓延し、開発途上国で典型的な貧困地域である南アジアの比率を上
回る国もある。所得水準と貧困人口比率にみられる格差は、所得分配が不平等であるかどうかに関係する。多くの開発
途上国ではいまだに多くの貧しい階層と一群の豊かな階層という構造が強く残っている
。NIESのような所得増加→所得
分配の平等化→貧困改善という流れを多くの開発途上国で実現できていない。
経済効果の分配を平等化する機能も重視せねばならない。農地改革もその一つであるが、資産保有や資産譲渡への課
税、累進課税制度の導入とその徴税能力の改善、公的保険制度(厚生及び医療等)の導入
は、中央及び地方政府
の財政力を拡充させ、歳出を通じて各種政策を支えることができる。また保険制度は貯蓄の増加、投資資金の確保だけ
でなく労働者の生活安定を通じて経済厚生を高める。所得増加を伴った所得分配の平等化は、消費構造の収斂により
生産にもプラス効果を及ぼす。高額所得階層が所得シェアのかなりを占める国は、彼らの消費性向が消費動向に大きな
影響力を与える。支払い能力を有する彼らは高額な耐久消費財、たとえば輸入乗用車、エアコン等を消費し、輸入される
かノックダウン方式により国内生産されることになる。国内生産されてもその需要は急増するわけでもなく、生産技術も高度
であることからこうした産業が経済発展を牽引するわけではない。もし所得分配が平等であり、一般大衆の消費構造に偏り
がない国では高級な耐久消費財ではなく、低級な、例えばアイロン、電機釜、あるいは扇風機等が需要され、こうした財の
需要規模は高級な耐久消費財に比較して大きい。また所得水準の上昇はさらに需要を増加させ、こうした財の生産技術
は難しくないことから新規企業の参入をもたらし、競争に伴って企業努力により低級品から高級品への移行が生じる。日本
は世界的にも所得分配が平等であり、均一的な消費構造が生産や雇用だけでなく、生産技術蓄積、新製品開発、新
技術開発さらに輸出競争力強化をもたらした。
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田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法

大臣になれば自分でリーダーシップを発揮して役人に法案を作成させるべきだが、現実は役人のレクチ
ャーを聞いて彼らの言葉をオウムのように繰り返しているだけ。大臣になって何かをするのが目的ではな
く、大臣になること自体が目的になっている。政治家の多くに法律を作る知識も力量も才覚もないからで
ある。ところが戦後政治の歴史を振り返ると例外が一人いた。田中が議員の間に自らが起草して成立さ
せた法律の数は33本。田中が成立させた法律のうち主なものを眺めれば、例えば住宅関連法。ときの
片山首相に対して「コメもない、着物もない、住宅もない。衣食住がない。一家の団欒の場所の住むとこ
ろがない。民主主義を標榜されている片山内閣は何をしておられるのか
」とかみついた。そして二つの法
案を提出した。住宅金融公庫法。住宅不足は深刻だったが、国民ひとりひとりに国家資金で家を造って
やるわけにはいかない。自己資金を持ち意欲のある人々に対して、新しく作る政府系金融機関から資金
不足分を貸し付ける
というアイディアだった。この金融機関ができたおかげでどれだけの人々が家を持つ
ことができるようになったことか。その後、住宅金融公庫は政府の景気刺激策の重要の柱にもなった。
もう一つが公営住宅法である。当初は母子家庭や大陸からの引き揚げ者などに対する住宅を供給する
目的で作った法律
だが、次第に対象が普通のサラリーマン家庭になろうとしているが、大都市の郊外に
忽然として生まれた団地は大衆社会の文化の場にもなり、テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機の三種の神器
の大マーケットにもなった。
>なぁ。母子家庭は公団住宅は優先的に入れる。普通のサラリーマンに使ってもらっては困るなぁ。ぇえ?
田中が作った法律の中で特筆されるべきは道路三法と呼ばれる道路関係法だろう。昭和28年に成立さ
せた「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」は堅い呼称だが、要する道路を造る財源のために自
動車の使うガソリンに税金をかけようという法律だった。いわゆるガソリン税である。衆議院の建設・大蔵
連合審査会では田中がほとんど一人で答弁に立っている。
「自動車を走らせるには道路がいります。歩道なら別ですが、自動車道は舗装しなければならない。舗
装するには金がいる。その金をどこから出すか。世界各国を眺めると日本は道路に出す金が極端に少な
い。一人あたりの道路費用はインドが39円。日本はインド並み。こんなことでいいのでしょうか」
どこから調べてきたのか、インドの一人当たり道路費などを持ち出し質問者を煙に巻く。
テレビの免許は歴代郵政大臣が頭を抱えていた難問だった。NHKと正力松太郎率いる日本テレビが始
まって以来、テレビの人気は高く前途洋々たる将来性を示し、全国からテレビ会社設立申請がどっと押
し寄せていた。郵政官僚は申請者全てにテレビ局を開く技術的背景があるとは思っていなかったから、
免許数を絞りたい。しかし、そうしようとすると、政財界や地方のボスたちがひしめき合って競い、らちが
あかない。ところが、田中は事務局の反対を押し切り、数ある申請者を地域別にひとつにまとめ一挙に
民放36社、NHK7局に予備免許を与えてしまった。
陳情団から受け取った案件は目白を経由して中央官庁の役人に伝達され、事業が決定し国庫補助が
出ることになる。ものによっては80%が国庫から補助となるだから、市町村にとっては打ち出の小槌の
ようなものである。事業計画が決まると、土木業者が指名入札を受ける。事業の配分は談合で決まる。
陳情について田中は独自の考え方を持っていた。「現代は陳情の時代だ。陳情という言い方が悪けれ
ば、主権者の提言といってもいい。マスコミは陳情をいけないことのようにいうが、これは旧憲法的思想
でものの見方が逆立ちしている。国民が立法や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳
情するのは、株主が取締役会に対して累積投票権を要求するのと同じこと。主権者の請願、陳情権は
憲法上の大権といっていい
。」
>さすが角栄、天下の器。そう、民は自らは何もしないのに、文句と不平と私利私欲の主張だけはする。
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田中角栄 その巨善と巨悪 ~女性遍歴

田中は上京を決意した。その頃、初恋をしていた。相手は町役場の電話番をしていた3つ年上の女性
った。田中の勤めていた土木派遣所の電話は1番、警察が二番で、役場が三番。田中は彼女のことを
「三番さん」と名付けた。昭和9年、田中は信越線回りで柏崎駅から上野駅へと旅立つことになった。もち
ろん鈍行列車である。次の駅は鯨波。ホームに人影があった。三番さんである。人目につくことを恐れて
次の駅を選んだのだ。停車時間はわずか30秒。彼女の白い手が封筒を差し出した。記者は再び動き出
す。彼女はハンカチを小さく振った。封筒の中には簡単な手紙が入っていた。
「よく勉強ができますよう、お番神さまに祈っています。」
後日談がある。戦後第一回の衆議院選挙に立候補した田中は柏崎小学校の講堂で第一声を上げた。
数百人の聴衆が集まっていたが、その最前列に子供を両脇にした一人の女性が座っていた。人妻の
落ち着きが加わっていたが、まぎれもなくあの三番さんだった。田中は目礼する。彼女も目礼を返す
>昭和9年、角栄は16歳。16歳対19歳かー。うーん、わかるねぇ。そのくらいの年なら、中学上がりの
>猿女には興味無いな。
>久しぶりに会うと子供つれたりするんだなぁ。うんうん。って俺も人のことは言えんが。
故郷では遠縁に当たる近藤家の娘になるとまだ思われていた。父のために借金に行った家の娘である。
しかし、田中の気持ちはこの娘から既に離れていた。仙台の陸軍病院に入院していたとき一度尋ねてく
るようにいったにもかかわらず彼女は来なかった。除隊後、故郷からとんぼ返りする時も一緒に来ないか
と誘ってみたが煮え切らない態度だった。坂本家のおばあさんに娘を誰かに引き合わせてくれないかと
頼まれ、いつも身の回りの細かい気遣いをしてくれることに好意を感じ始めていたこともあってこの娘との
結婚を決意した。これが糟糠の妻となるはな子である。はな子は31歳。8歳年上
だった。
>金より気遣いか。にしても決断早いな。速攻、決めてる感じある。
>角栄もそこに関してはあんま考えてないだろ。
田中は昭和40年2月1日から日本経済新聞紙上の「私の履歴書」に登場した。81回も「円・銭」のことに
触れた
田中の履歴書だが、いじましさがない。むしろ金にまつわる苦労や喜びを臆面もなく語る文章は
明るくユーモラスですらある。
田中は開けっぴろげで正直でもあった。金についての記述だけではない。田中の「履歴書」には女性が
数多く登場する。異性として意識した女性である。小学校の時箒で追いかけられた女の子が、にわか
雨に降られて困っていた田中にマントに一緒に入らぬかと誘ってくれたこと、上京する時柏崎の次の鯨
波でひとり見送ってくれた初恋の君・三番さんのこと、いつも自分の係りだった理髪店の美人理髪師・
お仲ちゃんがいたずらで鬚を剃り残し以来口髭が田中のトレードマークとなったこと、事務所を構えて
からのある雪の晩、長岡の宿の離れの小部屋に忍んできた若い芸者のこと、出征前に同棲していた
女性がいてハウスキーパーになってくれていたが姉に強引に別れさせられたこと、除隊後事務所に借
りた家の娘であるはな子と結婚したこと。福田の「履歴書」はといえば、女性はただ一人登場しない。
京都の下京税務署長時代に結婚した同郷の三枝のことのみである。中曽根は二人。海軍士官時代
結婚した蔦子。それに学生時代、伊豆に旅行した際、中曽根たち学生に好意を寄せてくれたうなじの
美しい女中さんのこと。隠し事のできぬ田中を女性たちは許したのだろう。一種のセックスアピールも
あった。地方の演説会に行くと老若を問わず女性がわっと集まり田中に触ろうとした。演説が終わると
一番若い女性には見向きもせず最年長らしい女性に近づき真っ先に握手
した。
>私もネーさんに対する言動は常に最優先するよう心がけております。
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田中角栄 その巨善と巨悪 ~新潟の角栄

降りしきる雪はびっしりと空間を埋めつくし、濃密な白い闇がどこまでも広がっている。男は上越線の鉄橋
を渡っていた。吹雪のため列車が動いていないとしらされたが、ひるみはしなかった。「歩いていこ」と言っ
てのけて、みのとわら靴を着けた。白い闇におそれをなして、他の候補者は田中について来なかったのだ。
田中角栄 30歳、昭和22年、新潟三区から初当選を果たした彼は、翌23年10月の第二次吉田内閣発足
とともに法務政務次官のポストを射止めたが、わずか二ヶ月後の12月辞任せざるを得なくなる。片山内閣
(昭和22年)が炭鉱国有化をねらって提出した臨時石炭管理法案(略称炭管法案)をめぐって議会は紛糾。
田中はこの法案に反対する急先鋒となったのはいいが、業者から100万円を収賄した容疑をかけられ逮捕
された。
 ところが、獄中で立候補宣言をした田中は、保釈の身となり選挙区に戻ってきたのだ。鉄橋の半ばに差
しかかったとき、事件が起きた。遠くでこもったような金属音が鳴ったのである。白い闇の奥の、わずかに
薄墨色がかった中に光るものがあり、手さぐりするように近づいている。凍った路線が振動している。動い
ていないはずの列車がやってくるのだ。「あっきゃ・・・」保線員なら身を隠す場所を知っているが、慌てた
田中は橋桁にぶら下がった。列車は轟音とともに頭の上を通り過ぎる。両腕に橋桁にくらいつきながら、
目を閉じる。ひどく長い時間があって、震動が弱まっていった。激しい息づかいとともに、再び橋の上に立
つ。しびれかけた腕をなで、再び挑むように歩き始める。
雪がやんでも当時は除雪車はない。自動車もない。冬はバスも通らない。幅50センチほどの道をせかせ
かとただ歩く。村落に入ればメガホンで、「田中角栄が参りました。よろしくお願いいたします。」と大声を
張り上げる。
「石炭はどがんした!」と意地の悪いヤジの飛ぶこともあった。
「演説はもうええ!浪花節をやっしゃれ」と叫ぶ。「それでは・・・」としゃがれ声で浪花節を始める。回を重ね
るにつれ堂に入ってきて、いかに拘置所で苦しい思いをしてきたかをうなる。やんやの喝さいを浴びる。
こうして田中は周囲を圧倒する気迫で当選を果たす。得票数42500票は堂々の二位だった。
魚沼郡から大量の票が出た。選挙は雪のときにやるに限る、というのが以来田中の信条となる。
担任の先生は、「お前は5年修了で柏崎の中学校へ行ける」と進学を勧めてくれたが、母の苦労を思えば
その気にはなれず、尋常高等小学校に進む。分家の長男は東大の農学部に、従兄弟は柏崎の中学校へ
分家の三男は教師になるために師範学校に行っていたが、田中は後二年小学校に通い社会に出ること
を決意したのである。ただし、当時、尋常高等小学校だけで社会に出ることは別に特異なことではなかっ
た。甥の田中信夫によれば、二田小学校の一学年の生徒数は7,80人。その中で中学に行くのはせいぜ
い1人か2人だった。全国でみても戦前の日本では義務教育の尋常小学校6年だけで働きに出る子供た
ちの比率は全体の34%。田中のように高等小学校に進むのは58%。その上の中学校に進むのはわずか8
%だった。新潟県は今日でも進学率の低い県で、平成7年度の大学進学率は27.7%。全国で43位。
>自然な姿だな。現代における9年の義務教育期間でも長すぎるくらいだ。勉強が嫌いという子供たちが
>多くいる。その子を進学させようとする親や社会の圧力は理解に苦しむ。
>勉強嫌いに進学必要なし。また天才に学歴必要なし。

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賭博と国家と男と女 ~数の能力の進化

人間の進化を考える上で必ず持ち出されるものは、戦争と狩猟である。狩猟と戦争が人間の知能を進化
させた・・・全く正しい。しかしこの2つの項目からは人間の最大の特徴である音声コミュニケーションの能力
(それも大変複雑な)の進化をどうしても説明することができない。狩猟や戦争には、せいぜい合図程度の
コミュニケーション能力で間に合うのである。実際、オオカミの群れなどはほとんど打ち合わせらしきものを行わ
ないにも拘わらず大変複雑で巧妙な狩りをする。では何が人間に複雑な音声コミュニケーションの能力を進
化させたのだろうか。それは浮気だ。類人猿の世界を概観してみると、いかに浮気が人間特有の現象である
かよくわかる。一夫一婦制をとるテナガザル、一夫多妻制をとるゴリラはいずれも夫婦が四六時中行動を共
にしている。だから彼らは浮気をしようにもチャンスがない。チンパンジーは乱婚的でそもそも浮気という概念が
ない。オラウータンは単独生活者で元来きっちりとした夫婦関係が存在しない。霊長類全体を見渡してみ
ても、人間のように特定の異性がありながら、時々別の異性とも交尾するという婚姻形態はまずありえない。
人間は唯一の”浮気するサル”なのだ。しかし、人間における数の能力の進化・・・これをどう説明すればよ
いのだろうか。それは浮気ではどうにも説明することができない。ならば浮気と同様、時代、民族、文化、階
級を超えて存在するもの、ほとんどすべての人間の心を捉えて離さず、夢中にさせ、時には狂おしくさえしてしま
うものは何か
と考えてみよう。しかもチンパンジーなどには存在しない・・・。それは賭博である。
古代社会では占いは裁判や物事を決める重要な手段であったが、一方で多くの占いの用具が賭博の用具
を兼ねるなど、賭博との密接な関係を保っていた。私は、占い、賭博、裁判、葬儀、協議などについて、起
源や互いの関係などを知りたくて相当な時間をかけて調べてみた。しかしどうにもはっきりした結論を得ること
ができなかった。古代社会ではそういったものの境界が実に曖昧でしかも互いの関係が複雑に絡まりあって
いるのである。ただ一つだけ明らかなことがある。それはそのどれもが神という概念があって始めて存在する文
化だということである。占いも賭博も裁判も、紙に判断を任せるという点で一致する。神の意思に近かったり、
それを言い当てたりできる者が、神からの祝福を受けるのである。そして見逃してはならないのだが、貨幣経
済が始まって賭博が始まったわけではないのだ。賭博は貨幣が鋳造されるずっと以前から行われていたので
ある。世界で初めてコインが作られたのは紀元前七世紀、小アジアの西部の王国リュディアにおいてである。
その後、コインはギリシア世界などへと広まった。それまでにも金塊や銀の粒、子安貝、穀物、家畜など、原
始貨幣と呼ばれるものが存在したが、意外なことに原始貨幣も賭けの対象にあまりならなかった。古代の
文献によると、庶民の男が賭けるものは往々にして妻であり、国王は領土さえ賭けていた。賭博は本来、
自分の体の一部や命、妻子のそれや身の潔白(これは裁判とも関わってくる)を賭けるもので、衣服や家
畜などを賭けることもあった。それが貨幣という、それらに比べれば実害の少ないものに変わったのである。
この貨幣経済の前に賭博があるという順序関係だが、人間主に賭博による数の能力の進化が起こり、それ
が貨幣経済の始まりを準備したというストーリーを暗に示してはいないだろうか。
>援護射撃をすると、貨幣経済の前は女を賭けていたというのなら、博打に強い男が多くの遺伝子を残し
>たことになり、数の能力を発展させたと考えるのが自然だろう。
人間である以上、人は誰でも(特に男は)賭博が大好きである。予想が的中した時のえも言われぬ喜び
はずれたときの悔しさ。たったこれだけの心の動きが我々を虜にする。取り締まっても取り締まっても跡を絶た
ない。見つかったら死刑になるかもしれないし、島送りになるかもしれない。それでも、やる。賭博とは人間界
に普遍の、それなのに全く正体不明の極めて強力な文化なのである。そういうわけで、どの国で賭博が盛ん
か、どの民族がより賭博好きであるかを比較することは難しい。賭博が禁止されている社会主義国にした
ところで、どっこい賭博は生きている。旧ソ連にはソ連時代からマフィアが存在しており、当然賭博も行われ
ていたと思われる。しかしそれでもあえて言うとする。世界で最も賭博が盛んな国は、イギリスである。何しろ
この国には公に認められた賭博会社が存在するのだ。ブックメーカーと呼ばれる賭けの会社は全国に数千
社、それらが出す賭け店(ベッティング・オフィス)は1万店以上に上る。道路に面した窓に馬や犬の絵が
描かれていたらそれが賭け店である。タバコ屋や薬屋のように、イギリスではなくてはならない生活必需品の
店である。賭けの方法は我々には少々馴染みが薄い。胴元であるブックメーカーは、まずオッズを発表する。
これはブックメーカーお抱えのハンデ師が独自につけるもので、ブックメーカーによっても違うしレース日が近づく
につれても刻々と変化する。払戻金は購入時のオッズに従うので、勝った人といえども悲喜こもごもである。
同じ勝ち馬を買ったとしても、どのブックメーカーの、オッズいくつのときに買ったかにより払い戻される金額が
全く違ってしまうのである。馬が出場を取りやめたりすると賭け金は一切戻ってこない。これらの賭博から政府
が税収入を得ているのはもちろんである。胴元の上にさらに国家という胴元がいるというわけだ。ヨーロッパで
民営賭博が完全に合法化されているのは、イギリスのほかにスウェーデンがある。モナコは周知の通り賭博
立国で、公設のカジノが莫大な利益を上げている。アメリカは州によって事情が異なるが、ネバダ州のラスベ
ガスがちょうどヨーロッパにおけるモナコの位置を占めている。しかしアメリカではほとんどの州が賭博に対して
厳しい姿勢をとっている。アジアは土だろう。東南アジアには一大賭博文化圏とでも呼べる広大な地域があ
り、日本の賭博文化も多くはここから来ているという。その総本山をなすのがタイである。こうして例を挙げて
みると私は一つの法則を見出したような気がする。それは君主のいる国は賭博に対して大変寛容であると
いうこと。いや、賭博の盛んな国では君主制が廃止されていない
と言ったほうがいいかもしれない。ともかく
賭博と君主制の間には、なんともいえない相性の良さのようなものが感じられるのである。
イギリスには女王、スウェーデンも国王がいる、モナコにも大公がいる。タイ国王は国民の尊敬を一身に集め
る王として有名である。君主が賭博を司るということは、まず第一に、彼が人間と神との仲介者であることを
示すディスプレイの効果を持つ。しかし賭博とはそれだけのものであろうか。権力者が権力を誇示し、それを
維持していくための手段。まさか、そんなはずがない。その権力とは、何を隠そう賭博それ自体によって獲得
されてきたものなのだ。賭博とはうまくやれば富と権力とを瞬く間に手に入れることのできる魔法のような手段
だからである。
>現代でもカジノ産業の筆頭株主は社長自身が大量に持っていることが多い。これこそまさに帝国の君主
>制の名残と言えよう。
知的な営みに熱中する性質は、元上流階級人たちの間にも今にも脈々と受け継がれている。それはかつて
上流階級人が上流階級に留まり続けていくために何としても持っていなければならない大切な性質だったか
らである。ただそれを所有しているだけで楽々と暮らしていける資産を持った人々。彼らにとって生きていくため
に、さらに遺伝子のコピーを残していくために最も重要であることは何だろう。商売の才とか、政治的手腕とか
資産を増やすための才能はあればあるに越したことはない。しかしそれはなくても別に構わないことである。彼
らにとって最も重要なことは先祖から受け継いだ資産をすっかり使い果たしてしまわないこと、そういう放蕩な
性質を持っていないことなのである。放蕩の中でも一番いけないのが賭博である。賭博が資産を減らしていく
スピードは、芸者遊びや食道楽なんかの比ではない
。賭博なら一夜にして全財産をすってしまうことだって可
能である。そこで上流階級ビークルは、カモ遺伝子を発見し排除する方法を考案した。学問である。何の
役にも立たない学問、金儲けになんか絶対にならない学問。それらを「アホらしい、つまらん」と思えば、その人
にはカモ遺伝子が乗っている可能性大いにあり。逆に、学問に夢中になってしまう人にはその遺伝子が乗っ
ている可能性が非常に小さい。なぜなら、博打にのめりこむための遺伝的性質と、学問に夢中になるための
遺伝的性質とは、ことごとく正反対だからである。
そもそも学問などと言う変なものに夢中になるには随分特殊な性質が必要である。世の中の森羅万象に
興味を持ち、探求したいと思う心、学んだことをどんどん吸収していく力、記憶力、論理を楽しむ心、深い
洞察力、わからないことをわからないと認める正直さ、自分客観的に見据えることのできる力、何事にも努
力する姿勢、忍耐力、粘り強さ、等々である。一方、カモになるにもそれなりに特殊な性質が必要である。
賭博が金儲けの手段になると思い込んでしまう考えの甘さ、楽した儲かる手段があるのになぜ真面目に働
くのかと考える金銭観、今日さえ楽しければ良い
、明日は明日の風が吹くさという楽観的人生観、賭博に
勝ったことは良く覚えているのに負けたことはすぐに忘れてしまうという呑気な記憶力、過去の失敗をくよくよ
悩まない明るい性格、金もないの大盤振る舞いしてしまう人の好さ、宇宙の始まりがどうであるかなど、そ
れがいったい自分とどう関わりがあるんだと開き直る心、理屈っぽいヤツは気にいらねえと敬遠する心。
冷静な判断力や忍耐力に乏しいと言うことももちろん重要である。
>いやぁ・・・言ってることはごもっともなんだけど、こりゃ酷いねぇ。
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賭博と国家と男と女 ~一夫多妻のすすめ

地位や財産に恵まれた男が多くの妻を持てるのではなく、むしろその逆で、一夫多妻制をとっている集団なり家系
なりには結果として富が蓄積されてきた。なぜなら一夫多妻制には人口抑制の効果があるからである。集団の人
口の動向には女一人当たりの子の数(出生率)が問題だ。ある集団が一夫多妻制をとっているとどうしてもその
出生率は低く抑えられるだろう。人口が抑制されれば、子を育て上げるための経費は節減され富は蓄積される方
向へ向かう。一方、一夫一婦制をとっているとどうなるかというと、人口は大変な勢いで増加する。一人の男が一
人の女をキープしているわけだから、夫が妻の排卵期をバッチリ捕らえてしまうのだ。人口が増えるから暮らしは貧し
くなる。当然男は多くの妻をもつことができない。
一夫多妻制は哺乳類全般に広く見られ、霊長類の社会でもごくありふれた婚姻形態である。ただそれら動物と
人間とでは決定的に違うことが一つある。メスに発情周期があるかどうかと言うことだ。その結果、人間の一夫多
妻社会ではどういうことが起きるのか。男は何人、何十人といる自分の妻のうち、今夜はさてどの女のところに行
こうかなという夜毎の選択を迫られるようになる。こうして女に対し、他の動物では考えられないような強い選択圧
が働いてしまうのだ。厳しい選択圧にさらされる彼女たちは、女としてますます磨かれる。一夫一婦社会の女たち
とはまるで別の生き物であるかのように進化したとしても不思議はないのである。一夫多妻制社会では女はライ
バルに差をつけ、自分のもとに頻繁に男を通わせるよう進化する。そういう吸引力を持った女が、より多くの子孫を
残すからである。それは具体的にはどういう女なのだろう。姿形が美しい、心根が優しい、頭が良い、話をして面
白い、教養がある、あるいは世間のことも知的世界のことも無知な童女であるが、なぜかよく男の心情を理解す
ることができる、ユーモアやウィットのセンスがある、人間自体がどこかしか面白く、興味をそそられる、男に安らぎ
を与えられる心の余裕を持っている、何か不思議な才能を持っている、等々。以上のうち、多いに越したことは
ないが、少なくともどれか一つの魅力を持っている女と言えばよいだろうか。男を尻に敷いたり、夫の浮気をチェック
するなどという行為は一夫一夫社会でのみ通用する戦術で、この社会では時に命取
りとなる。一夫多妻社会
では、要は女はより魅力的な方向へと進化するわけである。しかしながらこれらの魅力には、ある一つの条件が
不可欠であるように思われる。それは、その魅力がなかなか飽きの来ないものであり、不変のものだということだ。
男を長年にわたって飽きずに通わせること、男に捨てられないためにいつまでも魅力を保ち続けることである。
そこらあたりが、とりあえず男を捕まえるために若いうちは魅力的だが、捕まえたとなるや、次第次第に馬脚を現
したり、あちらこちらにガタが来る一夫一婦社会の女と大きく事情が異なるのである。
一夫多妻社会の特徴の一つに、男があぶれてくるという減少がある。そういう男たちはどのような身の振り方を
してきたのだろう。最も多いと思われる道は聖職者になることである。
>ん?兵隊じゃないの?
聖職者となり、妻帯しないということは一見遺伝子のコピーを残す上で不利なことのように思われる。しかし、
文化の担い手としての聖職者がどれほど大きな影響力を持っていることか。彼自身は繁殖しなくても血縁者
の繁殖に貢献すること請け合いである。一夫多妻社会ではどうやら繁殖について分業がなされていたようで
ある。当主である長男は複数の妻を持ち、盛んに繁殖活動を行う。一方、二男、三男は繁殖活動を控え
妻は持たないか、持ったとしてもせいぜい一人とする。そうして文化的活動のために力を注ぐのである。彼が
繁殖を控えることで、肝心の財産の散逸を防ぐことになるのである。
地球規模の人口問題は別として、わが国の出生率低下のこの時勢にわざわざ人口抑制論を言うのは気が
引ける。しかしその一方で、今、女が子を産みたがらないのは、案外一夫一婦制に原因があるのではないか
という気もしてくる。一人の男の世話を一手に引き受けなければならない息苦しさ、そのうえに子を産んだら、
仕事は続けられるのか
、男が何人もの妻を持ち、自分のところへは3-4日に一回くらいのペースでしか通っ
てこないとしたら、どんなに精神が開放されることだろう。ひとつ子を産んでみようか、などという気にもなるかも
しれない。ともあれ、これ以上法的な一夫一婦制を続けていると、男はケチで陰険、格好良くもなければ、
取り立てて才能があるわけでもない
、女は優美や知性という言葉からは程遠く、夫を尻に敷き、子作り、子
育てとワイドショーにしか興味を示さない。そして中年以降は鬼の姑と化す・・・いずれにしても視野が狭くて
面白みにかける人間が増えてくることは必至である。
その通りだな。
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賭博と国家と男と女 ~囚人のジレンマ

これ、日本含むアジア各国は教育課程に取り入れたらどうかね?
我先にと車で踏み切りをふさいでしまうインド人
我先にと電車の出口に固まってしまう中国人
既得権益にしがみつき、開放しない日本人
それは、負けるプログラムなんだということを体で覚えると良いだろう。
「囚人のジレンマ」という賭博ゲームがある。かつては政治学、経済学などの分野で一世を風靡した。二人のプレ
イヤーが「協調」と「裏切り」と書いた二枚のカードを持っている。互いの腹を探りあいながらどちらかのカードを選び
テーブルの上に伏せて置く。カードをめくるのは胴元の役目である。
二人とも「協調」を出したなら胴元の負け。彼は両者に同額の金を支払う。一方が、協調、他方が裏切りなら、
どうもとは裏切りを出したほうに大変多くの金を支払う。が、協調を出したほうからはいくらかの金を徴収する。さら
に二人とも裏切りを出した場合には胴元の思うツボ
だ。胴元は二人から金(これはそれほど多くない同額)を巻き
上げていく。
プレイヤーとしてどうふるまうことが得策だろう。相手の出方がどうあれ、「裏切り」のカードを出すとの決断を下す。
囚人のジレンマという名称は、次のような状況を想定してつけられたようである。犯罪の共犯者二人が別々の部
屋で取調べを受けている。互いに相手の動向はわからない。囚人Aにとって、囚人Bが黙秘を続けているのなら
(「協調」のカードを出しているのなら)、裏切って、できれば相手に不利になるような証言をすべきだろう。一方
Bが自白しているのなら、自分も自白するより他はない。黙秘を続けたら、まずそのことで自分の方に罪が重くの
しかかり、Bがでたらめな証言をしようものなら、Bの分まで罪を着せられる。Bの出方如何にかかわらず、裏切って
自白するより手はないとAは考える。ところがBも全く同様のことを考えている。かくして二人は自白する。だが、そ
れは警察の思うツボなのだ。
囚人のジレンマゲームが多くの分野で注目を浴びているのは実は対戦が一回限りで終わるのではなく、何回も繰
り返し行われる
という場合である。対戦が何回も続くとなると、裏切ることは唯一の手ではなくなる。相手の出方に
よって態度を決めるとか、良くしてくれたことに対する恩返しをする、裏切られたら復讐する、などいろいろ工夫を凝
らした戦略が可能になるのである。
アメリカの政治学者であるロバート・アクセルロッドは、反復囚人のジレンマゲームのコンピューター選手権を開催した。
参加者は全部で14名あったが、アクセルロッドが、1/2の確率ででたらめに出す戦略を加え、計15のプログラム
がしのぎを削った。
各プログラムは自分自身との試合も含め、総当りする。偶然による効果を除くため、同じ相手と5試合させられる。
対戦は1試合につき200回と決まっているが、この回数はつきあいが十分長く続くということを意図している。
相互協調 各3点、一方が裏切った場合、裏切った方に5点、裏切られた方は0点、両方裏切ったごきには各1点。
というようにすべて正の数で得点が設定されている。1回の試合で勝ったか負けたかということは全く問題にされない。
成績や順位は、最終的に上げた総得点によって決められるのである。
 さて、優勝したのは、カナダの心理学者、アナトール・ラポポートが提出した「しっぺ返し」
(Tit for tat
「やられたらやり返す」)というプログラムであった。自分からは決して裏切らないが、相手が裏切ったら即座に裏切り返
す。相手が”改心”して協調したら、すぐに自分も強調する。要するに初回に協調する以外は、直前に取った相手の
行動をそっくりそのままお返しするという、まことに単純明快なものである。それにしてもこんな自分から積極的に攻めて
行かない戦略がどうして優勝をさらうことができたのか不思議だ。選手権大会はおそらく生き馬の目を抜く戦場で「し
っぺ返し」のようなおっとりした戦略は、他の素早くて攻撃的な戦略の餌食となったとしても仕方ないと思うのだが・・・。
ところが参加プログラムの約半数が、自分からは決して裏切らない性質(気の良い戦略)を持っていた。何とそれらが
はっきり上位半分を独占してしまったのである。しっぺ返しが強そうであることはあらかじめわかっており、それは参加者
に知らされた。参加プログラムは、「しっぺ返し」の改良型か、「しっぺ返し」から搾取しようとするタイプかの二手に分か
れた。一方、下位半分を占めたのは、気紛れにせよ、故意にせよ、とにかく自分から裏切ることがある戦略であった。
(最下位は「でたらめ戦略」)。どうしてこんな現象が起きてしまったのだろうか。
気の良い戦略が気の良い戦略と対戦すると、どちらも自分からは裏切らず、最後の200回まで延々と「協調」のカ
ードが続く。したがって得点は両者仲良く3×200=600点である。
この選手権大会では、協調 3 > (5+0)/2 裏切りと協調の期待値 であり、確かにジレンマが発生する
よう得点が設定されている。ノンゼロサムゲームでは、対戦する相手を打ちのめすのではなく、いかに相手と協調して
胴元から金を巻き上げるかがポイント
である。
第二回大会は参加者は62名にも上ったが、結果はまたしても「しっぺ返し」の優勝であった。
次は、第二回大会の参加プログラムを使い、進化論的アプローチを試みようと言うわけである。まず第二回大会で
得られた得点に比例させてプログラムのコピー数を決める。これを第一世代とする。そのメンバーでまた選手権大会
を行わせ、特定に比例させてメンバー、ならびにコピー数を決める。これが第二世代。つまり得点が、子孫の数に置
き換えられるのがミソである。初め50世代くらいまでは大きく二つのグループに分かれていた。子孫数を急速に増や
していくタイプと、早々と衰退し、消え去っていくタイプである。これはプログラムに出来不出来があるということで、現
象自体はそれほど不思議なことではない。ところが100~200世代目くらいにさしかかったとき、奇妙な現象が起
きてきた。それまで日の出の勢いで子孫数を増やしてきた戦略の中から、一つ、また一つと脱落するものが現れたの
である。これらは他の戦略をカモにして得点を稼ぐと言うタイプだった。カモの衰退と絶滅に伴い、自分たちも後を追
うように衰退していった
のである。一方で「しっぺ返し」とそれに類似の戦略たちはますます繁栄していった。それらは
カモを必要としない。あくまで互いに協調しようとする。繁栄すればするほど、自分自身や自分に類似した戦略との
対戦が増えるが、これらの戦略にとってそれが少しもマイナスにならない
。そこが強みである。「しっぺ返し」は第一世
代での優位がものをいい、1000世代を経て、もはや各プログラムの比率がすっかり固定されて変動しなくなるま
で、一貫してトップを走り続けたのである。
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賭博と国家と男と女 ~人は利己的に協調する

人間に数の能力を進化させたものは何だろう。なぜ人間は数を厳密に数える必要に迫られたのか。私は以前、
人間が人間になる過程で大変重要だった現象として”浮気”を考えた。人間は夫が妻と子を残して狩りに出
かけるという、どの類人猿にも見られない全く常識はずれの婚姻形態を持っている。夫婦の間には互いの知ら
ない謎の時間と謎の行動が存在する
。浮気が人間の進化に関わっていないと考えるほうがよほどおかしいのだ
ろう。しかし浮気が数の能力の進化に大きく関わったとは思えない。愛人の数や浮気の回数を数えてみたところ
で、それが何の役に立つだろうか。そういうことはむしろすっかり忘れてしまう方が適応的だろう。
第一章 人は利己的に協調する
いいね。これ。その通りだと思うわ。人を国家と読み替えても、企業と読み替えても同じだ。
18世紀半ば頃、西洋社会には人間の解釈について2つの大きな流れがあった。一つはベーコンに始まり、ホッ
ブス、ロック、ヒュームへと続く、人間の本性を利己的とみなす一派、もう一つはシャフツベリ、バトラー、ハチェスン
に至る人間の本性を利他的とみなす一派である。アダム・スミス(国富論)は学問上はハチェスンの弟子であった
が、個人的にはヒュームと親しくしていた。そのせいか彼の見解には両派を和解させようとするかのような一面が見
られる。しかし彼が人間本性の圧倒的に重大な部分とみなしたのは、利己心である。
動物は種の繁栄のために生きています。戦争をする人間は何と愚かな動物なのでしょうか。「種の繁栄(保存)」
という言葉を広めた中心人物はコンラート・ローレンツである。一方で、動物が同種の他人の子を殺すという現象
も次々見つかっていたのである。「子殺し」は種の繁栄では説明がつかない。ダーウィンは、自然淘汰の単位は種
でも集団でもなく、個体であると考えた。彼の膨大な量の自然観察例からそう結論したのである。しかしながら、
淘汰は個体にかかるという考えにも大きく二つの矛盾点が見つかった。まずハチやアリの例である。ハチやアリのワー
カーがなぜ自分では子を産まず、女王が産んだ自分の弟や妹の世話に明け暮れるのかということ。そして、人間
でも人間以外の動物でもアカの他人同士がしばしば協調することがある。利己心を発揮することしか眼中にない
はずの者どうしが、どうして協調することができるのかということだ。「群淘汰」を持ち出せば一応は解決してしまう。
何しろ動物は「種の繁栄」のために生きるのだから、アカの他人同士が協調するのは少しも不思議なことではない
のだ。ウィリアム・D・ハミルトンは、ハチやアリのワーカーの行動を見事に説明して見せた。ハチやアリは染色体につい
て多くの動物とは事情が異なっている。メスは通常の動物と同様で各染色体を一対ずつ持っているがオスはそれ
ぞれの染色体について片割れしかもっていない。そのため母と息子、メスの兄弟どうしなど様々な組み合わせの血
縁度が通常の場合と大きく違ってしまうのである。彼は様々な組み合わせで血縁度を計算し、ワーカーどうしが
3/4という驚くべき血縁の近さにあることを示した。ワーカーが子供を産まず、妹や弟の世話をするかが解き明か
された。その方が、自分の遺伝子をより効率良く残していくことができるからである。
淘汰の単位は種でも集団でもなく、はたまた個体でもなく、遺伝子だったのだ。個体は自分の遺伝子のコピーが
最大限に増えるようにふるまうだけである。また、自分の遺伝子のコピーは自分自身が持っている他にキョウダイや
イトコなどもそれぞれ血縁度に比例して持っている。だから何も自分自身が子を作らなくても増やすことができる。
それらの血縁者の繁殖を助けることで十分自分の遺伝子を増やすことができるのである。
ドーキンス『The Selfish Gene』(1976年)の1989年版の前書きの中で、
利己的遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやりかたで表現したもの
であるが、その妥当性を直ちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。事実それは、オーソドックスなネオ・ダーウ
ィニズムの論理的な発展であり、ただ目新しいイメージで表現されているだけなのだ。
ここで人間の戦争についてもう一度考える。
我々がまだ部族集団で暮らしていた頃、戦争の規模はまださほどのものではなく、従って軍隊もそれほど大きなも
のは必要でなかった。軍隊はある程度の血縁を持った者たちのみで構成されていたはずである。戦いは身内が
身内のために団結して行うのであり、集団のために尽くすのだという特別な感情など必要なかった
。多くの動物が
本来もっている、血縁者のために自分を犠牲にするという心だけで十分だったのである。ところがやがて部族集団
は拡大し、次第に国家の形態をとるようになってきた。すると今までのような血縁の絆に頼るやり方ではどうも都合
が悪い。軍隊は血縁に関わりなく構成され、兵士は身内のためと言うより、国家のための戦い余儀なくされる。こ
れまであまり用のなかった、何か特別な感情が必要だ。人間に「友情」、「隣人愛」などの心が進化した背景には
一つにはこうした過程があったのではないだろうか。集団のために生きる、他人を思いやる、我儘はいけないという
精神は、さらに教育の場を通じて強化される。世の教育関係者のほとんどは、まさか自分がそのような”軍国主
義”を教え込んでいるなどとは夢にも思っていないことであろう。だが、生徒を集団で扱っている限り、軍国主義
や群淘汰と無関係であることは難しい。

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小泉官邸秘録 ~有事法制の整備

三矢研究以来の因縁
小泉総理の父・純也氏は防衛庁長官を務めていた。その当時、1965年2月に国会で「三矢研究」が問題と
なった。これは自衛隊の幕僚がひそかに有事対応の図上研究を行い、その内容に国家総動員的な要素が
含まれていたという事案である。このため「三矢研究」は、国民に太平洋戦争当時の暗い記憶を呼び覚まし
「防衛アレルギー」を醸成することとなった。これ以降、我が国では有事対応や緊急事態法制などに関する
検討はタブー視されることとなった。こうした流れに終止符を打ったのが、防衛庁における有事法制の研究
であった。この研究は1977年、当時の福田赳夫内閣総理大臣の了承の下に開始された。この作業は、法
制の研究であるにもかかわらず、立法準備ではないという前提で行われた。三矢研究の後遺症と言えるが
これが1977年の時点での限界であった。その後、20数年にわたって続けられたこの有事法制の研究は、
政府部内の作業の便宜上、大きく3つの分野に分けられた
。第一分類と称されたのが、自衛隊法や防衛庁
設置法などの防衛庁所管の法令、第二分類が他省庁所管の法令、そして第三分類が国民の避難誘導や
船舶・航空機の運航統制など所管省庁が明確でない法令であった。しかし1990年代半ばに至り、北朝鮮
による核開発危機、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件など、国民の生命、財産に驚異を与えるような事
案が相次いだ。さらに北朝鮮による1998年のテポドン発射事件、1999年の能登半島沖不審船事件などが
発生し、国民の間で危機管理体制整備の必要性が広く認識されるようになった。こうした流れの中で、200
0年に自民・自由・公明の与党三党が合意して、有事法制に関し、「法制化を目指した検討を開始する」よう
政府に要請した。2004年6月、いわゆる国民保護法などの有事関連法がすべて成立し、ここに総理のいう
備えが完成した。
>う~ん、おせぇなぁ。しかもまだまだ不十分だよなぁ。世論の後押しが弱いんじゃ、政治家先生も大変ね。
>どうして国防よりわずかな年金を気にするのか? その民の心理が、俺には分からん。
民主国家でも、発展途上国でも、共産主義国家でも、ひとつの職域で公務員が最も多いのは軍隊。ところ
が、日本では郵便局員
。こんな国家は日本だけだ。三事業で300億円の事務費がかかるような特定の職
域に関する改革が郵政改革。
>笑えます。同時に泣けてきます。
中東とは何か
当時中東地域への石油依存度はEUが22.8%であったのに対し、日本は88.9%であった。誤解を恐れずに単
純化すれば、中東は日本にとってはEUにとってよりも4倍重要であるということだ。中東の国々というのは言
葉は悪いが「不労所得」で生きている国家群であり、指導者の役割というのはその富を国民に分配すること
ということだ。中東の指導者にはサウジの王族、フセインのような軍事独裁者、イランのような宗教指導者、
それにパレスチナ解放機構(PLO)の故アラファト議長と、いろいろなタイプがいるが、成功している指導者に
は共通点がひとつある。それは、こうした「富の分配」を上手に行っている
ということだ。民主主義国では所得
に応じて納税の義務を負うが、これらの国には納税の義務はない
。一方的に富を配分することが重要なの
だ。これは軍人でも同じである。イラクの例を見れば、軍人も公務員だし、愛国心で軍に志願しているのでは
なく、富の分配を受ける上で有利な地位だということで集まってきているのだ。しかし、3月20日の米軍侵攻
の直前は給料が2か月くらい遅配していたとのことだ。だから、米軍が進攻したらほとんどもぬけの殻、軍人
も軍服を捨てて一般人に隠れてしまうということになった。一方、90-91年の湾岸戦争ではイラク軍は奮戦し
たが、これはボーナスの直後だったからである。こうした認識をどれだけ米国が共有しているのか私は大変
不安であった。
臨時国会で第3次小泉内閣発足
通常の総選挙の場合、マスコミ関係者は投票率が高いと野党に有利、低いと与党に有利という感触を持つ
ようだが、この日の私は違った思いを持っていた。「投票率よ、どんどん上がってくれ、上がれば上がるほど
勝てるぞ」。
出足はよかった。前回を大きく上回っている。これであれば最終的に67~68%はいきそうだ。前回の50%台
にとどまることはなさそうだ。昼過ぎにマスコミ関係者に結果予想を聞いてみた。一部の出口調査の状況を
聞いてみると自民党が大きく伸びているとのこと。よし、いけそうだ。その瞬間、頭の中を一つの不安がよぎった。
たぶんダメだと思うけど、もし比例名簿に載っている者が全員当選して、さらにもう一議席来たらどうなる?
「議席は他の政党に割り振られてしまいますね。今までそのようなことはありませんでしたが」
私は確認のため公選法95条の二の条文を彼から取り寄せた。しかし彼も驚いていた。「飯島秘書官はどこ
の選挙区を予想して言っているんだろう。まさか、まさか比例の東京のことでは・・・」
「もう一人、二人増やしておけば良かったか? あの時迷ったんだが。’この不安は、10時間ほど後に現実の
ものとなった。
>ありましたなぁ。小泉チルドレン。懐かしい。
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小泉官邸秘録 ~外交

総理は在任中に51回の外遊を行った。電話での首脳会談は数えきれない。訪問国は延べ81ヶ国、実数でも
49ヶ国を数える。国別では米国の8回を最高に、韓国7回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベト
ナムはそれぞれ2回、ブルネイ・シンガポール・フィリピン・ラオス・カンボジア・モンゴルに各1回などアジア近
隣諸国への訪問が多い。ロシアにも4回行った。これまで日本の総理大臣が訪問したことのないウズベキス
タンやカザフスタンにも訪問した。
外遊日程、訪問国の決定の一つとっても、外務省が全てお膳立てをして持ってくる。総理に就任するとまず
訪米である。次にサミットメンバー国などの先進国、中国、韓国、それから国連総会等々ということになる。
発展途上国は後回しだし、大使館はあっても大使がいない国(近隣国の大使が臨時大使として兼ねている)
にはまず行くことができない
。モンゴルやウズベキスタン、カザフスタンなど、総理就任直後から行きたいと
思っていた国でも、結局訪問したのは退任直前の2006年夏である。これも5年5か月の長期政権だからここ
まで順番が回ってきただけの話
で普通これらの国に総理が行くなどということはまずない。
>短命内閣は、外交的にも大きな問題あるね。
外務省についてはもう一つ言っておきたいことがある。それは「大使」の人事についてである。我が国は191
ヶ国と国交があり、117ヶ国に大使館が設置され、大使が任命されている。残りは近隣国の大使館が兼務
で管轄している。大使とは正式には「特命全権大使」という。任国において日本国を代表し、特命により日本
に関するすべての権限を付与されている存在である。任国における彼の発言は日本国の見解であり、彼が
交わした約束は日本が交わした約束になる。大使は、任国に関する様々な情報や任国と日本との外交関係
に関する意見を総理大臣に直接具申することができる。大使というのはそれくらい重要で「偉い」存在なので
あり、大使には外交官としての能力だけではなく、場合によっては政治的判断を自ら行い、政治責任を負える
ような識見と責任感が要求されるのである。
>大使って、無駄に高い所に住んで消費して任国に媚を売る役割だと勘違いしてました。
米国では大使は完全な政治任用ポストである。現在の駐日大使シーファー氏はビジネスマン出身でブッシュ
大統領の信頼が厚い人物である。歴代の駐日大使の顔ぶれをみると、かつてはライシャワー氏に代表される
ような知日派の人物が日本の国際的地位が上がるにつれて上院院内総務だったマンスフィールド氏、副大
統領だったモンデール氏、大統領首席候補だったベーカー氏など、時の政権中枢に近い重要人物が着任す
るようになった。他方、我が国では少数の例外を除いてほとんど職業外交官が大使に任命されてきた。外務
省に国家公務員として入省し、書記官、参事官、公使と上りつめた官僚が大使になる。要するに外務省役人
の上がりポストになっているのである。何度も言うが、職業外交官が全て悪いと言っているのではない。しか
し、任国で大使が果たすべき役割・責任・判断の重さを考えたとき、事務方で経験を積んだ職業外交官を順
送りで発令する、ということだけでいいのだろうか。
私は日本語を話すことのできる駐日大使を集めて会食をする、ということを以前からやっていた。日本語が話
せる大使というのは結構たくさんいる。中国の王毅駐日大使も、前任の武大偉大使も大変流暢な日本語を
話される。日本語ができる人物を大使として送り込んでくる国は、例外なく日本との関係を重視している国で
ある。少なくともそういうサインを日本に送っている国である。これに対して日本国は任国の言葉を話せる大
使をどれだけ赴任させているだろうか。語学グループがある英語圏やフランス語圏、中国語圏などはいいの
だろうが、例えば、イタリアという国はどうか
。ヨーロッパの大国でありG8のメンバーでもある。歴代の駐イタ
リア日本大使の中で、イタリア語のできる人物がいったい何人いただろうか。もちろん、イタリア語が専門の
外交官(語学専門職)を大使館に配すれば大使自身は別にイタリア語はできなくてもいいかもしれない。だが
もし語学は問題ならないということなら、大使にふさわしい資質とは何だということになるのだろう。職業外交
官でなければ務まらないのだろうか。イタリアの文化や歴史に造詣の深い文化人、イタリアの政界・財界に
知己を多く持つ実業家、例えば塩野七生女史のような方を大使に任じ、それをプロの職業外交官集団が支
える、ということにしたらきっとイタリアとの関係はさらに親密になるのではないだろうか

>塩野先生~♪ ご指名はいりました~♪

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項羽と劉邦 ~軍神の伝説

韓信
陳余は井陘城に入って布陣を終えたとき、自軍の堂々たる軍容と陣形のうつくしさに、陶然としたといわれる。主要陣地は
井陘城だが、付近にも様々な小塁をきずいて兵員を入れた。この大規模をさらに補強するように、陣前に抵水が流れ、自
然の外堀をなしていた。
 「広武君よ」と李左車を尊称で呼んだ。「これが王者の軍というものだ、広武君よ、君の作戦案がまちがっていたことが、こ
の陣形のすばらしさをみてもわかるだろう」と陳余はいった。李左車は作戦案をたてて陳余にはねつけられているのである。
 「韓信の不利は、井陘の難所を通ってくることです」狭い道を韓信の輜重部隊がやってくる。その輜重部隊と本軍とを断ち
切ってしまえば、ただでさえ孤軍のかれらは戦う前に枯れてしまわざるをえない。私に兵3万をください、間道づたいに韓信
軍に近づき、かれらからまず食料を奪い、ついで本軍をずたずたにして戦う気力をうしなわせましょうといったのだが、陳余
は「なにをいうのか」とたしなめた。かれがまずいったのは陳腐な基礎理論だった。兵書に兵数が敵に10倍しておれば相手
を包囲し、2倍ならば進んで戦う
、とある、いま我々は敵に10倍している、その上敵は懸軍万里、疲労しきっているというのに、
これに対し奇計を用いれば、近隣諸国はわが国を臆病と軽んずるようになるだろう、と言い「大軍は正々堂々と戦うべきもの
なのだ」といった。作戦というより思想というべきものであった。
これによって韓信は安んじて井陘の道を通過した。やがて井陘口の手前20キロの山中で軍をとどめ、宿営し、同時に最後の
攻撃準備をした。このとき彼は後世に有名な「背水の陣」の作戦をことごとく準備しおえるのである。まず奇計用の部隊2000
人を編成し、その一人一人に漢軍のしるしである赤い旗を持たせ、「敵に見つからずに山中の間道を縫い、山上から敵の井
陘城を望見できるところまで行って埋伏しておれ」と、命じた。いま一つこの部隊に命じた。戦いの最中に私はいつわって軍を
敗走させる
つもりだ、敵はおそらく井陘や諸塁をからにして追ってくるだろう。すかさずお前たちはからの敵の城塁に入り、漢
の赤旗を林立させよ
、というものであった。
翌朝、韓信は全軍、といっても約2万人にすぎなかったが、を三段に分け、暗いうちに全軍に簡単な食事をとらせた。その上で
諸隊長を呼び集め、「正規の朝食は、戦いが終わってから摂ろう」といった。諸将はおどろいた。朝飯前にいくさが片付く、勝つ、
ということであった。敵陣の配置やその付近の地図を書き、最後に大きく線をひっぱって、「これが抵水の流れだ」と、いった。
諸君はこの抵水の流れの内側-敵陣の側-に入って陣を布け、といった。抵水を背にするということであった。
「それでは背水になりますが」諸将はおどろいた。背水の陣は凶であるとして兵家がいましめている。
「背水でいい。やがて私が最後の隊をひきいて出てゆく」
「将軍がこられる前に敵がしかけてくればどうなります」背後の水に飛び込んで溺死せざるをえないではないか。
「決して敵は仕掛けて来ない」韓信は、敵を読みきっているように言った。敵が欲しいのは主将である韓信の首で韓信さえ討
ち取れば漢軍は四散する。先発軍が背水して布陣しても、これを仕掛けて潰乱させれば、肝心の韓信の本軍が戦わずに逃
げてしまう。敵はそう思って自重する、と韓信は言うのである。
1万人の先発軍が井陘口から野に出た時はまだ夜が続いていた。趙軍は韓信軍の松明の群れを見、物見を派遣し、舐める
ように動きを探り続けたが、やがてかれらが抵水を背にして布陣したのを見ると、走卒にいたるまで「韓信は兵法を知らない」
と口々に言い、大笑した。韓信が買いたかったのはこの嘲笑
であった。やがて空が白みはじめる頃、韓信の本体が井陘口か
らあらわれた。大将旗をひるがえし、鼓を鳴らして勢いよく趙軍にむかって進撃してきた。先着の主力軍は抵水のほとりで動
かない。進撃してくるのは、韓信と張耳の直率部隊だけであった。
「もうよかろう」陳余は諸将に命じた。どの城塁もいっせいに門を開き、諸隊がさきをあらそって押し出した。大軍に戦法なしと
いわれる。勢いがあればよかった。李左車さえそういう気になった。逃げて溺死するほどなら、戦うほうがまだ生きのびる見込
みがあった。生きようと思えば、敵を破ることしかなく、たれもが恐怖のなかでそう思った。「死にたくなければ戦え」と下級指
揮官にいたるまで口々に叫び、直率部隊と第二陣とが一つになって敵に向かって突進した。しかし趙軍は多く、味方は寡く、
戦場にくりひろげられた戦いの渦はともすれば趙軍のほうが有利であった。そのとき戦場の一角で異変が起こった。韓信が
かくしていた2000の部隊が山から出現し、疾走して趙軍の空城や塁に入り、城頭や塁頭に2000本の赤い旗を立てたので
ある。
趙軍に大恐慌がおこった。「漢はすでに趙王や陳余を殺して城塁を奪った」とたれもが思い、兵は故郷に帰るべく逃げはじめ、
ついに大潰乱した。陳余もこのなかにいた。おれはここにいる、と叫び続けたのだが
、彼自身、どこへなりとも逃げたかった。
このころになると空城の占拠軍が打って出、背水軍とともに趙軍を挟撃した。やがて戦いが終わり、趙王、陳余、李左車がと
らえられた。韓信は約束どおり全軍に休息を命じ、朝食を出した。

>ここ、戦闘シーン、最大の見せ場じゃねーか? 
そして、これはボスコーンとゲノン総督。
これでわかった読者はツウ。
ベルセルクのドルドレイ城攻防戦だ。実はここもベルセルクで一番好きと言える部分なので
まー、こういうの好きなんだな。俺は。

照れ屋さん、硬派な韓信
「斉王広の栄華のあとでございます」と、かつての王の寝所に案内されたときも何の感動もせず「夜露をふせげればいいの
だ」といって重い長靴のまま絹の夜具の上にあがり、長剣をひきよせて眠った
。韓信は妻を持たない。妾もなかった。人がそ
の理由を聞くたびに韓信はその質問そのものが不思議でならないように、「ワイ陰城下の貧士に娘をくれるような物好きが
いたとおもうか」と、いった。
 韓信が食事を終え、戒装のまま寝所に入ったとき「なんだ」思わず声を上げたほどに驚いた。足元から白い雲が沸き立つ
ようにうごきやがて前後に纏わりついて韓信は長靴をぬがされ、足を湯の中に浸けられてしまった。「なんだ、お前たちは」
言ううちに絹のようにしなやかな手がいくつも動いて戒装をぬがされ、今度は体ごとたらいの湯のなかに沈められた。
(ああ、カイセイが言っていた女どもとは、この者たちか)なぞが解けると、韓信は興味の半ばをうしなった。不意のことでも
あり体をさわられるのがわずらわしく、とくに湯浴みのあと絹の寝衣に着かえされた時は、これは私の習慣と違う、と声をあ
らげてしかった。
「私は戦いが続いている限り戒衣を脱がないのだ」
「わたくしどもは陛下の御寝のおやすらぎのために仕えております」
「わしは陛下ではない」
「まあ、王のことを陛下と称え奉るのは当然ではございませぬか」
「わしは斉王ではない」
「では斉王はどなたでございます」
(だれだろう)、厳密に言えば、東方まで逃げていった斉王広こそそうであろうが、この乱世ではどの王も自立の要素が濃く、
その資格は武力に拠っている。いったん軍隊をうしなった王はひとびとは王とはみとめないのである。
「ところで御寝のぐあいはいかがでしょうか」カイセイは急に話題を変えた。
韓信は何のことか言葉の意味が分からず、カイセイの顔をじっと見つめていたがやがて気づき、「ばか」といった。わけも
なく、顔が赤くなった。
項羽の記述
ほんの先刻、楚の壮士がそこにいた岩の上に別の巨漢が立ちはだかっていたのである。ローファンは夢中で次の矢を構え
た。巨漢は弓さえ持っていない。両者はせいぜい40メートルの距離であり、ローファンの腕なら敵の体のどの部分でも射抜
くことができた。が、敵は肉体ではなかった。気が凝って渦を巻き、そのまわりが炎のように燃えている一個のおそるべきな
にかだった。甲冑の金ぴょうがかがやき、朱が燃え、かぶとの目庇の銀が陽をするどく跳ね返していたが、それよりもすさま
じかったのは、炬のような両眼であった。両眼がいかり、数千の矢の束をローファンの細い目に射注ぎ込んでくるようで、ロ
ーファンは正視する能力を喪った。それでもなお弓をひきしぼろうとしたとき、巨漢が真っ赤な口蓋をみせて叱咤した。声は
すさまじい殺気になってローファンを圧倒し、体中の腱が溶けるように萎えてしまった。ローファンは馬から萎れるように降り
てしまい、馬を置き捨て後は病み犬のような足取りで径をよじのぼり、付近の楼に逃げ込んだ。
楼の中でふるえ、二度と潤むこうをみることをせず「項王だ。項王が出た」と、うわごとのようにつぶやきつづけたという。
義とは、骨肉の情や人間としての自然の情(たとえば命が惜しい)を超えて倫理的にそうあらねばならぬことをさす。義は戦
国期にできあがった倫理ではないかと思われる。のちに儒教に取り入れられて内容が複雑になり、また反面、義という文字
から儀礼の儀という文字がつくられてゆくように儒教では多分に形骸化されて礼儀作法とか、人と人とのつきあいの仕方と
いったものへ衰弱してしまう。だがこの時代は戦国期からほどもない時代だけに、この流行の精神は初期のたけだけしさや
壮烈さをうしなっていなかった。義という文字は解字から言えば羊と我を複合させて作られたとされる。羊はヒツジから転じ
て美しいという意味を持つ。羊・我は、「我を美しくする」ということであろう。古義では「人が美しく舞う姿」をさしたともいわれ
るが、要するに人情という我を殺して倫理的な美を遂げる。命がけのかっこうよさ、ということを言い、この秦末の乱世では
庶民はしばしばこの言葉を口にした。項羽が義ということでそのおじの項伯を不問に付したのは多分に流行思想に影響さ
れていたということも、言えなくはない。
項羽は虜姫を抱いたまま熟睡した。やがて乙夜(夜9時から11時まで)が過ぎるころ、眠りが浅くなった。遠くで風が樹木を
鳴らしている。風か、と思ったが、軍勢のざわめきのようでもあった。(あれは楚歌ではないか) 項羽は、跳ね起きた。武装
をして城楼にのぼってみると、地に満ちた篝火が、そのまま満天の星につらなっている。歌は、この城内の者がうたってい
るのではなく、すべて城外の野から湧き上がっているのである。楚の国は言語が中原と異なっているだけではなく、音律も
ちがっている。楚の音律は悲しく、ときにはむせぶようであり、ときに怨ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌である
ことがわかる。しかも四面ことごとく楚歌であった。
わが兵が、こうもおびただしく漢に味方したか。とおもったとき、楚人の大王としての項羽は自分の命運の尽きたことを
知った
。楚人に擁せられてこその楚王であり、楚人が去れば王としての項羽は、もはやこの地上に存在しない。しかしこの
楚歌はどういう人々がうたったのであろう。城のまわりに居るのは、韓信の軍で、楚兵はいない。あるいはゲイフ、リュウカ、
周殷という楚兵を率いる諸将が前面に出てきたのか。前面に出るとすれば部署がえがあったわけだが、既に韓信という
ものが先鋒である以上、劉邦があとにしこりをのこすそういう処置をするはずがなかった。古来、韓信が兵に楚歌をうたわ
せたのだという説がある。しかし韓信の作戦癖からいえばその奇想はつねに物理的着想で、このように項羽そのひとの
心の張りをうしなわせるような心理的効果を考えていわば陰気な発想をとるとはおもわれない。歌は、自然にわきおこった
のであろう。しかし、どういう人々が歌ったのかとなると繰り返すようだが、わからない。あるいは風に乗ってきこえてきた似
たような音律を項羽が聞き間違えたのかどうか。いずれにしても項羽はこの歌によって寝に就く前の様子とはちがった行動
へ方角を切り替えたことはたしかであった。

項羽と劉邦〈下〉 (新潮文庫)
項羽と劉邦〈下〉 (新潮文庫) 司馬 遼太郎

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【民族意識系】
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.07.22: タイ旅行 農業と宗教vs金融と資本主義
2009.07.21: タイ旅行 究極の製造業である農業
2009.07.08: 世界一レベルの低いDerivatives Investorが生まれた理由
2009.07.07: 世界一レベルの低いDerivatives Investor
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2 
2008.06.20: 美の基準 ~民族を超えたArbitrage
2008.05.13: 語録 ~中国のお友達





項羽と劉邦 ~広大なる中国大陸

劉邦とその幕僚は、素人だけに気が変わりやすい。米蔵の中に入りかねている鼠が、外壁のそばにこぼれた米を食い散らかして
は他の米蔵に走っていくような具合であった。高陽の町には「狂生」と、町の人々から呼ばれている人物が住んでいる。狂など
というのは、後世、思想家や文人が、みずから現実を超脱する気分をあらわす時に頻用し、いわば姿の良い言葉になったが、
この時代、町の人がそう呼ぶのは、素朴な意味での侮辱語であったにちがいない。姓名は麗(麗+おおざと)食其(レキイキ)
という。(麗+おおざと)などというむずかしい漢字は地名と姓にだけつかわれて、文字そのものに意味はない。名が食其という。
食をわざわざイと発音する例はめったになく。人名の場合にまれにそれがあり、この音は後代ほろび、日本の漢音にも現代中国
語にも継承されていない。食其(レキイキ)は、その姓名からしてすでに偏屈者のにおいがあった。弁才に長じ、たれに対して
も、木で鼻をくくったような態度で接した。彼の学派は儒教である。

この本全般を読んで思うのだが、中国は広い。あまりにも広い。そして人も多く、飢えも多い。これが中国と日本の歴史というか
文化土壌の大きな違い
であろう。兵糧・輸送=兵力と。徴兵だ訓練は必要無い。飯があれば人が集まり、飢えによる本能的な
怒りが最大の士気と訓練と。だから裸一貫になっても、軍の建て直しはあっという間でできたというような記述が随所に見られる。

(官吏(カンリ)というのは、なと弱いものだ)と、劉邦は思わざるをえない。西進する沿道の諸城は、みな南陽郡の太守にな
らって降伏してゆくのである。以前の封建制ならばもし劉邦のような外敵が侵入した場合、その地域ごとの王のもとに家臣団が
結成して防ぎ、領民までがそれを支援して頑強なものであったが、法家主義のもとに封建を全廃して郡県を置き、官僚をもっ
て行政者とした秦の制度の場合、国家がうまくいっているときの運営には最適だがひとたび帝国が危難におち入ると官僚はわが
身を保つのに汲々としその治所を死守しようとはせず、また下僚や人民の側も官僚を主人として忠誠心を発揮するということは
ない
。すくなくともこの段階になって官僚制の弱点があらわれてきた。

>中国の地図が、本についているかと思うが、同時に現代中国地図も見ておいたほうが良いだろう。
咸陽だ中関だって、今となっては話題に上らない山奥の話なんだが、どうやらウイグル、チベットよりはかなり手前、陝西省
(せんせいしょう)あたりだ。山西(サンシー)省の隣なのか・・・。昔、山西の子と遊んだなぁ・・・、英語ができる子だった・・・。
歴史書、『史記』「蒙恬列伝」あたりを読んでみても良いかもしれない。
陵墓 兵馬俑、すげーなぁー、それにしても項羽と劉邦、映画も漫画もあるみたいだし、Wikiでもザクザク出てくるなぁ・・・
サラペイリンよりも有名なんだ・・・、知らなかったよ。

劉邦軍の構成
張良を帷幕の謀臣、全軍の総司令官は韓信であり、後方でいっさいの補給に任ずるのは蕭何。中国史上、それぞれの役割
においてこの3人よりすぐれた者はまれと言っていい。
これらは紀元前206-205年にあたっている。西にローマという、市民性の高い巨大な文明が燗熟期に入っていたが、地球の
他の部分では劉邦のいる中国大陸が右とは異質ながら文明の高さを誇っていた。あるいはひとびとの文明感覚の繊細さにおい
ては比類が無かった。ただ、劉邦の属する中国社会は徹底して灌漑農業社会で、主権者は水を制すれば水の及ぶ限りの地域
全体を制する
ことができたという点、ギリシャ・ローマ世界と異なる。そのことは既に項羽の言動に表れていた。
「古の帝は、その領土は方千里であったといわれていますが、その都はかならず上遊(河川の上流)でありました。」
川上を制すれば川下の農民の水を制せられ、抗うと水をうしない、田畑を枯らし、そのあたり一円のひとびとが餓死してしまう。
項羽の使者のいうとおり、古代の王朝が土地を支配したのはたしかにそういうぐあいであった。中国大陸は、乾田の非米穀物、
水田の米作、草原の遊牧、河川や沿海の漁業、山中での冶金といったふうにあらゆる古代的技術集団が流入し雑居し相互に
影響を与えたために、農民個々が個人として独立せず、その独立性が尊ばれず、ついにギリシア・ローマ風の市民を成立させ
なかった

しかしことのことは文明の進み方が遅れているというものではなく、単に生産社会の事情が異なっていただけに過ぎない。むし
ろ逆にいえば、灌漑農業社会の古代における高度の発達のために、ギリシア・ローマ世界よりも、一定面積の上ではるかに多
くの人口を養うことができた。これらの事情のために地域ごとに農民を密集させ、密集している分人々の個性をすり減らせ、ギ
リシア・ローマに比べて人間の独立性という点を希薄にした
。しかし一面、ことがあればあらゆる地域にいる農民が、地球上の
どの社会常識にもあてはまらないほどの規模で一定の場所に大密集をとげえた。この点は、ギリシア・ローマ世界では考えら
れもしないことであった。さらにこのことはこの大陸にしばしば政治上の奇蹟を生む結果にもなった。例えば易姓革命がそうで
あった。
陳平が劉邦にいう
「賢者や勇者は自尊心が高うございます。このため陛下のもとに集まってくる将領といえば何人かをのぞけばクズのような男ば
かりでございます。みな陛下の気前のよさをいいことに集まった者でございますから、欲ばかりが深く、節義に欠け、陛下のため
なら死ぬという者がすくのうございます。そこへいくと項王の諸将はちがいます。」 范増、鍾離昧、龍且、あるいは周殷・・・
とあげてから、これらの人々は将軍として卓越しているだけでなく項羽の臣下に対する礼と愛に応え、廉潔で私心なく、それぞ
れが人間として大きな峰をなしております、という。
しかし、項王にも病がございます。猜疑心。
楚軍における傑出した四人の将軍が、漢の常識では信じられないようなことだが、実質的な行賞を受けていない。つまり項羽は
この大功ある者に地を割いて王にしていないのである。項羽の吝嗇によるものであった。

項羽と劉邦〈中〉 (新潮文庫)
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stars項羽と劉邦の静かな逆転が、私たちに示唆するものは
stars劉邦もなかなか可愛いかな
stars(おれは、つまらぬ男だな)劉邦 本文から
stars役者は揃った
stars四面楚歌

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【民の欲と国家】
2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.10.07: 物欲の定義
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.04.15: 貯蓄率にみる人々の自信度合い
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性


項羽と劉邦 ~秦の倒壊、乱世の到来

劉邦
「俺は竜の子だ」おれが尋常な人間であるかないか、からだじゅうの黒子の数をかぞえればわかることだ。「72個だ」
すべての物質は「水火木金土」の5つの元素に帰するという五行説、当時1年は360日しかない。この数値を五行
の5で割れば劉邦の黒子とおなじ数72になる。だから俺は特別な人間だ、と劉邦は言う。
しかも、この理論には抜き差しならぬ実証があった。劉邦の顔であった。「あれは竜の顔だ」
まず眉の骨が高く、それがまるく弧を描いている。顔は全体に中高で、鼻柱においていっそう隆くなっており、鼻の肉もた
っぷりついていてよく伸び、その姿が心地よい。竜の顔であった。もっとも、竜がどういう顔をしているのかたれも見たもの
はいない

>もっとも、竜がどういう顔をしているのかたれも見たものはいない。
これ良いね。こういうノリ好きだな。知的な突っ込み。あー、やっぱり遼ちゃん、大阪人なのね。
でも私が見た中で最もお洒落な大阪人の突っ込みです。これ。あっぱれ!!

秦の将軍ショウカン様への投稿のお手紙 written by 陳余
まず、秦の歴世の名将の運命から説く。今は昔のことながら、秦の白起将軍(~紀元前257年)を想起されよ、と陳余はいう。
白起の軍功はめざましく南方ではエンやエイを平定し、北方では馬服君の大軍をやぶってことごとくあなうめにし、攻城略地の功
はあげて数うべかざるほどであった。ところが王(秦の昭王)によって白起はその年爵を奪われ、咸陽からも追われ、自殺を命じ
られた。また近くは秦の蒙テン将軍(紀元前210年)を想起されよ、と陳余は言う。蒙テンは始皇帝の命をうけて斉を攻め、大
功あり、ついで30万の兵をひきいて匈奴をオルドスに討ち、長城を補修して国境を鎮めた。でありながら始皇帝の死とともに宦
官の趙高の策略にかかり、自殺させられた。なぜ秦においてはそうなのか、と陳余は言う。功績がありすぎると、それに報いように
も土地が無いため、法にかこつけ、誅殺する
ことによって問題を片付けてしまうのだ。それが秦の伝統的なやり方なのだ、あなたは
秦人だからよくご存知だろう、という。さらに陳余は、秦将の運命を歴史的に説いて現在におよぶ。いま人心は秦を離れ、反旗を
ひるがす諸将は日に日に増えている。しかしあなたの軍隊は逆に損耗するのみで日に日に減っている。これは天が秦を亡ぼそうと
していることの一つの証拠である。趙高が咸陽の官中・府中を牛耳ってしまっている以上、ショウカンが誠忠であればあるほど趙
高に憎まれ、軍功をたてればたてるほど趙高にとっての邪魔者になり、結局は皇帝の命令であなた腰斬の刑を受ける、あなたの
家族はかつての白起や蒙テンの家族と同様、みなごろしにされるだろう、と陳余は言う。

>光栄の三国志では、簡単に寝返りが起きて、引き抜き合戦になって面白くないと聞いている。
>三国志時代と歴史は違うものの、このようなことが背景にあったのだろう。

ショウカンが項羽に投降した。
項羽の楚の兵は、秦兵を奴隷扱いした。「我々はどうなるか」という狐疑が秦兵を動揺させ続けている。「いっそ、反乱を起こす
か」この種のささやきは、項羽にまで上申された。
秦兵というのは歴史的にも非秦人にとって強兵という印象が強く、捕虜になっても恐怖を感じざるを得ない。その上、20余万と
いう人数はいかに丸腰でも看視側の楚軍よりも多く、捕虜として連れて歩くには荷が重すぎた。項羽は決心した。
新安での秦軍20余万の宿割りはゲイフの配下の将校が決めた。城外でしかも地隙の多い地域が野営地として指定された。
垂直断崖で囲まれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。深夜、ゲイフ軍が秘密の運動をした。かれらは
足音をしのばせて黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけあけたのである。次いで、一時
に喚声をあげ、包囲を縮めた。この深夜の敵襲で、20余万の秦兵たちがぱにっくに陥った。かれらは一方に向かって走り出し、
たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖の向こうの空を踏み、そから人雪崩をつくって谷の底に流れ落ちた。
大虐殺は世界史にいくつか例がある。一つの人種が他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが
同人種内部で、それも20余万人という規模で行われたのは世界史的にも類がなさそう
である。普通は大虐殺は兵器を用いる
が、殺戮側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように被殺者側に恐慌をおこさせ、彼ら自身の意思と足で
走らせて死者を製造するという狡猾な方法は、世界史上、この事件以外に例が無い。翌朝、項羽軍は総力を挙げて土工にな
った。すきやくわを持って断崖のふちにたち、数日かかって20余万の楚兵の死骸に土をかぶせ、史上最大のあなうめを完成した。
韓非子は、血縁、地縁の調整の上に辛うじて成立している君主権ではその働きが小さく、いざというときには命令権も指揮権
もすみずみまでとどきにくい、という基本的な疑問の上から、法をもって単純明快に世を治めるという法家の思想を築いた。老
子は政治において無為の道を説いたが、韓非子はいわば老子を政治学に仕立て上げたといえなくはない。老子も韓非子も、
その思想の絶対の前提として民はあくまでも無知無欲でなければならぬ、というところに置いており、多分に自然物になってし
まうはず民は、君主に対し、その存在や統治の重さとして感じない。また重さとして民に感じさせる政治は不可である、とする
あたり、思想としてもっとも魅力に富む部分だが、しかし底のない壺のように現実から遊離しているとも言える。

>うーん、理解できないなぁ。私利私欲にまみれている人間のことを民と呼んでいるのだが。

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2010.08.25: 怠惰な香港 昼休み2時間は中国様のお怒りに触れたか?
2009.12.03: Multi Market Derivativesの注意点 営業日問題
2009.09.22: 休日出勤は株屋としての誇り
2008.07.31: 体感時間 時差と経度
2008.03.23: イースター休暇
2008.02.08: 中国の新年にちなんで、太陰暦を考える
2008.02.07: 新年が明ける
2008.01.06: 2008年 各国の祝日


項羽と劉邦 ~始皇帝と趙高

秦の始皇帝、かれが六国を征服して中国大陸をその絶対政権の下に置いたのは、紀元前221年である。皇帝という
言葉が新語
であり、かれ自身が創作した。王制や貴族制を一挙に廃し、中央集権というふしぎな機構をもちこみ、精密
な官僚組織の網の目でもってすべての人民を包み込もうとした。包み込みの原理は法であった。自分のことを「朕」と呼ん
だ。一人称を占有
したのである。この皇帝制度の創始者はひどく土木工事を好んだ。(万里の長城、阿房宮)

わぉー。いきなりキタね。つかみはばっちりだよ。遼ちゃん。さすがだなー。
ぉっ? ちょっと読んでみようかな、と思うような書き出しだ。
朕が陸海将兵の勇戦
朕が百僚有司の励精
朕が一億衆庶の奉公
を思い出す。

「神仙はかならず陛下のもとに参ります」そのときこそ神仙が陛下に不死の薬を献ずるでありましょう。しかし一向に神仙が
始皇帝の部屋に舞い込んでこなかった。盧生は窮してしまい、それは陛下の生活のあり方がよくないからでございます、と
ひらきなおった。神仙は余人を嫌う。陛下の部屋に舞い降りようにもたえず家来どもがいて舞い降りられないのでございま
す。という意味の理屈を整然たる理論と実証をもって述べた。以後、余人を身辺に近づけなくなった。ただ、宦官の趙高
だけは例外であった。例外を設けておかなければ皇帝としての仕事ができなかった。趙高だけが例外とされたのは
「宦官は人ではない」という理由に拠るものだった。宦官はいうまでもなく男根を切り取られている。趙高はひそひそと歩く。
特別な呼吸法でも心得ているのか、始皇帝の身辺で身のまわりのことをしていても、人間がそこにいるというわずらわしさ
を始皇帝に感じさせず、また床に敷き詰められた黒い(石専セン)の上を趙高が歩いても足音もしなかった。歴史上最初
に出現した皇帝というのは新奇でかつ地上絶対の権力であっても、皇帝の私生活の面倒を見るこの宦官にとってはただ
の初老の男にすぎなかった。それも並はずれた荒淫の人であり、その荒淫をつづけたいがために衰えを怖れ、自分だけが
死をまぬがれたいと妄想している滑稽な男
にすぎず、またそれ以外の皇帝を想像する必要は宦官という職務からいって
すこしもなかった。始皇帝と丞相の李欺のあいだをかれは書類を持って往復している。始皇帝の言葉も、趙高が代弁した。
ある朝、暗いうちに始皇帝が恩諒車の寝台の上で息を引き取ってしまった。そこに下僚の宦官が3人居る。「聞け」
趙高はおそろしい顔をしていった。「陛下はなくなられたのではない。この車のなかで生きておられる。咸陽にへ還幸され
までは、生きておられるのだ」もしそうでない事実を口外すれば、不忠の者として殺す、九族まで殺す、よいか、といった。
あついために、始皇帝の死体の腐敗は早かった。死臭が車の中に満ちた。地上ただ一人の絶対者も死ねば死臭を発
するだけというのが、なにか滑稽なようであり、哀れでもあった。かれは趙高にとって死体であり続けねばならなかった。
(もう少しの我慢だ)車の中で趙高は思った。擬似皇帝である趙高はきをうしないそうなほどのにおいの中で、呼吸し
ていた。夜間は腹心の宦官に交代させて車内で伏せさせた。この臭気の中ではとても眠ることはできず、一夜で宦官は
死体寸前の衰えを見せて車から降りてきた。昼は趙高が車内にいる。欲に取り憑かれでもしていないかぎり、こういう
我慢ができるものではなかった。ただおそれるのは、外部にこの臭気が漏れることであった。このため趙高は数日目から
馬車を並行させて走らせている。始皇帝が開通させた軍用道路のろ幅はすべて二車線で、二車線であることが始皇帝
の生前よりも死んで役に立ったことになる。並行して走らせている馬車には、飽魚を一石(30キロ)も積ませていた。飽
魚というのは干物にした魚のことで、臭気が甚だしい。「陛下がそうせよとおおせられた」と供奉の連中にはふれておいたが
、供奉の者から見れば始皇帝がなぜそんな物好きなことをするのかわからない。そのことについては趙高は説明しなかった。
このためにたれもが不審に感じ、なにごとかがおこっているという疑念をもった者がすくなからずいたにちがいない。
結果、長子の扶蘇を自害に追いやり、末子の胡亥を二世皇帝に即位させた。

名キャラ登場でございますね。趙高かなりかっこいい。
宦官、自ら志望して宦官。その勇気がこの俺にあれば・・・。パイ●カットでびびってる場合じゃねぇ!!
影の人でありながら、表の人になっちゃってるのはちょっといただけないけど、立ち位置は謙虚で良い。
俺もそうなりたい。その前に、俺に必要なのは、勇気。切る勇気。断ち切る勇気!!
もーぅ、増えちゃって増えちゃって、「趙高、良いな」とか言ってる場合じゃねーよ。子供居る宦官って居たのかよ。
お前、今、俺を笑ったな? 馬鹿にしたな? お前、切れんのかよ!! やってみろ!

上の御英断をもって、せめて阿房宮の工事だけでも中止してくだされば治安はよほど安定するだけでございます。
と老臣たちは進言した。胡亥はいった。
「およそ、人たる者が、なぜ天子を尊ぶか。天子に徳があるために尊ぶのではない。尭舜のように貧であるがゆえに尊ぶ
のではない。奴隷よりも激しく働くから尊ぶのではない。天子は天下を保有する。それも一人で保有している。天子たるも
のは天下の富を保有し、天下の人民を意のままに使い、その他すべてをいのままにふるまって欲望をきわめつくしてはじめ
て下々は天子とは人間にあらず、格別に尊貴なものだと思うようになる。
関中にあっては、宦官の趙高は、容儀から顔つきまで、以前とは変わってきている。以前、先帝の壮んな頃は餌を探す小
動物のように目の動きがすばやく、先帝の心をよく読み、日常、先帝が用を言いつける前にいちはやくすべるような足どりで
それを持ってくるというぐあいの男であった。そのため、つねにひざをわずかに曲げ、首をたれ、人間以外の-、かといって野獣
でも家畜でもない-一種特別な動物のような感じ
で先帝の周りに纏わりついていた。先帝の晩年、趙高はもはや生物し
ての先帝の一部に溶け込み、趙高がいなければ判断もできず、極端に言えば生存すらできないのではないかと思われるふ
うになっていた。このことは宦官という人ではないとされる存在の、芸として極地をきわめたものといっていい。ただ二世皇帝
胡亥との関係は先帝時代とまったくちがっていた。「秦帝国の立国に思想は何か」というふうなことを、趙高はたかだかとこの
若い皇帝に説く男になっていた。
胡亥の皇帝としての仕事は、後宮で女どもに惑溺しきってしまうということだった。それが皇帝の至上の善であるという。無拘
束の存在である皇帝たるものは、欲望を思いのままに遂げるということを天から許されているのである、と趙高はいう。趙高は
皇帝たるもの社稷を安んじねばならない、社稷を安んずる道は皇帝の種を増やすことである、つまりは婦人を御することが天
命にかなうための第一の道である、と胡亥にいった

趙高にすれば、章甘(ショウカン)が戦場で大功をたてて声望があがることをおそれている。もっともそうなったとしても非違を
みつけて勅命によって殺してしまえばそれですむが、ともかくも自分を怖れしめ、自分の意のままになる男に仕立ててしまうほう
が望ましい。このため、この座において、ときには威を見せ、時にはショウカンの心を撮るような笑顔を作ってみせた。趙高は笑
顔のわるい男だった。笑うと顔の皮がぬめつき、口元に豚の黄色い脂肪を折り曲げたようなしわができた。ショウカンはさすがに
薄気味悪かった。
(しかし、官僚どもはどの程度、自分に服しているか)ということが趙高にとって絶えず不安だった。あるとき趙高は宦官と女官
を試しておかねばならないと思い、二世皇帝胡亥の前に鹿を一頭曳いて来させた。
「なんだ」胡亥は趙高の意図をはかりかねた。
「これは馬でございます。」と趙高が二世皇帝に言上したときから彼の実験が始まった。二世皇帝は苦笑して、趙高、なにを
言う、これは鹿ではないか、といったが左右は沈黙している。なかには「上よ」と声を上げて、
「あれが馬であることがお分かりになりませぬか」と言い、趙高にむかってそっと微笑を送るものもいた。愚直な何人かは不審な
顔つきで、上のおおせのとおり、確かに鹿でございます、といった。この者たちは、あとで趙高によって、萱でも刈り取るように告発
され、刑殺された。群臣の趙高に対する恐怖が極度に強くなったのはこのときからである。
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イトマン・住銀事件 ~脇役 経済事件史顔ぶれいつも同じ

KBSで勢力拡大
日レースと同じ京都に本拠を置く民放局、近畿放送(KBS京都)。80年代後半に入って、許氏はKBSを舞台に勢力を
広げ、人脈を広くしてきた。関連会社のゴルフ場開発会社(KBS開発=現コスモセンチュリー)が146億円にのぼる融
資を受けた際、KBSの本社土地などに抵当権が設定された問題の責任を取って91年3月辞任した内田和隆副社長。
これと呼応するかのようにKBSの関連会社社長に許氏を就任させたこともあった。近畿放送の役員はフィクサーとか
黒幕と呼ばれる人物のグループが役員の大半を占めている
。社長は福本邦雄氏で、その関係者としては内田武宣
氏(竹下元首相の娘婿、元毎日新聞記者)のほか、常務の野村雄作氏(故野村周史氏の子息)の名前もある。伊藤
寿栄光氏、山段芳春氏のグループでは坂根義一氏(キョートファンド社長)、湊和一氏(キョート・ファイナンス社長)が
やはり取締役として顔を出している。
松尾家のお家騒動~雅叙園観光問題の発端
イトマン事件が表面化した直接の原因とも言われる雅叙園観光問題だが、そもそものきっかけは、84年に始まった
創業者である国三氏の率いる松尾家のお家騒動だ。オーナーの故松尾国三氏は九州の旅芸人一座の使い走りか
ら初めて、大物興行師にのし上がった人物。最後の興行師と言われた。雅叙園観光と大阪に本社を置く日本ドリー
ム観光は、どちらも松尾家をオーナーとする兄弟関係にあった。経営面でもドリームが保有する横浜ドリームランドな
どの中で、雅叙園観光が食堂や売店を営業するなど提携していた。しかし創業者の松尾国三氏が亡くなった84年1月
から、日本ドリーム観光を舞台に内紛が勃発した。未亡人のハズヱ会長と、大番頭である坂上勉社長の主導権争い

がきっかけだった。坂上社長は雅叙園観光の買占めを進めていた大阪の仕手集団、コスモポリタン池田保次会長と
手を組んで自社株を買い集め、オーナーのハズヱ会長の追い出しに動いた。これに対しハズヱ会長派は、ドリーム株
を買っていた大阪の仕手筋、豊光実業と組む一方、元警視総監の秦野章元法相ら警察官僚OBに協力を依頼、防戦
した。同年4月にハズヱ会長が反撃に出て、坂上社長のコスモポリタンへの不明朗な融資を暴き、坂上社長を辞任に
追い込む。これを受け、坂上社長派はコスモポリタンの株をバックにハズヱ氏らを追い出すという具合で対立はエスカ
レートする一方だった。結局87年4月に両派は、ハズヱ派はドリームを、坂上派は雅叙園観光を取る」ということで手打
ちになったが、このお家騒動の間に池田会長は雅叙園観光株の買い集めを進め、同社の乗っ取りにまんまと成功した。
ブラックマンデーでコスモポリタンは大打撃を受け、資金繰りが急速に悪化した。池田氏の会長辞任により、雅叙園
の経営権は「香港資本グループ」に移ったとされている。ディクソン・ワン・カンパニーなど香港法人の名義が登場した
からだ。しかし、香港資本グループへの経営権委譲は見せかけだった。名義だけで、株式を押さえていたのは日本
レース事件で手形を乱発、甘い汁を吸った在日韓国人実業家、許永中氏のグループだった。88年春先から息のかか
った経営陣を通じて手形を乱発しはじめた。池田氏は結局、失踪、「今から東京へ行く」、秘書に言い残して姿を消した。
海外逃亡説、拉致説、殺害説などがあるが、いまだにナゾ
のままだ。
池田氏が去った後の雅叙園観光の経営状態は風前の灯と言ってもいいほどだった。有力経営拠点である神戸ニューポ
ートホテルを手放したほか、イメージダウンも手伝って88年27億円の売上高が89年12億円強まで激減した。とりわけ
700億円という巨額にのぼる手形の処理が悩みの種だった。年が明けて89年、「手形問題の責任をはっきりしない限り
監査証明は書けない」と譲らない公認会計士や手形発行に関わった人物の告訴をちらつかせる経営陣の動きにより、
5月の株主総会が乗り切れるかどうかが極めて微妙な情勢となった。そこで「手形の面倒を見る」と登場したのがイトマ
ン事件の中心人物、伊藤寿栄光
、協和総合開発研究所代表取締役だった。
雅叙園が保有する日本ドリーム観光株
大蔵省への届け出や有価証券報告書には800万株保有と記載されている日本ドリーム観光株のうち、126万株が行方
不明になっている。さらに協和総合開発が雅叙園観光の経営権を握った1ヵ月後に日本ドリーム観光株700万株をダイエ
ーの子会社、ドリーム開発に1630円で売却したことも明るみに出た。それが事実なら90年有価証券報告書に記載され
ている簿価一株57円というのは虚偽記載ということになる。
大阪府民信組問題は、「金融自由化の落とし穴」の一面がある。都銀は取引先企業にコマーシャル・ペーパー(CP)を
発行させて手数料を稼ぐ。さらに資金調達した企業には都銀と比べ預金金利の高い信用組合を紹介する。信組側は
より高い貸出金利を取るため、リスクの大きな不動産関連融資に走るという構図だ。府民信組問題は信組本来の中小・
零細企業、個人向け融資に徹していれば起きなかったといえる。
住友銀行の蹉跌 浮利を追う経営土壌
住友家の家訓にはあまりにも有名な言葉がある。「浮利を追わず」だ。しかしイトマンの過大な債務問題や仕手グルー
プ「光進」への巨額な融資不正仲介での元支店長逮捕など、住友銀行への信頼を揺さぶる不祥事に共通するのは、
文字通り「浮利を追う」経営土壌の問題点だった。主要な取引先が重工業に偏り、関西産業界への依存度が高かった
住友銀行は、1950年から60年代にかけての産業構造の変化や関西産業界の地盤沈下の過程で苦しい闘いを強いら
れた。この時期に取引となった堀田氏は、時には企業切り捨てと批判された合理主義を貫き、東上作戦にも力をいれ、
瞬く間に住友銀行を利益ナンバーワン銀行に引き上げた。このあと、富士銀行との熾烈な収益順位争いを続けたが、
磯田氏が頭取になった後に、旧安宅産業向け問題債権処理に伴って首位の座から遠ざかる。ところが大方の銀行が
行員評価に「減点主義・損失防止第一主義」をとっていた時代に、磯田頭取は「得点主義・利益第一主義」を徹底、す
ぐに利益トップに返り咲いた。こうした風潮は金融ハイテク分野で常に都銀の最先端を行くといった利点を生み出したが
半面、「利益につながれば少々のことは許される」的なムードを行内に定着させた面があることは否めない。その代表
的な人物の一人が90年の融資の不正仲介で逮捕された(「光進」、小谷代表への不正融資)、山下章則元青葉台支店
長だった。

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イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑

絵画取引と並んで、特別背任容疑で強制捜査の対象となったのは資本金わずか1000万円の地上げ業者
「太平産業」(大阪)に対する融資
をめぐる疑惑である。同社は91年3月末、約2000億円の負債を抱えて事実
上倒産した。融資は大阪、東京、福岡など約30箇所の不動産事業の資金でイトマン内部文書によると90年
9月のピーク時で、約1600億円にのぼった。このうち、大阪府警が注目しているのは伊藤氏の関連会社を通
じてトンネル融資された資金。この一部を伊藤氏が自らの資金などに流用した疑いがもたれている。さらに、
太平産業は許氏周辺に100億円以上を貸し付けたことも明らかになっている。イトマンの債権がこげつくのは
必至の情勢だ。
大阪府民信組の貸付が、伊藤氏関連企業など特定企業に対する大口融資に偏っており、監督官庁の大阪府
が行政指導に乗り出していることが表面化したのが1990年の年の瀬が押しつまったころのことである。協和総
合開発研究所など伊藤氏周辺に約860億円など、91年1月時点で伊藤氏、許氏関連融資は約1200億円と同
信組の融資額の半分近くにのぼっていた。
大阪府民信組の設立は1915年、90年10月時点預金残高、3560億円程度の目立った存在ではなかった。その
中堅信組で「えっ」と信組業界を驚かせる人事があったのが85年5月。不動産業者として当時からあまり評判の
良くなかった「新千里ビル」の代表取締役でオーナーだった南野氏が突然大阪府民信組の理事・会長の座につ
いた
のである。当時の事情に詳しい関係者によると、永く経営に携わっていた理事長が急死、同信組と関係が
深かった三和銀行出身の水野忠護氏が理事長に就任、その矢先にある融資が焦げ付いた。水野氏はその道
に詳しいとされる南野氏に担保調査を依頼した。「南野氏はそこで水野氏絡みの何か弱みをつかんだのでしょう
ね」という。監督官庁の大阪府商工部はこの人事に実は難色を示した。「南野氏は過去に銃刀法違反で逮捕さ
れたこともある。広域暴力団山口組とのつながりも噂される。金融機関のトップにふさわしくないとの判断からだ
ったという。ところが大阪府首脳部から南野氏を推す鶴の一声が入った。当時の岸昌大阪府知事の後援会長は
野村周史氏。大阪府政の大物フィクサーと呼ばれた人物である
。その野村氏の”自称養子”を名乗っていたのが
許永中氏である。南野氏と許氏を結ぶつながりはこのころからあったようだ。
住友銀行首脳の間で、内紛がある。イトマン再建を巡って「もう少し様子をみる」磯田会長派と、巽頭取、玉井
副頭取派。アングラ情報作戦が磯田会長の判断に影響を与えたことは確実で、住友銀行のイトマン再建につ
いての意思決定は先送りになった。それをいいことにイトマンは6月以降も無謀な投融資計画を推進した。
米国カリフォルニア、ハワイで住宅開発事業、892億円、韓国の財閥、大宇グループとの間で新会社設立に調
印した。しかし発表になった「新会社のあらまし」を読むと、事業内容の一つに「美術、工芸品、貴金属などの
輸出入と売買」とあり、この時点では明らかになっていない許永中氏との絵画取引との関連を窺わせるものだ
った。密かに進行していたのは絵画取引ではない。熊取谷稔氏率いるコスモワールドグループから、ゴルフ場
の会員権の独占販売権を950億円で取得
したのもこのころだ。熊取谷稔氏はゴルフ場経営を足場に東証二部
上場のオリムピックなどを買収、事業拡大してきた。リクルート事件ではNTTの真藤恒前会長との関係の深さが
取り沙汰された人物だが、その経営するゴルフ場は会員数が過大で有名。
伊藤氏は一見温厚な青年実業家風だが、コワモテの”地上げ屋”として知られる。実業家としてのスタートは67
年に始めたバッティングセンターだった。68年にはインテリア会社を興し、72年に始めた「平安閣」という冠婚葬
祭互助会で成功を収めている。伊藤氏の名前を一躍有名にしたのは90年1月、協和総合開発研究所が雅叙園
観光の筆頭株主として正式に登場してからだ。雅叙園観光は関西の有力仕手筋、コスモポリタンの池田保次会
長に乗っ取られた。だが、コスモポリタンは700億円の手形を乱発したあげくに倒産し、池田氏は失踪した。
>伊藤氏は一見温厚な青年実業家風
ホントかよ? まぁ、実物見たことねぇんだけどよ。にわかに信じがたい記述だな。

許永中氏が表舞台に登場 5%ルールで明るみに
90年12月、イトマンの実質的な筆頭株主に不動産業の海浜開発(本社、千代田区、井上昭徳社長)という耳慣れ
ない企業が登場した。大蔵省が株式の大量保有者に株式数や取得目的の報告を義務付けた5%ルールにより、
闇の中に居た株主が続々と明らかになったが、海浜開発の名前が表舞台に表れたのもこの時が初めてだった。
海浜開発によるイトマン株保有数は20,937,000株(10.27%)とそれまで筆頭株主だった大正海上火災3.9%を大きく
上回った。海浜開発の経営実態は不透明で、イトマンとの関係や株式買い集めの狙いについて様々な憶測を呼ん
だ。だが、その後、海浜開発の背後には関西の実業家、許永中氏が存在することが徐々に明らかになった。
不自然な絵画取引
関西新聞ルート557億円、ピサルート121億円、相場の倍を越す取引があった上、関西新聞ルートの取引について
当初は売買だったのを90年10月12日付で合意解約、絵画を担保にしたイトマンから関西新聞など三社に対する融
資に切り替えるという不自然な処理も明るみに出た。関西新聞、関西コミュニティ、富国産業、取締役の一部が同
じ顔ぶれで、三社とも許永中氏の関係会社であった。
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イトマン・住銀事件 ~主役のお二人

主役二人の横顔 ブログなんでホントに横顔貼ってみました。
伊藤寿栄光
itou-suemitu.jpg
氏は1944年、名古屋市生まれ。
中京商業卒。
77年に設立した建設コンサルタント
(実態は地上げ)会社、
共和総合開発研究所が活動の中心。
ゴルフ場開発会社、
ウイングゴルフクラブ(本社・名古屋市)、
宗教法人修法会(広島県福山市)、
冠婚葬祭会社ライフベルモニー
(北海道室蘭市)などの代表や社長も務める。
地上げのプロと言われる。

こぇーーーーー!
これだけやっておきながらもネットで
写真は全く出てこない。
まさにモノホンですよ。この人。

許永中
kyo-eichuu.jpg
氏は1947年、大阪市生まれ。
大阪工業大学中退。
大阪国際フェリー、
関西新聞社など
の事実上のオーナー

在日韓国人実業家で、
韓国の政財界とのつながりもあるとされる。
日本名にして野村栄中、
藤田栄中と名乗ることもある。

ま、こちらはたまに見ますな。
そこそこ顔も出てるし。

絵画取引の全体像
90年9月、大阪市内の金融業者のもとに一枚の手形コピーが舞い込んだ。額面5億円。イトマンが振り出し
大阪の夕刊紙、関西新聞社が受取人になっていた
。手形が絵画購入代金としてイトマンから許氏側に支
払われた140億円の一部だったことがわかる。しかも絵画の購入価格は相場の2-4倍だった。同年12月、
河村良彦全イトマン社長に「絵画取引の窓口」と名指しされた加藤吉邦専務が自宅で自殺。その直後に、
通常は添付されることのない価格の「鑑定評価書」の存在が明るみに出て、絵画取引という「商行為」が
一気に「疑惑」に発展したのである。
イトマンの内部文書などによると、同社は90年1月から8月末までの間、許氏がオーナーを務めている関西
新聞、関西コミュニティ、富国産業の三社から219点、556億円相当、セゾングループのピサから120億円
分の絵画、美術品を仕入れた。許氏は当初、絵画を担保にした融資をイトマンに依頼。これに対し、故加藤
氏は共同事業で絵画ビジネスを行うことを提案、伊藤寿栄光常務を通じて許氏に対して「いったんイトマン
に買い取らせた形の売買契約にしてくれ」と頼んだという。絵画を担保にした短期融資の形に戻した
91年末を期限とする返済契約を締結した。ところが関西新聞社が事実上倒産。許氏が差し入れた絵画に
は「西武百貨店塚新店美術部」名で発行した「鑑定評価書」が添付されていた。この評価書は、価格つり上
げのために作られた疑いが濃いため、背任罪の立証に重要な役割を果たすとみられるだけでなく、西武百
貨店をイトマン疑惑の渦中に巻き込んだ。「美術部」は同店に存在しないうえ、西武によると、店の名前も
「塚新」ではなく「つかしん」であった。印鑑もニセ物だった。さらに許氏が西武の大口顧客で親密な関係だっ
たことがわかり様々な憶測を呼んだ。
ところで、そもそもイトマンが絵画ビジネスを始めるきっかけとなったのは、セゾングループ宝飾品販売会社
ピサからの購入だった。住友銀行前会長の磯田一郎氏の長女夫婦が1989年ロートレックの作品群の購入
を持ちかけたという。この夫婦に5000万円の手数料がいったん、支払われたこともわかっている。河村氏は
住友銀行時代から磯田氏の懐刀として親密な関係にあった。

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【フィクサー・陰の存在】
2010.10.15: 道路の権力2
2010.07.27: 闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑 
2010.04.08: 野中広務 差別と権力 ~伝説の男
2010.03.03: テロ・マネー ~暗躍する死の商人
2010.01.26: 黒幕―昭和闇の支配者
2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね
2009.12.17: 俺の恋のライバルはツワモノ揃い
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2009.03.23: 闇将軍
2009.03.13: 裏支配
2008.07.08: Richest Hedge Fund Managers



香港性工作者 ~女性の権利

無償の家事労働。何の褒美もなく、不満を口にすることさえ許されない。「家庭の不和も、亭主が不甲斐無い
のも、子供の成績が悪いのも、みんなおまえが悪いからだ」と責められる。夫に対して生殖目的以外の無料
奉仕も拒むことはできず、男児を生まなければ役立たずと罵られる。十数年苦労した揚げ句、愛人をつくった
夫に家を追い出される妻もいる。主婦の領分である家事も、最近はフィリピン人のメイドの安い労働力に駆逐
されつつある。孤立無縁な専業主婦たちは社会と断絶され、人づきあいもない。ちょっとは女らしくおしゃれを
したいと思っても忙しくて鏡を見る余裕さえない。妻の運命は不特定多数の男に体を売る娼婦のそれとさほど
変わりはない。異なる点といえば有料か無料か
、運がいいか悪いかということぐらいである。妻に残されたの
は「貞淑」「愛情」「真面目」という切り札だけ
だ。家庭の主婦たちが結婚によって売り渡すものは、青春、労働
魂、自由、そして自らの生涯なのである。
そうだろう? だから俺は常に言っている。
「俺のためにな~んもしなくて良いぞ。だけど自分のことは自分でやってくれ。わかりやすくいうと金は自分で
稼げよ。なっ!!」
これ・・・意外にも、望まない女性も居るんですねぇ。自由と労働を買って欲しいそうです。
「すいません。間に合ってます。そんなもんに金を使う気は一切無い。」
ペーター、エリック、ジョン。彼ら三人は自称色男の独身貴族で、ガールフレンドに不自由はしない。彼らはこ
れまでよくバーで行きずりの相手を探すことがあった。エリックとジョンはかっこいいので、カウンターに座りさ
えすれば必ず収穫があるのだが、今では両者とも、いっそのことペーターと一緒にプロの女性を買った方が
いい、もうタダ飯をガツガツ食べたくないと思っている。「ただより高いものはないよ」3人は口を揃える。
タダ飯一食にありつくには、一晩中狩りに費やさなければならない。この時間のロスを計算すれば高級娼婦
を買った方が安くつくくらいだ。時間を気にしないとしても狩りをするほうだっていつまでも道化師になれる気分
とは限らない。魅力的な笑顔をふりまき、バカ話をし、お世辞を言ったり騙したりして、やっと一人の女を引っ
かけることに成功するなんて、まるでドタバタ劇
だ。それに女の良し悪しはその晩の運次第であり、狩人には
選択の余地がない。つまらぬゲームが終わっても、そのあとさらに問題が待っている。香港の行きずりの女に
ゲームのルールは通用しない。あらかじめ、一晩限りの遊びだと納得したはずなのに、彼女たちはいつも一晩
終わればもう一晩となかなか踏ん切りがつけられない。本来は善良な彼らだが、真面目な女の与えるプレッ
シャーの下では、やむを得ず心を鬼にして、玉の輿に乗ろうとする女たちに望みを放棄させるよう、しむけざるを
得ない。
こんなことはわかっている。世の殿方たちもそうだろう
しかしわからないのは、世の殿方たちがこれをわかっていながら、なぜ”素人”に手を出すのかという謎である。
どうして?
妾の中には、旦那の愛を繫ぎ留めるため、自ら進んで金を工面してやる者も多い。賢い男なら、女を囲うのに
は必ずしも金はたくさん必要ではないということをちゃんと知っている
。最初、十分に豪勢にしてやり、女心を
掴んでしまえば、その後は倍になって返ってくる、ということを。
中国のセックスマーケットの歴史は浅い。当初、客は単純な性交のみを求め、娼婦もセックスプレーを全く知ら
なかった。しかし近年、中国から娼婦が大挙して香港や台湾へ押し寄せ、果ては外国のチャイナタウンまで行
って売春するようになると、国際市場の中で、彼女たちは多種多様なセックス方法を学習した。そして帰国する
と新しく学んできた技を国内の客に伝授した。このように娼婦を通じて外部の影響を受けながら、国内の客の
好みも変化を遂げてきたのである。このことを見てもわかるように、娼婦も十分、社会に影響する力を持っている
が、単にセックスというプライベートな関係だけに限られているため、彼女たちの活動は社会に尊重されず、ま
た譴責もされないという、一種衝突のない状態の中にある。娼婦と社会の関係は非常に微妙である。娼婦は社
会のさまざまな集団の持ついかなる特徴も備えておらず、同業者同士の団結力も乏しい。このほか、顧客もお
そらく非常に体面を重んじる人々であろう。彼らは娼婦と親密な関係になる際、知らず知らずのうちに娼婦の生
活スタイルおよび価値観を受け入れている。こうしたことで、娼婦は客を通して、ある程度社会からの抑圧を緩
和させることができる。不公平な目にあうと、娼婦は個人的な不幸、あるいは誰かに迷惑をかけられたと考え、
社会制度のせいとは考えない。だが、このように矛盾を個人化する態度では、社会制度に厳しく反発する力を
呼び起こすことができない。抑圧を感じないのだから、革命をやる力などあるわけない。
弁護士をしているイギリス人の友人は言う。
相対的に見て、中国文化における娼婦差別は、他の国の文化よりずっと人道的だよ。西洋の娼婦は、『聖書』
においいてすでに十八層の地獄に落とされている
んだから。彼によるとヨーロッパの街頭で見かける娼婦の姿
は不潔で死んだような目をしているという。それに比べ香港や中国の街娼は、見た目も清潔で、この職業が決
してそう卑しいものではないと思わせる。中国の伝統的な第一夫人は亭主が外で遊ぶのを不潔だと恐れて、
自ら野の花を摘んで帰ることを提案し、娼婦が見受けされて妾になる例も少なくなかった。中国におけるこれま
での高級娼婦たちはみな厳格な訓練を受けて、すぐれた才能を発揮してきた。さまざまな故事においても高級
娼婦と風雅な文人や英雄豪傑との交わりが描かれており、それが不思議と歴史上に重大な影響を及ぼしてい
ることがわかる。これに対し、西洋文化はこれまで娼婦に対して情けをかけたことは一度たりともない。さすが
に現代になってからはあえて公然と娼婦に唾を吐きかけたりしないが、決してその尊厳を認めたわけではない。
西洋の娼婦はほとんど街娼スタイルであるため、売春禁止法の脅威を直接受ける。この厳しい抑圧の環境の
下では、自然に抵抗する力が生まれてくる。Gluttons and Libetines(マーストンベイツ著)という本には世界各地
における娼婦の権利獲得運動の軌跡が記されている。それによればロンドンの娼婦の団体は結束が固く、権
利獲得のための活動も活発であるという。あるロンドンの娼婦の団体では驚くべきことに売春業関係者が一致
団結してサービスを提供すべきでないと見なす客を拒絶してしまう。これを見てもロンドンの娼婦の中には強大
な反逆勢力が結集していることが明らかである。彼女たちが反抗する理由は、その生活スタイルが大多数の
人々から公然とした非難を受けているからだ。
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香港性工作者 ~香港の事例

フェミニズムは伝統的に、極端な売春反対を唱え、売春業は男性が女性を支配することを助長する制度にほ
かならないと糾弾してきた。その理由として、売春は強姦と同様、女性に性行為を強いるものであり、前者は
経済的な強制、後者は生理的な強制であるからだ、と説明している。だがこの主張は、娼婦は逼迫した状況
下でやむを得ずなるものと定義づけ、現代女性の中には自ら進んで娼婦という職業を選択する者もいるという
事実を否定するものである。
一方、ネオ・フェミニズムは、売春は罪悪ではなく、娼婦といえども父権に支配されるかわいそうなお馬鹿さん
ではない、と捉えている
。また、性工作に従事する女性たちは社会から尊重されるべきであり、抑圧された女
性を解放するという理想を抱く者は、彼女たちをフェミニズム運動から除外するのではなく、支持し、彼女たち
の権利の保護に、努めるべきであると考えている。
どれが合法で、どれが違法か?
例1) 家庭の経済的な事情で早急に多額の金を作る必要があり、路上で客を引いている。ある日道を歩いて
いた男に「200元で私を買わない?」というと、男がOKしたので、二人はアパートに向かった。
例2) あるビルの階段に立っていると、男が来て「400元でどうだい?ただしコンドームを使わないのが条件だ」
と言った。OKし、二人はアパートに向かった。
例3) 二週間の観光ビザで香港に入国したタイ人だ。香港滞在中に金儲けをしたいと考えている。しかし広東
語が話せないため、香港在住のタイ人が彼女の代わりに客をつかまえ、その際、コンドームを使用するように
言ってくれている。客一人につき50元の手数料を払うことにしている。
例4) 夜総会でダンサーをしているフィリピン人、観光客が「お金を払うから今晩つき合わないか」と誘うと、彼
女はOKして彼の泊まるホテルについていった。
例5) 夜総会のPR(パブリック・リレーション、高級売春婦)で、男友達から客を紹介してもらっている。一日の
仕事を終えると、その収入の半分を男友達にバックしなくてはならない。
例6) 自分で部屋を借りて客をとっている。彼女はなじみの客に名刺を配り、彼らに口コミで宣伝してもらって
いる。
例7) 部屋を借りて、そこを仕事場としているが、サービス内容や住所を宣伝するために小さな看板も出して
いる。
以上の事例のうち、2,4,6は合法で、1,3,5,7は違法である。欧米の法律的概念では、性行為によって金銭を
得ることは自由売買の精神にかなっているとして容認される。性の取引は資本主義の副産物であり、その行
為自体を禁止する理由はない、と考えられている。だが、香港におけるイギリス人の立法の祖たちは、ビクト
リア朝式の偽善を引きずったまま売春についての条例を制定したため、多くの問題点を残す結果となった

例えば、他人を誘惑して淫らな行為をすること、女性を売買して輸出入すること、女性に売春させて自分の生
活収入を得ること、不道徳な店の経営、売春業社への不動産賃貸、出版物への性的サービスの広告掲載な
ど、これらはすべて違法を定められたが、植民地政府は最後まで売春を撲滅することができなかったし、現在
の特区政府は、もっと手をつけられずにいる。
この道20年のベテランママ・メリッサは言う。
今、巷で吹聴されているセックスカルチャーとやらは本当に罪つくりよ。昔の遊び方はもっと情緒があって風流
だった。小姐にしても、ダンスがうまくて、人づきあいや、おしゃれや、男性の心理もよくわかっていた。それに
心も温かく勤勉で、なにより向学心、向上心があった。でも最近の娘はみんな、自ら身を持ち崩した性の奴隷
ね。テーブルに着いていてもボーッとしていて何の自覚もない。客のフルーツを食べまくり、酒をガンガン飲む。
マイクを奪って好きなだけ歌う。歌い終われば、客を誘ってホテルへ直行。気の利いた話は一切できない。客
はそんなバカ女のプライドをどうやって尊重すればいいの? 一楼一鳳の女と同じと思われてもしかたがないで
しょう

三流夜総会のデイリー・ママは言う。
もう時代が違うのよ。今はホステスが以前のようにお高くとまっていたら、客は寄りつかないわ。最近では各
業界が商売のプロフェッショナル化を進めているけど、性風俗産業でも分業化が進んでいて、暗黙の了解で
適材適所についているのよ。娼婦がどんなに媚びても、客がどんなに気前よくお金を出しても、昔日の娼家
の情緒や人情味を取り戻すことはできない。時代も性の売買に対する意識も、客も小姐も全て変わったのだ。

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【女のルール】
2010.09.07: エエブイ女優年鑑の分析
2010.01.05: 付き合う前に男性に聞いておきたい5つの質問
2009.11.16: 負けるが勝ち 女性が私に教えた処世術
2009.10.05: 働く女性は美しい 勤務地のステータス
2009.08.26: 俺が法律だ
2009.06.12: 殿方に問う なぜ給湯室を利用しないの?
2009.02.20: 女性との日常会話における苦悩
2009.02.13: 女系家族の掟
2008.12.24: 女が男をヘコませる地獄の一言
2008.12.22: 男性が飲み会で引いてしまう女性の行動ランキング
2008.09.15: 華やかなるSingapore女性
2008.06.24: 女性による女性の格付


快楽殺人の心理

うーむ、せっかく買ったんだが、幸いにも、快楽殺人者の心理が全く理解できず、あまり書くことがない。
いくつかのインタビューは死刑囚監房の中で行われたが、保安規則のため、たとえFBIの捜査官と言えども
刑務所内で火器を携帯することは許されない。インタビュー計画の初期には、人手が足りない場合は捜査官
一人だけで殺人者にインタビューすることがあった。また第一回のインタビューは二人で行ってもそれ以降の補
足インタビューは一人の捜査官が担当することが多かった。しかしこのやり方は、単独でインタビューにあたって
いた捜査官がある出来事に遭遇したために変更を余儀なくされた。
 それは十数人を殺害したとくに凶悪な連続殺人者への三回目のインタビューのときに起こった。インタビュー
にあたっていたベテランFBI職員は4時間におよんだ最後のインタビューをそろそろ切り上げようとして看守か
ら前もって言われていたように、ブザーを押して部屋の外にいるはずの看守に終了を知らせた。だが15分ほど
のあいだに3回ブザーを押しても看守は姿を見せなかった
。身長2メートル6センチ、体重134キロのその殺
人者は、捜査官に向かって、「落ち着けよ」と言った。
「今はちょうど看守の交代の時間なんだ。それに看守どもは厳重監視区域の連中に食い物を配らなきゃなら
ねえ」
それから殺人者は顔をゆがめ、脅すような口調で、「あと15分か20分は、あいつらはもどってきやしねえよ」
とつけくわえた。捜査官が落ち着きを失ったのを見て、殺人者はさらに言葉を続けた。
「もし俺がここで暴れだせば、あんたは困るんじゃねえかな、ええ? あんたの頭をねじ切って、テーブルの上に
でも置いておけば、看守どもはさぞよろこぶだろうな。」
(この男の犯行のパターンは、大部分の犠牲者の死体から、頭部を切り離すものだった)
捜査官は、「そんなことをすれば困ったことになるのはそっちのほうだぞ」と言った。だがその殺人者はすでに7件
の第一級殺人で服役しており、「少しばかり刑期が長くなっても、FBIの捜査官を殺したという箔がつくほうが
いいさ」と言い返した。エージェントは言った。
「おれたちが身を護るものを何も持たずにこんなところへ来ると思っちゃいないだろうな」
だが殺人犯はそんな脅しを信じなかった。
ここに武器を持ち込めないってことは、おれもあんたもよく知ってるはずだぜ
捜査官は、人質解放の交渉テクニックを応用し、時間を稼ぐための護身術と格闘技の話をした。この時間稼
ぎのテクニックはうまくいき、ようやく看守がドア口に姿を見せた。インタビュー用の小部屋を出るとき、殺人者は
捜査官の肩に手を置き、「ただの冗談だったっていうのはわかってるよな?」と言ってウインクした。
殺人のタイプと形態
単独殺人とは、一つの殺人事件で犠牲者が一人だけの場合である。
二重殺人とは、一つの場所で、一度に二人が殺されたケースであり、三重殺人は犠牲者が3人のケースだ。
一つの場所で、一度に殺された犠牲者が四人以上になると、その事件は「大量殺人」に分類される。
複数の犠牲者を出す殺人にはさらに二つのタイプがある。「耽溺型殺人」と「連続殺人」である。
耽溺型殺人とは、ある殺人者が二つないし三つの場所で殺人を犯し、しかも犯行と犯行の間に感情的な
冷却期間がおかれない場合を指す。ここの殺人はすべて単一の犯行の一環だが、それがどの程度期間内
に行われるかは、場合によって長短がある。
一方、連続殺人は、三つ以上の独立した犯行から構成され、殺人と殺人の間に感情的な冷却期間が存
在するケースである。このタイプの殺人者は、ふつう前もって犯行について熟慮し、殺人の細部に至るまで空
想・計画しておく。ただし、犠牲者を誰を選ぶかは決めていないことが多い。そして前の犯行の興奮が冷め、
適当な時期が来ると新たな犠牲者を探して計画した犯行を実行に移す。冷却期間は数日のこともあれば
数週間、数ヶ月のこともある。この冷却期間の存在が連続殺人者を他の大量殺人者と区別する最大の
要素
である。

快楽殺人の心理―FBI心理分析官のノートより (講談社プラスアルファ文庫) 快楽殺人の心理―FBI心理分析官のノートより (講談社プラスアルファ文庫)
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【本当にあった?怖い話】
2010.04.26: あなたの知らない精子競争 ~精子の数の決定要因
2010.03.19: 実在上のヤンデレとその発生起源 ヤンデレの研究
2010.02.03: 彼氏を不安にさせる行動パターン
2009.10.16: 華麗なる投資一族 明るい家族計画
2009.07.23: タイ旅行 スローライフと?な習慣
2009.07.03: 暴君の家庭
2009.02.13: 女系家族の掟
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.09: 妹が見た悪夢
2008.05.08: サロメ


{わかりやすさ}の勉強法

池上彰の本だ。私は爪の垢を煎じて飲まなければならないが、反省の意味を込めて読んでいくこととしよう。
焦点の合わせ方がうまいかどうか=受け手にとって身近な話としてどうもっていくか
常に根本的な疑問を持つ そもそもなぜ~なのか? と自問自答しそれに答える解説。
日本航空の経営破綻の理由を二つのキーワードで説明しましょう。それは特別会計と護送船団方式です
すっげー、言い切った。
これで視聴者の興味をつかみます。道路を作る話と飛行機の話を結びつける。護送船団方式という金融機関
を守る話と航空会社の話を結びつける。「これらは意外な組み合わせですよね。でも本質は同じですよ」
これもインパクトがあって、よくわかってもらえます。
わかりにくい説明を見つけてみよう。
子供新聞より、テーマは「日本銀行の国際業務」
日銀の仕事の中には「国際金融システム安定への取り組み」もあると聞いた中学生の息子が、「難しそうだね」
と父親に尋ねています。その答えが次のようなものです。
「世界経済が安定的に発展するためには、国際金融システムが正常に機能し、企業や金融機関が安心して
国際的な取引を行える環境が必要なんだ。日銀は、海外の中央銀行や国際機関と情報交換を行い、国際
金融市場のリスクを把握するんだ」
これが中学生向けの解説文なのですから、恐れ入ります。日銀の担当者は「国際金融システム」や「国際金融
市場のリスク」がどういうものかよく知っていますから、「そもそも・・・」と説明する必要があることに気づきません。そ
の結果が、この専門的な解説になっています。自分がよく知っている常識を相手は全く知らないという事実に気
づけないと、こんな難しい説明になってしまうのです。
この『にちぎん』は、日銀がわざわざ私に送ってくださったもの。それを、こんな批判の俎上に載せてしまって、まこと
に申し訳ないのですが、「専門家」は、素人が何がわからないかがわからないので、こんなことになるのです。
専門家で無い人は何がわからないか。そこに気づくことから、わかりやすい説明は始まります。
デリバティブのプロ・ノンプロと玄人・素人は違います
プロかどうかの線引きは金をもらっている。つまり金融機関で働く人のことを指します。
玄人かどうかの線引きは”理解”です。
私の記事は、例えば
Vanilla基礎 GammaとVolatility
の記事は、プロ向け(プロ素人には解説、プロ玄人にはお笑い。すげー説明だなと玄人は思うでしょ?)
最近がんばって書いたこちら
数学を使わないオプション解説 Gammaって?
は、ノンプロを包括したプロ向けの解説のつもりです。
ノンプロの読者の皆様、いかがでしょうか? まだ専門的な解説でしょうか?
>が、金利の連中がGammaこそがデリバティブであるという意識が無い理由は、現物である債券にも
>Convexityは存在するからである。
この辺がノンプロ向け記事でありながらも、玄人には受ける視点だとは思っているのですが笑っていただけました?
企業小説にはなぜ素人が登場するのか
専門的な内容を、読者にわかってもらうため、企業小説やビジネス小説には、必ず素人が登場します。企業
の内幕や業界事情に詳しい人が、素朴な質問する素人に向かって丁寧に説明するシーンがあるはずです。
あっちゃー! 
当サイト・・・、質問者は全員プロだ・・・。コメント投稿者までプロの香り。
だからわかりにくいんだな!! コメントしにくいよなぁ・・・この雰囲気じゃ・・・。
50% Knock-In PutのPremiumって実現できるの?@理想的な世界にて
金利をSalesに教える
CBとCall Option+Bondの違い for Beginner
何がfor beginnerだよなぁ。一生懸命書いたつもりだったが、ノンプロ読者にわかるわけもない説明だな。
記事上に登場するイビリ・パワハラの被害者であるシロウトもまたプロだ・・・。
為替オプションの基本勝ちパターン? プッ
お前VEGAの意味わかって無いだろ?
アナリストの前で言っちゃいけないこと
世の中に対する批判的な記事や嫌味は書いているのだが、コメントが荒れない理由がわかった気もする・・・
聞き上手は話し上手
相手の表情を見るとはいっても、じっと相手の目を見つめては、お互いが気づまりになります。そこでふだん親しい人との
日常会話の様子を思い出してください。いつも目を見ていますか?そんなことはないですね。たまに目を見て互いの視線
をあわせますが、その直後には目以外の部分に視線を当てているはずです。たまに視線を合わせつつ、さりげなく視線を
はずして話を続ける。これが理想的なのです。視線を合わせ続けていると恋人同士でもなければ、お互い気づまりです。
最初に会ったら、しっかり目を見て挨拶します。続いて視線を下にそらしてノートなど筆記用具を見る。次に再び相手の
目を見て、質問を投げかける。相手が話し出したら頷きながら、視線を下に向ける。相手が息継ぎのためにいったん話
を中断したら、また相手の目を見る。これの繰り返しです。相手の目を見ないで漠然と相手の顔全体に視線を向けま
しょう。相手の目の下、鼻から口の辺りを漠然と見ておくと、相手は「ああ、この人は私の話を聞いてくれているな」と感
じると同時に「見つめられている」という緊張感を覚えないですみます。
おっしゃる通りですね。私は普段、伏せ目がちに話しますが、男同士、圧力をかける必要がある場合、じっと目をみつめ
ながら話す習慣があります。

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【ニュースにいちやもん】
2010.02.26: 日本の新興企業 アジア市場が上場誘致
2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね 
2009.12.02: 金融犯罪に手を染めた元米ミス・ティーンの転落人生
2009.11.25: 米スリーコムのオプション取引、SECが調査-HP買収発表前に急増
2009.11.13: 7736企業乗っ取り 300億円強奪を示す財務諸表
2009.09.15: OptionのNewsはどうしてこうも気色悪い書き方なのか
2009.03.26: 中国人民元先物?
2008.01.02: いきなり暗い 元旦の日経トップ記事
2007.12.29: 時価総額の計算方法


田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道

目白にこれだけの家を持っていることについても、収入はあったのか、あるいは誰から買ったのかというようなことだが、
いまの家が20億30億もすると言い
ますがね、昭和28年には坪9000円で買ったもんなんです。いま、全部調べてから出なければ観念的には言えない。
そのォ、証拠をつけていわねばならんッ。」
昭和49年、文藝春秋によって追及された金脈問題に対する田中の弁明だが、これはまさに詭弁そのものの好例とも
言える。「20億、30億」を昭和28年までさかのぼって「坪9000円」と言い換える。「30億円」と「9000円」では聞くほう
はなんとなく「なんだささいなカネだったんじゃないか」とゴマかされる。いまのカネに換算するといくらくらいなるという
点をはっしょってしまっている”手品”である。
すごい広さだもんなぁ、歩けないくらい田中御殿の塀が続いてる。相続で縮小した後の広さは俺も知らんが。坪当たり
に直しちまえば見たことない奴は総額が想像しにくくなる
なぁ。
それから俺はもう一つ注目している点がある。一言一句このスピーチを正確に再現しているのならば、さすが角栄。
計算されている。「20億、30億もすると言いますがね」 と言って、「坪9000″円”」と言っている。両方とも金の話をして
いるのだが、9000円と言う事で、金を強調し、20億、30億の時は、単なる数値
かのように通り過ぎる。
1945年、第二次世界大戦は、それまでにない新しい終結方法をとったのであります。日清、日露両戦争や第一次大
戦のように勝戦国が敗戦国に過酷な賠償や領土を要求しなかった。そればかりか、敗れた国が逆に援助してもら
ったものであります。第二次世界大戦を終わらせたのは不幸にも日本の広島、長崎への原爆だ。核兵器の存在がわ
からないが持っているということに意義があるが、いま、世界にゴロゴロしているのはたしかなんです。だから第三次世
界大戦が起きれば、これは勝ち負けはない!人類が死滅するおそれがあるんです。みなさん、そこで戦勝国は戦争
のタネを根絶しようと、日独伊三国を徹底的に解体するために思い切った占領政策をやった。こういうことがあります。
まァ、そのォ、日本では憲法、教育基本法を作り、内務省、警察の解体し、地方自治制度を設けて、当時の指導者を
公職から追放しました。終戦直後、占領軍は平和を守るために、日本を一次
産品国家に衣替えしようとしたんです。
大前提はこれだッ。工業施設を撤去してフィリピンに持っていこうとした。これが運命だったんです。それが第二次世界
大戦の結果だ。ところがソ連が出てきたねぇ。自由主義陣営は協力して防塁になろうということになったんです。占領政
策はまるで変わった。いったん背骨を抜いた人間に骨を入れ、セメントで補強したようなもんだ。機械のクモの巣を払い、
電力を供給したんです。日本は輸出主導型で世界の時流に乗り、今日の姿になった。
私はねぇ、中国はみなさん共産党だといいますがね、私が中国へ行って周恩来に会った時に、”共産党は好きじゃ
ないが、中国は便宜的共産主義だと思う”と言ったんです。みなさんッ、黄河文明以来、最高の知識人階層である
中国人が便宜以外で共産主義をとるはずがない
と言ったんですよ。そしたら、”田中センセイはよく勉強していらっ
しゃいますね”なんて言っていましたがね。
国交回復、GDPが抜かれてから中国を見始めたのが一般の日本人である。
角栄はあの時代に既に中国に目が向いていた。
自民党幹事長時代、選挙の公認候補に選挙資金としてのカネを渡す。結局は一人アタマ500万円ずつ渡すのだが、
普通の幹事長のように、”500万円だ。有効に使うように。”と言って、いっぺんに500万円を渡すことはしない。まず
300万円を渡す。深々とアタマを下げ、引き下がろうとする候補者に追い打ちをかけるのだ。”ちょっと待ちたまえ。キミ
の選挙区は厳しい。これを持っていきなさい”。候補者は改めてポンと200万円の束を差し出されて驚く。そして、
“気っぷのよさ”を見た候補者は、田中幹事長にあらためて目を開いたものだ。
人間にはあらゆる欲望がある。カネ、地位、女などに不満を持っていた者が、それを満たしてもらって、なお不満を持
つ者はいない。少なくとも、利益を切り出されて、ニンジンをぶら下げられて、いちおうの興味を示さぬ人間はまずい
ない。かつて、田中角栄が土建屋社長として修羅場を渡っていた時もこの利害関係を大いに利用して人心を取り込
んだ。
「カネが欲しいか、女が欲しいか。それでもイヤなら、オレと寝るか」
【国民意識と愛国心】
2010.09.10: ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.08.19: インド旅行 文明という環境汚染
2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
2009.01.23: ドイツからのお手紙 銘柄選定における国民性
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道 
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男 
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2008.10.22: 香港とシンガポールの違い
2008.08.22: Olympicと国家


田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~官僚掌握の布石

田中は、今から半世紀近く前にして、マイカー時代がやってくる以前、すでに「ガソリンに税をかけよ」との議員立法を提案した。
当時は、まだ今日のクルマの洪水の時代とは縁遠いものだったが、自動車時代の到来を読んだ上での卓見だったのだ。与党内、
あるいは官僚、経済学者を巻き込んで、このガソリン税案は大きな論争を巻き起こした。「そんなことをしたら、クルマに乗る者はいな
くなってしまう」
という与党代議士の多くと官僚、経済学者は「政府固有の予算編成権を拘束する目的税法は憲法違反」といった
“正論”で、この法案成立の前に立ちはだかった。しかし、多くの人々がこうして目を丸くして当惑、議論する中で、田中は次のよう
な論理を展開したのだった。
なぜガソリン税が必要か
「ええですか。自動車が走るには道路がいる。歩道ならともかく、自動車道路となれば舗装が必要だ。舗装するにはカネがかかる。
それなら、クルマを走らせるためには、まずガソリンが必要なのだから、ガソリン税をとって財源を確保し、道路づくりをやるべきだ。道
路が良くなれば、クルマの利用者は増える。ともなってガソリン使用量も増える。ガソリン税が入れば、それをまた道路づくりに回せ
るというものだ」
結果、田中によるガソリン税構想は、昭和33年、「道路三法」の一つの「道路整備緊急措置法」として成立した。敗戦で崩壊した
日本経済の復興に、多大な寄与することになった。わが国の驚異的な復興のテンポは、この道路三法なくしてはなかった言える。
時代の先読みもさることながら、影の予算、特別会計の拡大設計をしている点も策士だと思うけどなぁ。官僚が反対って、結果と
しては権力拡大の方向になっているわけで。
まァ、戦後38年、日本はそのうち20年で今日の繁栄を築いた。その20年間に神風が吹いた。日本人も働いた。みなさんツ。
社会党が農地解放をやったと言いますがね、ホントはあれはマッカーサーがやったんだ。社会党はね、昭和24年の選挙の時に
山林解放をやると言ったんです。山しかない国で、山まで分けたらどうするんだ!冗談じゃないッ。そうでしょう。みなさんッ
(昭和58年 統一地方選を前に越山会後援会総決起大会で)
田中角栄であります。私は諸君ご承知のように、小学校の高等科しか出ていない。しかし、世の中の経験は、多少積んでいるつ
もりである。まァ、諸君は財政、金融の専門家だ。これからは、もし私に会いたいときはいちいち上司を通して来ることはない。こう思
う、これはおかしい、これを考えてくれなんてことがあれば、遠慮せずに来てくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思いきって仕事
をしてくれ。これは局長も課長も同じだッ。ことの成否はともかく、結果の責任はすべて大臣であるこの田中角栄がとる
。今日から
大臣室のドアは取っぱずす!
(昭和37年、44歳で大蔵大臣に就任した際、次官、局長以下、大蔵省幹部を前にしての挨拶)
結局、田中大蔵大臣は4期連続、3年間続いた。大蔵大臣をやめるときには、田中は完全に大蔵官僚を牛耳っていた。就任の
挨拶での”どよめき:も、田中の人間的魅力とカネの威力、すなわり「情と利」を駆使した人心収攬の妙で、田中は完全に大蔵
官僚を牛耳っていたのである。たとえば役所、官僚というものは局あって省なし、省あって国なしと言われるくらい気位、自負心が強
く、つねに責任をとりたくないという保身術が身についているから、どうしても発想は平板である。つまり、”よけい”なことはしない。
これを田中一流の大胆な発想で目を開かせるなどで、徐々に大蔵官僚を篭絡していったのだった。
野口悠紀雄氏、「超・納税法」より引用する。 中卒大蔵大臣vs東大卒エリート大蔵官僚の格の違い
田中角栄は、野口さんたち1964年の大蔵省の新入職員20名を整列させると一人一人握手をはじめ、メモも見ず、秘書課長
にも教わらないで、一人一人の名前を呼んだという。顔を見て「おっ!野口君、頑張れよ」という調子だったという。
大臣が全員の顔と名前を知っていることに度肝を抜かれた新入職員を前に、田中角栄はこう言ったという。
「諸君の上司には、馬鹿な課長がいるかもしれん。諸君の提案を、課長は理解せぬかもしれんぞ。そうしたときは、遠慮せず大臣
室に駆け込め。オレが聞いてやる。

結局だれも駆け込んだ人間はいなかったが、「駆け込んでいい」という言葉は、野口さん達の心を捉えたという。
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