もともと戦争というのは、「勝つ」ということを目的にする以上、勝つべき態勢を整えるのが当然のことであり、ナポレオンも常にそれを行い、日本の織田信長も常にそれを行った。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の9割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間稼ぎをし、あるいは第三勢力に甘い餌を与えて同盟へ引きずり込むなどの政治的苦心をしなければならない。そのたと行われる戦闘というのは、単にその結果に過ぎない。こういう思想は、日本にあっては戦国期こそ常識であったが、その後江戸期に至って衰弱し、勝つか負けるかという冷たい計算式よりも、むしろ壮烈さの方を愛するという不健康な思想-将帥にとって-が発展した。その屈折した結果として、江戸期の士民を勘当させた軍談は、ことごとく少人数をもって大軍を防いだか、もしくは破ったという記述的な名将譚であり、これによって源義経が愛され、楠木正成に対しては神秘的な畏敬を抱いた。絶望的な籠城戦をあえてやってしかも滅んだ豊臣秀頼の、大坂の陣は、登場人物を仮名にすることによって多くの芝居が作られ、真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄になった。その行為の目的が勝敗にあるのではなく壮烈な美にあるために、江戸泰平の庶民の心を打ったのであろう。この精神は昭和期まで続く。
この時代、ヨーロッパだけでなく世界中の情報がロンドンに集まる仕組みになっていた。英国が、ヨーロッパの政治的風景を海峡を隔てて鳥瞰できる地理的位置にあったことと、さらには英国政府が何世紀もかかってその地理的利点にみがきをかけ、ロンドンをもって豊富な情報の合流点にしたこともあるであろう。この時期の英国外交は、その豊富な情報の上に成立していた。さらにこれを厳密に言えば、英国人の冷徹さが、その情報の処理とそこから事態の真相を見抜くという能力に極めて適合していた。「英国の外務省を味方にしていれば世界中のことが分かる」と、この当時、駐英公使を務めていた林董がいったが、そのとおりであろう。たとえばベルリンで得る情報は、ドイツ人の主観が強く入っているか、それとも権謀好きのドイツ人の手で歪曲されているか、そのどちらかであることが多い。またパリはすでに外交の主舞台ではなく、ローマは外交上の田舎に過ぎなかった。


明石元二郎
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ポーランドはいかに悲惨か。ロシアの属邦の中でロシアがロシア国内以上の圧政を強いているのが、この国(すでに国としては存在せず、正しくは地帯)であった。モトは、1846年と63年に起った独立運動がいかに凄惨な弾圧を受けてつぶされたかということを昨日起こった事件のごとく説き、「私の父はワルシャワに入ってきたロシア軍の銃剣のために」と心臓を示し、「突き殺された」と言った。さらに彼は、我々の世代が今度は日本軍の銃剣のために殺されようとしている、と意外なことを言うのである。
「日本軍はワルシャワに居ない」
と明石は負けずにどなった。「満州にいる」 モトは叫んだ。彼の言うところは、ポーランドの農民がどんどん徴兵されて豚のように貨車に放り込まれ、そのままシベリア鉄道で送られつつあるという。「開戦当初、クロパトキン将軍の指揮刀の下で銃を取らされている兵士の15%はロシア人じゃない、ポーランド人だ」と、モトは驚くべきことを言った。この比率はおそらく正確ではないであろう。しかし多数のポーランド人が戦線へ駆り出されていることは確かであった。さらにモトは、「その後、徴兵はどんどん進んで、いまは30%までがポーランド人である」といった。
パリ会議以来、情勢は一変した。激烈な革命運動が各地で起こり始めたが、最初に矢を放ったのは、マルキシズムを奉ずるポーランド社会党であった。この党はポーランドの主要都市においてゼネラル・ストライキを指導し、その激しさは、鎮圧のために軍隊が出動したくらいであった。それがロシア本国に及んだ。まず11月から12月にかけて、モスクワ、キエフ、オデッサなどで学生や労働者によるデモンストレーションが頻発し、さらに言動による行動を担当する自由党は、その地盤とする集会や群会、あるいは弁護士会や医師会において頻度高く政府攻撃大会を催した。パリ会議に加わらなかったレーニン所属の党もいち早く行動を起こし、主として労働者を扇動した。
当時の日本の新聞はこの動きについてきわめて情報間隔を書いていた。明治38年1月25日になってからようやく各紙がこの動きについて報じ始めた。
「突如、露京に革命の烽火揚る」
という大見出しの記事が、当時の代表的新聞である東京朝日新聞の1月25日付に出ている。この見出しを見れば、当時の日本の新聞記者というものがいかに国際感覚にかけていたかわかるであろう。まず、「突如」ということはこの当時のロシアの革命機運に限ってありえない。もし日本がヨーロッパ的水準の国ならば、日露開戦前後に、新聞記者がロシアの政情と社会についてその情報とその分析を提供しておくべきであった。しかし日本の新聞社はまだ海外特派員をおくほどの財政的ゆとりをもっていなかった。それにしても敵国の状態について不勉強すぎるだろう。日本の天皇制とロシアの皇帝制とを同質のものだと思い、革命勢力に対し、
「悩み多き極東の戦局をもかえりみざる不忠者」
というとらえかたをしていた。その革命の非が日本の天皇制にも及ぶことを恐れている風がある。帝政ロシアの皇帝制と明治日本の天皇制を同性質のものとしてとらえる捉え方の無知については、この明治38年1月25日付の記事の見出しを付けた編集者を笑うことができない。その後、昭和期にいたり、さらにこんにちなお、一部の社会科学者や古典的左翼や右翼運動家の中に継承されているのである。
この時期の明石は、その後彼の名を高らしめた「反乱用の兵器の購入」という大仕事のために奔走していた。この兵器購入はかれが企画したものではなくシリヤスクその他不平分子の企画と要請によるものであり、明石は財布と一緒に潮流に乗っていればよかった。明石の企てはつねにそうであった。向うからの要求に合わせてゆくものであり、その点常に無理がなかった。ただ無理をしなければならなかったのは、この購入と輸送についてロシア官憲の目をどのようにしてくらますかというところにあり、この点でこの事業は半ば失敗した。いずれにせよ、明石が、スイスで買いつけた兵器弾薬は、小銃25,000挺、小銃弾420万発という莫大なものであった。これだけで後備の一個師団は編成できるだろう。「これだけの兵器でパルチザンを作れば、ロシア国内は名状しがたい混乱に陥り、到底極東で戦争などしておれなくなる」とシリヤスクは大喜びであった。
ところでこの輸送方法を見つけるのが大変であった。これらの兵器弾薬をまずスイスから陸路運び出すには、貨車八輌を必要とした。さらにそれをバルチック海沿岸に持ってゆくには汽船を必要とする。このため明石はジョン・グラフトン号(700トン)という中古汽船を一隻買った。その輸送については、日本の在欧商社で高田商会というものに依頼した。
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