艦隊が祖国を発ったのは、去年の秋であった。10月15日、リバウ港を出て以来、かぞえてみればこのカムラン湾にたどりつくまで6ヶ月であった。カムラン湾はベトナム(フランス領)の東岸にある湾で、水深は十分で、ちょうど旅順港の地形に似て内港と外港にわかれている。もっとも厳密にはそれらを単なる入り江であって港とは言いがたいかもしれない。なぜならばフランス海軍はここを基地にしているとはいえ、実際にはほとんど港湾施設をほどこしていないのである。人間はほとんど住んでいない。電信局のある場所にフランス人が数人住んでいるのと、ベトナム人が50人ばかり小屋を作っているにすぎない。
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-ロシア艦隊が仏領ベトナムのカムラン湾に入り込んでいる。という報は、たしかにパリの外務省を驚かせた。外相デルカッセはこの種のことが起こってももはや同情する必要の無いロシアのためにフランスが国際紛争に巻き込まれることをかねて怖れていた。この情報をデルカッセに伝えたのは、当時外務省秘密諜報部につとめていてのち外交史について多くの著述をしたモーリス・パレオログで、かれがのちに発表した日記にとると4月19日である。デルカッセはほとんど狼狽したといってもいい。「カムラン湾?いったいカムラン湾などというような湾がわが属領に存在したのか。私は地名も聞いたことが無い。しかもその場所にフランスの官憲が駐在していたとは初耳である」
「ロジェストウェンスキーは、カムラン湾でネボガトフ少将の第三艦隊と落ち合うつもりです。それらが到着するまであと二週間はかかりましょう。もしもです、我が国がロジェストウェンスキーに退去を命じ、それによってかれに本国からの増援部隊を待つ場所を失わしめ、また十分な食糧を積み込む機会を失わしめたとすれば、あとあとロシアからの苦情はその理由をもって殺到するでしょう、われわれはフランスの冷酷な仕打ちのために負けたのだ、と。もし負けたとすればです、全責任を我が国にかぶせてきます」
「そのとおりだ」
と、デルカッセはいらいらしていった。妙案は一つしかなかった。幸い、現地のサイゴンにインドシナ(ベトナム)分遣隊司令官であるド・ジョンキエル提督がいる。同提督はむしろ外交官に適した機才と物腰のやわらかさをもった軍人で、この始末を彼に一任したほうがいい、本国から彼に与える訓令は、
ロシア艦隊に対し、できるかぎりの手心を加えつつ24時間以内に退去せしめよ。しかもそのあとロシア艦隊がどこへゆくかは無関心という顔つきでサイゴンへ戻れ
バルチック艦隊は4月22日、カムラン湾を去った。外洋に出た。沖合いで漂泊をはじめた。漂泊は長く続いた。おどろくべきことに25日まで漂いぱなしであった。しかし艦隊は遠くへは去らなかった。26日になってカムラン湾から北方50里のヴァン・フォン湾にもぐりこんでしまったのである。むろん、ヴァン・フォン湾は仏領であった。この報告を閣議の席上で聞いた首相ルウヴィエはテーブルを叩いて憤慨した。「わが海辺を、まるでロシア領であるかのように作戦根拠地にしているあの艦隊のずうずうしさ」とわめき、すぐ露都ペテルブルグに抗議せよ、といったが、しかし外相デルカッセは抗議の一件は握りつぶした。


バルチック艦隊の乗組員が毎日見続けている陸地は、いうまでもなくアジア最大の半島である。「インドシナ半島」と、このロシア艦隊の幕僚たちは漠然と称していたが、幕僚でさえサイゴンやカムラン湾などが仏領であるという以外に、この広大な大地と長大な沿岸についての地理的もしくは政治的な常識を持っておらず、要するにモンゴロイド系のしなやかな体つきをもった先住民の居住地というほかはなにもしらない。
国名も、古来、さだかでない。「越南(ベトナム)」と称せられるのは、これは厳密には地域名であろう。中国で古来、漢民族文明の中心地域は黄河流域であり、揚子江以南となればはるかな南方の蛮地であると思われていた。揚子江以南の地に漢民族文化の亜流が定着するようになったのは春秋戦国時代ごろからであろう。そのころ江南の地は漠然と「越」と呼ばれていた。越という文字には「遠い」という意味がある。華北の文明地帯からみれば可視範囲の向こうにあったからであろう。インドシナ半島はその「越」よりもさらに南にある。このため越南と呼ばれた。ベトナムというのは、要するに他民族がそう呼んだ呼称で、ベトナム人自身のなかからうまれた呼称ではない。
> 現代でも中国では「越」と書く@マカオにて初めて見ゆ w
ネボガトフ少将の艦隊はバルチック艦隊主力が喜望峰まわりのコースを取ったのに対し、地中海コースを取った。理由は簡単である。ネボガトフ艦隊は中型艦のみであるため、スエズ運河の通過が可能なためであった。この艦隊はスエズ運河をへて紅海を通り、途中ノシベなどに寄り道することなくインド洋を横切った。かれがロジェストウェンスキーと合流するまでの84日間、その艦隊内部の統制はよくとれてほとんど自己らしい事故を起こさずにすんだ。ただネボガトフ少将にとって困ることは、ロジェストウェンスキーの艦隊がどこにいるかということである。ノシベまではわかっていた。それ以後が分からない。
フランス外務省を訪ねて外相デルカッセらに会ったロシア海軍の大本営参謀ヒョードル・ワシリェーウィッチ・ドーバソフ少将は、話題がバルチック艦隊のことになったとき、「ああ、かの愛すべきペトローウィッチ(ロジェストウェンスキー)、彼の艦隊は今どこにいるのでしょう」と、フランス側に逆に質問したりして、フランスの外務省や海軍省関係者を唖然とさせたことがあるように、ロシアの官僚機構は運営能力を欠き、艦隊を出すと出しっぱなしで、進行中の艦隊に対して誘導をしてやったり、情報を提供してやったりすることはほとんどなかった
バルチック艦隊は四隻の哨戒艦を先行させ、二列の縦陣を組み、忍びやかに航進している。「これだけの大艦隊が、日本近海に近づくまで敵に発見されることなく航海できるか」ということが、全艦隊の士官たちの心配の一つであった。夜間は、燈火管制をした。本来なら、ネボガトフ少将の第三太平洋艦隊が本国を発ってからヴァン・フォン湾にたどりつくまでのあいだ、ずっと夜間、無灯火で航海し続けてきたごとくロジェストウェンスキーもそのようにすべきであったが、しかしこれだけの大世帯にふくれあがった大艦隊が夜間無燈ですすむことは衝突その他の危険があってむりであった。各艦とも甲板や舷窓の灯は全部消されている。ただ舷灯のみは光を弱くし、ほんのそばの艦船がたがいに相手の所在が分かるように工夫された。無電の使用はむろん禁じられている。
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