三陸海岸に明治29年の津波につぐ大津波が来襲したのは、昭和8年3月3日であった。この大津波の来襲前には、明治29年の折と同じように各種の前兆ともいうべき異常現象が見られた。その一つに井戸水の減少、渇水又は混濁があった。
宮城県
 本吉郡大島村…それまでは降雨のない時期でも減少したことのなかった多くの井戸が、2月中旬から減水するという奇怪現象があった。そのため同村では採集した海苔を洗う井戸水の不足に困惑した。
 同郡唐桑村欠浜…四季を通じ減水したことのなかった井戸がいちじるしく水位が下がり、渇水状態となった。
岩手県
 気仙郡越喜来村…当村尋常高等小学校校長小原永太郎氏は、津波来襲の20日ほど以前から井戸水の減少に気づき、同村の高所にある6箇所の井戸の推移を詳細に観測していた。その結果は、次のようなものであった。
 (1)竜昌寺内の井戸 この井戸は地上から水面まで約3mの深さで、たたえられた水の深さは1m余であった。この井戸は明治29年の大津波の直前に渇水したが、今回も津波の20日前から水が完全に涸れ、井戸の底が露出してしまっていた。また同寺内の泉水も、同じように湧出が停止していた。
 (2)平田玉男氏宅の井戸 井戸の深さは地上から水面まで5m、水深は2mであった。清澄な水であることで評判だったが、津波の3日前からいちじるしい混濁が認められた。
 (3)新山神社内の井戸 この井戸は、どのような豪雨があっても濁ることのないことで知られていた。ところが津波来襲の5日前から目立って濁り始めて、その上減水も甚だしく遂には涸れてしまった。それが旧に復したのは、津波があってから5,6日たってからであった。
 (4)及川義男氏宅の井戸 井戸の深さは6m。良質の水が出ていたが、3、4日前から濁り始めて水も涸れた。
 (5)熊谷与左衛門氏宅の井戸 井戸の深さ約4m。3日前から混濁した後渇水。
 (6)正源寺内の井戸 井戸の深さ2m。降雨もなかったのに2月中旬から甚だしく混濁。
 上閉伊郡釜石町…地震後、急激に井戸の水が減り、ほとんど涸れた状態となった。
 下閉伊郡船越村…数日前から井戸の水が著しく減少した。
 同郡織笠村…地震後、村内のすべての井戸の水が半減した。
 同郡大沢村…一部の井戸に減水が認められた。
また明治29年と同じように、沿岸各地で、例年にない大豊漁がみられた。ことに鰯の大群が群れをなして海岸近くに殺到、各漁村は大漁に沸いた。三陸沿岸の鰯漁は、11月一杯で終わりそのあとの漁獲量は急に少なくなるはずなのに、年を越してからもさらに漁獲は激増するという異例さだった。また岩手県下閉伊郡田野畑村島ノ越では、津波以前に波打ち際に大量の鮑が打ち寄せられた。それは、海にいることに不安を感じて、磯に這い上がろうとしてるようにもみえた。その他鮑が大量に死んだり無数の海草類が海岸をうずめるほど漂着したり、海中に異変がひそかに起こっていることを示していた。


住居の点については、県からの指示で各町村内に急造バラックが建設され、学校、寺院などに収容されていた被災者たちが移された。また、そのあと家屋を失った世帯には国有林の材木の無料支給もあって、個人用住宅も続々を新築されていったが、津波の被害を再び受けることのないように高所に建てるよう強く要請された。しかし、この高所への住居移転の実施は困難な問題をかかえていた。災害受けた住民も津波を避けるためになるべく高い場所に居住するのが最善の方法だということは十分知っていて、事実明治29年の大津波後には、高所への住宅の移転が目立ち、昭和8年の大津波後にはこの傾向はさらに増して、町はずれの高台にあった墓所がいつの間にか住宅地になったところさえあった。しかし、この高所移転も年月が経ち津波の記憶が薄れるにつれて、逆戻りする傾向があった。漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。そうした理由で初めから高所移転に応じない者も多かった。つまり稀にしかやってこない津波のために日常生活を犠牲にはできないと考える者が多かったのだ。しかし、明治29年につぐ昭和8年の大津波によって、徐々にではあるが、住宅の高所建築がすすめられていった。
チリ地震は、津波が日本を襲った前日の1960年5月23日午前4時10分頃(日本時間)、南米チリの中部沖合で発生したものである。その地震波は約22時間30分を要して太平洋を越え、三陸沿岸を中心に、北は北海道から南は九州まで津波となって表れたのである。太平洋を挟んで南米と日本は向かい合った場所にあり、ことに三陸沿岸は、たとえ18,000kmの距離を隔ててはいても、チリ沿岸の湾曲線からはじき出された波動を最もよく受けるところに位置している。チリで発生した波は赤道を越え、その勢いを衰えさせることもなく三陸沿岸に到達する。しかも三陸沖合は深海なのでエネルギーの損耗も少なく、大陸棚の上にスムースに超えて沿岸に寄せてくるのである。
元宮古測候所長の二宮三郎氏は、田老町の『津波と防災』の中に過去の事例について述べている。二宮氏は外国の地震史を調査してみた。その結果一つの貴重な発見をした。宝暦元年の津波襲来日の前日に、チリ津波の因となった地震の震源地との同一海域で、巨大な地震による大津波が発生していることを突き止めたのだ。これに力を得た二宮氏は、過去380年間に起った大小43例の三陸沿岸を襲った津波を調べた結果、9例の津波がチリ津波と同じように南米で起こった地震津波の余波であることを探り当てた。
1. 1586年6月30日海嘯アリ・・・1586年7月9日ペルーのリマ沖に大地震
2.1651年宮城亘利群マデ津波襲来・・・1651年ペルー、チリに地震
3. 1687年10月22日宮城県沿岸ニ津波アリ…1687年10月20日ペルーのキャラオに津波発生
4. 1730年7月9日陸奥宮城本吉牡鹿桃生ナド四郡ニ津波アリ、田畑ニ被害
5. 1751年5月2日大槌地方ニ津波アリ・・・1751年5月24日、チリのコンセプシオンに津波
6. 1781年-1789年 陸前海岸ニ津波来襲…1787年3月28日~4月3日にメキシコに津波
7. 1837年11月8日 陸前本吉気仙ナド四郡沿岸ニ潮アフレ、田ハ冠水…1837年11月7日チリのヴァルディヴィアに地震
8.1868年6月宮城、本吉郡地方に津波アリ…1858年8月13日、北チリに津波発生
9. 1922年11月12日本太平洋岸ニ津波アリ…1922年11月11日、チリのアタカマに津波あり、死者1,000名。
街の人々は結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢を取った。まずかれらは昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和33年3月に至って全長1,350m、上幅3m、根幅最大25m、高さ最大7.7m(海面からの高さ10.65m)という類を見ない大防潮堤を完成した。またその後改良工事が加えられ、1,345mの堤防が新規事業として施行されている。この防潮堤の存在もあって、チリ津波の折には死者もなく家屋の被害もなかったのである。

が…
2011年3月11日の東日本大震災の影響に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという
Wikipediaより。
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