シリーズ・哲学のエッセンス という副題を見るべきでした。著者の方はハイデガーを理解しているのかもしれませんが、あまりにも平易に大衆迎合した書き方をしているので、逆に全然わからないという。
哲学と人生論はどう結びつくか
「存在そのもの」は、長く哲学研究の対象でした。実体、つまり、真に存在するものは何か。ただ偶然に存在するものと、必然的に存在するものとはどのように区別されるだろうか。絶対的な存在とはなんだろうか。神のような絶対的な存在と、存在するもの全体との関係とはどのようであろうか、といった問題が様々な形で考えられ、様々な可能性が議論されてきました。そこでアリストテレス「形而上学」を端緒として、これまでの存在論的な哲学理論を研究することで存在論を論じることが可能です。「存在」についてどのように考えられてきたか比較考察することで、「存在そのもの」がについてどのような解明が行われてきたか見ることができます。哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が非常に具体的で切実な問題となる場面があります。たとえば、自分が深刻な病にかかった場合や、身近に死を体験した場合などです。このように哲学理論と人生論という二つの側面があります。存在論とはそのどちらでもある、そのどちらでもなければならない、つまり、哲学と人生論という二つの側面を必然的に結びつけたところに、存在論の意味があるのです。


ハイデガーにとっても、哲学と人生論を結ぶ存在論の糸がはじめからあったわけではありません。当時のドイツ哲学界では、哲学を非常に学問的に捉える方向でと、学問としての哲学ではなく、人生哲学や世界観こそが真の哲学だと考える方向とがありました。哲学は、根本学として考えられるべきである。それにたいして、世界観は、人がどう生きているかによって違ってくる。その人が世界をどう見るかの問題です。哲学が、現実に人が生きていくことに乖離してしまってはならないという考えを捨てることができません。そして、ハイデガーが出した結論が存在論でした。学問としての哲学は「個人的であろうが非個人的であろうが、根源的に突き動かされた”存在”」から出てくる働きでなくてはならないという強い確信がありました。抽象的な理論であっても、生きている現実の根本と重なり合うはずだという確信です。この確信をもとに、ハイデガーの存在論が構想されたのです。
正しい生き方という正解を手に入れようとするのではない。どうしても答えが見つからないような疑問に身をさらすことが、存在論を考える私たちの優位なのです。「円環の運動の中に飛び込むこと」を要求し、その円環にとどまり続けることを「思考の祝祭」と名づけたハイデガーの意図がわかります。
> 全然、ハイデガーの意図がわからんw この本、終始そんな感じ。
私たちは、「自分から逃げている」や「自分を見失う」という表現をごく自然に使います。しかし、よく考えると、自己分裂状態を表す奇妙な表現です。自分から逃げるとは、一体、どこからどこへ逃げるのでしょうか。自分を見失うことなど、意識不明状態意外はありそうもない。もちろん、こうした表現が一般に意味するところを捉えて、比喩的な意味で「自分」ということばを使っているのだ、と説明することができます。「自分のやるべきことから逃げている」「自分がどうありたいのかを見失っている」と言い換えることができる。この「自分」ということばで実際に言われているのは自分の義務や理想のことである。
私たちの日常的な「自分」は眠っている状態にあります。日常の生活の中で存在しているとき「自分」はどこにいるのでしょうか。日々の勉強や仕事を片付け、決まったリズムで生活している。そのようなとき、自分というのは、どのような現れ方をするのでしょうか。不思議なことに自分は背後に退いてしまっています。私たちはその時々の状況に気をとられていて、特に自分を意識することはありません。自分がいなくなったわけではない。現に存在しているのですが、とりたてて「自分」について考えることはないのです。ハイデガー的に言えば「独特な形で、不在であり同時に現にいる」というありかたをしています。逆に「自分」が強く意識される場合があります。いつもと調子が違う、自分の身体が言うことを聞かない、自分が自分の思うとおりにならないときです。あるいは、周囲と自分との距離が強く感じられるときがあります。周囲になじめない、他の人が自分を排除しようとしている。そのようなとき、「自分」が前にせり出してきます。
ハイデガーは自分と周囲とのそうした一体を、「状況の中で泳いでいる」や、「歩みが同じ」というわかりやすい日常的な表現で捉えています。身体を持った存在としての私たちが、様々なものにかかわり、人々の中で生き、様々な状況の中で生きていく姿です。そして、その姿を「世界のうちにいる存在」と名づけています。私たちの「現にあること」(現存在)は同時に「世界のうちにいる」ということでもあるのです。ハイデガーのこの考えは、当たり前のことを言っているように聞こえますが、哲学は長い間この考えを否定してきました。周りの世界とは独立して存立している自己意識を前提として、私たち世界との関係を理解してきました。近代西洋哲学は主人たる私がいて、それが客体としての世界を見るという二元論のイメージで考えてきたのです。人間を中心とした主客構造あ、西洋近代の社会が、自然や非西洋社会、そして近代以前の歴史的世界という問題をなんとか処理して、合理化できるために必要とした構図だった。つまり、自分にとっての「他者」の問題を抑圧するための構図です。このように私と世界との関係が、最初から主客ないし主従の関係として想定されることで、自然や非西洋社会を征服し支配することが正当化されてきたのです。ハイデガーは、非常に素朴で現実的な「自分」感覚をもとにすることで、こうした西洋近代の哲学的構図を打ち破ろうとしています。自分とは、世界を征服し支配する存在ではなく、「世界のうちにいる」存在なのです。

ハイデガー―存在の謎について考える (シリーズ・哲学のエッセンス) ハイデガー―存在の謎について考える (シリーズ・哲学のエッセンス)
北川 東子

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