果たしてもう長く待つことはなかった。突然真鍮のラッパの鋭い音が響くと、それを合図に皇帝のポディウムの正面に格子が開いて、ベスティアリウス(猛獣使)の叫びの中をアレナに向って怪物のようなゲルマニアの水牛が頭の上に女の裸体を乗せて現れた。「リギア。リギア。」とヴィニキウスは叫んだ。そうしてその瞬間にペトロニウスが頭にトガを被せてくれたことさえ感じなかった。死か痛みに眼が覆われたような気がしたのである。見ようともしないし見えなくもあった。口はただ気が違ったように「信じています。信じています。信じています。」と繰り返した。
ふと円形競技場は静まった。アウグスタニが一人の人のように席から立ち上がったのは、アレナに何か並外れたことが起こったからである。というのは慎ましやかに死を覚悟していたこのリギイ族の男は、荒々しい獣の角にかかっている自分の王女を見ると激しい火で燃えるように奮い立ち、背を曲げたと思うと荒れ狂う野獣のほうへ斜めになったまま走り出した。みんなの胸から短い驚きの叫びが発し、やがて重々しい静けさが続いた。すると瞬く間にリギイ族の男は荒れ狂う牛に飛びかかってその角を掴んだ。「御覧」とペトロニウスは叫んで、ヴィニキウスの頭からトガをひったくった。ヴィニキウスは立ち上がり、麻布のように青い顔を後ろに反らせて、ガラスのような意識のない眼でアレナを眺め始めた。全ての人の胸は息を止めた。人々は自分の眼を信じようとしなかった。ローマがローマになって以来これに似たものを見たことが無い。
リギイ族の男が荒々しい野獣の角を捉まえていた。その足は踝の上まで砂の中に沈み、背中は張り切った弓のように曲がり、頭は肩の間に隠れ、腕の筋肉は盛り上がって、その厭力のために皮がほとんどはじけそうになったが、牛をその場所に押し付けていた。人も獣もそのまま動かずいたので、見ている人々にはヘルクレスやテセウスの働きを現す書か、石に刻んだ群像を見ている気がした。しかしその一見平静な中に、互いに戦っている2つの力の恐ろしい緊張を知る事ができた。水牛も人間も同様に足を砂の中に没し、その黒い毛のふさふさした体は曲がって巨大な球に似ていた。どっちが早く力が尽き、どっちが先に倒れるか、これこそ、格闘を愛好する見物人にとってはこの瞬間に、自分自身の運命よりもローマ全体よりもローマの世界支配よりも重大な意義を持つ問いであった。皇帝自身もやはり立ち上がった。「このクロトン殺しには我々が選んでやった水牛を殺させたいものだ」


人と獣は恐ろしい力を通していわば大地に埋められているようであった。すると嘆きに似た鈍い音がアレナから聞こえ、全ての人の胸から叫びが発し、再び平静が続いた。人々は夢を見ている心持であった。そこでは恐ろしい牛の頭がその蛮族の鉄のような手の中で捻られ始めた。リギイ族の男の顔と頸と腕は紅布のように赤くなって、背中は尚ひどく曲がった。その男は自分に残っている超人的な力を有しているが、もう長くは保たないように見えた。ますます鈍くかすれ、ますます苦しそうになった水牛の唸り声がこの巨人の胸から出る喘ぐ吐息と混ざった。獣の頭はますます捻られて地面に倒れた。すると巨人は瞬く間にその角から縄を外し、娘を腕に抱き上げて急な吐息を始めた。その顔は青ざめ、髪の毛は汗に濡れ、肩も腕も水に浸ったようになった。暫く半分気を失ったように立っていたが、それでも目を上げて見物人を見始めた。円形競技場は狂うばかりだった。建物の壁は何千と言う見物人の叫びに震えた。その巨人は今や、肉体の力を喜ぶ民衆にとって大事な人、ローマ第一の人物となった。
群衆は自分に生命を与え自由を返すことを要求していることが分かったが、今大事なのは明らかに自分の事だけではなかった。しばらくあたりを見回してから、皇帝のポディウムに近寄り、差し伸べた上に娘に体を揺りながら、目を挙げている。慎ましやかな懇願の表情はこういっているようであった。「この方をお㦖み下さい。救って下さい。私はこの方のためにしたのです。」 見物人は巨人が何を望んでいるか十分に分かった。リギイ族の男の巨大な体の傍らでは小さな娘のように思われる気を失った乙女を見ると、民衆も士族も元老院議員も興奮に襲われた。アラパステルに彫ったような白い可愛い姿、失心、巨人のお陰で脱した恐ろしい危険、特にその美しさと男の忠誠とは、人々の心を揺り動かした。同情は焔のように突然発した。もう血には飽き、死にも飽き、呵責にも飽きていたのである。涙に咽ぶ声がこの二人のために恩恵を求めて叫び出した。
ヴィニキウスは急に席を離れ、一列目とアレナの間の仕切りを飛び越えてリギアのところへ駆け寄り、その裸体をトガで覆った。それからトゥニカを胸のところで引き裂いて、アルメニアの戦争で受けた傷の痕を露にし、両手を群衆のほうに伸ばした。この時の群衆の興奮は今まで円形競技場で見られた全てのどを超えた。群集は足踏みをして怒鳴った。恩恵を求めて叫ぶ声はまったく威嚇的になった。何千と言う見物人は怒りに眼を光らせ拳を握り締めて皇帝の方を向いた。しかも皇帝は躊躇し動揺した。なるほどヴィニキウスに対しても憎しみを持たず、リギアの死にも無関心であったが、牛の角に突き刺されるか野獣の爪に引き裂かれる乙女の体が見たかったのである。その残酷さと同様に頽発的な想像と頽発的と欲求がこういうような観物に何か快感を見出したのである。ところが民衆はそれを自分から奪おうとしている。そう考えるとその肥った顔に怒りの影が差した。それに己惚は自分が民衆の意思に屈服することを許さず、しかも同時に生まれつきの臆病からそれに対抗する気も無かった。そこで少なくともアウグスタニの間に死の合図として下に向けた親指が見られはしないかと眺め始めた。ところがペトロニウスは掌を上に向けたまま、ほとんど要求するような目つきで皇帝の顔を見ていた。迷信家ヴェスティヌス、元老院議員のスカエヴィヌス、ネルヴァも、トゥリウス、セネキオも、老将軍のオストリウス スカプラもアンティスティウスもヴェトゥスもクリスピヌスもミヌキウス テルムスもポンティウス テレシヌスも、民衆に尊敬されている最も重要なトラセアも同様にしている。それを見て皇帝は軽蔑と侮辱の顔付で眼からエメラルドを外したので、ペトロニウスに意地悪をすることばかり考えているティゲリヌスは身を屈めて言った。「陛下、御遠慮遊ばすな。我々にはプラエトリア軍がついています。」そこでネロは今まで心の底から自分に心服している残忍なフラヴィウス スブリウスがプラエトリア軍の兵士を指揮している方に向くといつもにない光景を眼にした。年を取ったこのトリブヌスの顔は恐ろしかったが涙に潤い、恩恵の合図に手を上に挙げていた。そのうちに群集を憤激が襲った。誇りの雲が踏みつける足の下から上がって円形競技場を覆った。叫び声の間に「赤髭、母殺し、放火人」という声が起こった。ネロはぎょっとした。キルクスでは民衆が全権を握る主人である。これまでの皇帝、特にカリグラは時々民衆の意思に反して行う気になったが、結局いつも暴動を引き起こし、流血にまで及んだ。しかしネロの立場は別であった。第一、喜劇役者及び歌手として民衆の行為を必要とし、第二に、元老院及び貴族に対して民衆の自分の側につけたいと考え、さらにローマの火災以後はあらゆる方法を講じて民衆を自分と結びつけ、その怒をクリスト教徒に向けようと努力していた。そこでもう一度フラヴィウス スブリウスや親戚の元老院議員で百人隊長をしているスカエヴィヌスや兵士達の眺めると、至る所にひそめた眉やしかめた顔や自分のほうに注いでいる眼が見えたので恩恵の合図をした。すると喝采の雷が上から下まで響き渡った。民衆は刑を受けるものが助かると確信した。瞬間からこの人々は民衆の庇護の下に入ったから、皇帝でさえこれ以上刑罰をもって迫害する気にはなれないのである。
ローマは今まで通り狂っていて、世界を征服した都は指導者が無いため遂に我と我が身を引き裂き始めたように見えた。二人の使徒に対して最後の時刻が鳴らないうちにピソの陰謀が起こり、それからはローマで最高の人物の首が無残になぎ倒されたために、ネロと神と見ていた人々にさえ皇帝が仕舞には死の神だと思えてきた。悲哀は都を襲い、恐怖は家々に心に広がりながら死人に対して哀悼を評することが許されなかったので、柱廊は蔦や花の紐で飾られていた。ピソは陰謀によって首を刎ねられたが、その後からセネカとルカヌス、ファエニウス ルフスとプラウティウス ラテラヌス、フラヴィウス スカエヴィヌス、アフラニウス クィンクティアヌス、皇帝の狂乱の淫蕩な仲間のトゥリウス セネキオ、プロクルス、アラリクス、トゥグリヌス、グラトゥス、シラヌス、プロクシムス、一と項は心の底からネロに心服していたフラヴィウス スブリウス、スルピキウス アスペルが続いた。あるものは自分自身の卑劣のため、恐怖のため、富のため、勇気のために滅びた。
> リギアとペトロニウスはキシリアに逃げて、幸せに暮らしましたとさ
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> ネロの最期
解放奴隷たちはもうそれ以上、死ぬ時が来たということを隠さなかったので、ネロは自分のために穴を掘れと命じ、丁度合う寸法を取らせるために地面に横たわった。しかし掘り返された土地を見ると恐怖に襲われた。脂っこいネロの顔は青ざめ、額には朝の露のような汗の玉が出ていた。また躊躇した。震えていながら役者のような声で、時はまだ至らないと明言して、又引用句を始めた。仕舞に自分を焼いてくれと頼んだ。「何という芸術家が滅びるのか(クァリス アルティフェクス ペレオ)。」と感嘆した面持ちで繰り返した。そうしているうちにファオンの急使が元老院は既に宣言を発し「父殺し」は昔からの習慣に従って罰せられるという知らせを持ってきた。「その習慣とは何か」とネロは真っ白になった唇で聞いた。「頸を首枷に挟んで死ぬまで鞭で打ち、ティベリス河に死体を投げ込むのです。」とエパフロディトゥスが荒々しく答えた。するとネロは外套の胸のところを開けた。「では今だ」と空を見て言った。そうしてもう一度繰り返した。「何という芸術家が滅びるのか。」 丁度その時馬の足音が聞こえた。それは兵士たちの先頭に立って百人隊長が赤髭の首を求めに来たのである。
「急いで。」と解放奴隷が皆で叫んだ。ネロは刃を頸に当てたが、恐々掌で刺しただけで、刃を突っ込む勇気はなさそうに見えた。すると思いもかけずエパフロディトゥスがネロの手を押したので、刀は欛まで入り上のほうを向いたネロの眼は恐ろしく大きく怯えていた。
「お命は無事です」と百人隊長は入ってきて叫んだ。
「遅かった(セロ)「とネロはかすれ声で叫んだ。それから付け加えた。「これこそ誠だ(ハエク エスト フィデス)。」瞬く間に死がネロの首を捉え始めた。太い頸から出る血は、黒い流となって庭の花にかかった。両足は地面を打ち始めて、息が絶えた。忠実なアクテは次の日ネロを立派な布で包んで香りに充ちた焚木の山で焼いた。こうしてネロは旋風か防風か火事か戦争か疫病が去るように去り、ペテロのバシリカは今に至るまでヴァティカヌスの高みから都と世界を支配している。昔のポルタ カベナの傍らには今日も小さな礼拝堂が立っていて、いくらか摩滅した銘にはこう読まれる。「クォ ヴァディス ドミネ?(主よ何処へ行き給ふ)」