> 猛獣、犬に食われるクリスト教徒
さてプラエフェクトゥスは合図をした。するとさっき格闘士を死の場に呼び出したカロンのなりをしている同じ老人がゆっくりとした足取りでアレナを横切り、重苦しい沈黙の中で又三度槌で扉を叩いた。円形競技場全体に呟きが起こった。「クリスト教徒だ。クリスト教徒だ。」鉄の格子が上がって、真っ暗な入り口からマスティゴフォルスの例の「砂場へ」という叫びが聞こえ、一瞬間にアレナには毛皮に覆われたシルヴァヌス(森の精)のような人の群が入ってきた。そのすべてのものは幾らか速く熱を帯びたように走ってきたが、円形の中心まで来ると、列んで躓き手を上に挙げた。民衆はそれが憐れみを乞うしるしだと考えたので、こんな卑怯な態度に憤激して足踏みを始め、口笛を吹き、空になった酒器や噛った後の骨を投げて、「獣を出せ、獣を出せ。」と怒鳴った。すると突然思いもかけないことが起こった。見ると毛皮を着た群の間から歌を歌う声が揚がり、まさにその時ローマの円形競技場で始めて聞く歌が鳴り響いた。「クリストゥス レグナト(クリストは支配し給う)」
そこで驚きが群集を襲った。罪人がヴェラリウムの方に目を挙げて、歌を歌っているのである。そこに見られる顔は青ざめてはいたが、霊感に充たされたようであった。この人々は憐みを求めているのではなく、円形競技場の民衆も元老院議員も皇帝も目に入らない風をしているのだと分かった。「クリストゥス レグナト」という声がますます高くなると、座席では遥か上のほうの見物人の列の間まで、何事が起こったのか、又死ぬはずになっているこれらの人々の口に王として讃えられる「クリスト」とは何者であるかと言う問いを抱くものがでてきた。その時新しい格子が開いて、アレナには荒々しく走って吠える一群の犬が出てきた


クリスト教徒は歌を終わると跪いて石になったように動かず、ただ「プロ クリスト。プロ クリスト。(クリストのために)」という嘆きの合唱を繰り返していた。野獣の毛皮の下に人間の臭いを嗅ぎつけたが、それがじっと動かずにいるのを不思議に思って、すぐ飛び掛ろうとはしなかった。幾匹は観覧席の壁に身を支えて見物人の中に入り込もうとして、幾匹かは周りを走り回って何か見たことも無い獣を追い立てるように怒って吠えた。群衆は腹を立てた。見物人のあるものは野獣の声を発し、あるものは犬のように吠え、あるものは様々な国語で嗾けた。興奮した犬は跪いている人々に飛びかかろうとしたり歯をがちがち言わせながら又退いたりしているうちに、到頭一匹のモロッソス犬が前列に跪いている女の肩に牙を入れ自分のほうに引っ張った。さてそうなると何十という犬が城壁の破口を通るように真ん中に駆け込んだ。群集は叫ぶのを止めて、一層大きな注意を以って眺めた。叫び声の真ん中では尚も「プロ クリスト。プロ クリスト」という男や女の歎く声が聞こえていたが、アレナの上には犬と人間の体が縺れ合って震える塊が方々にできていた。今はもう裂かれた体から血が川のように流れていた。犬は互いに血だらけの人間の手足を奪い合った。血の臭い、引き裂かれた臓腑の臭いがアラビアの香の臭いを厭して円形競技場全体を充たした
> 獅子に食われるクリスト教徒
毛皮の中に縫い込まれた新しい犠牲がアレナに駆り出された。その一団はすぐ、前の人々のように跪いたが、疲れてきた犬はそれを引き裂こうとはしなかった。やっと数匹の犬が一番近くに跪いている人々に引っかかっただけで、その他の犬は座り込み、血だらけの口の上に挙げてから脇腹を掻き始め、重い息をついた。そこで心に不安を抱き血に酔って共謀になった群衆は声を絞って叫び出した。「獅子だ。獅子だ。獅子を出せ。」 獅子は次の日まで取っておく筈になっていたが、円形競技場では民衆は自分達の意思をあらゆるものに皇帝にさえ突きつけた。ただカリグラだけは厚かましく気が変わりやすかったので、それに反抗し、群衆を棒で殴る命令までも出したことがあったけれど、大抵の場合には譲歩した。ましてネロは世界のあらゆるものよりも喝采を大事にしていたから、これに反対したことは一度も無く、さらに今度は火事の後で憤激している人々を鎮め、クリスト教徒にこの災害の罪を被せようとしていたので尚更反対はできなかった。
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そこでクニクルムの扉を開く合図をすると、それを見た群衆はただちに穏やかになった。獅子を入れてある場所の格子戸が軋む音がした。犬は獅子を見ると一体になって円形の砂場の反対の側に集まって低く鳴いていたが、獅子は次々に一頭ずつアレナに進み出て、巻き毛の大きな頭をした黄色っぽい巨身を現した。皇帝自身もその方へ物憂げな顔を向け、よく見るためにエメラルドを目に当てた。
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クリスト教徒は多数のもにはわけの分からない、みんなを苛立たせる「プロ クリスト。プロ クリスト」という言葉をまたもや繰り返した。獅子は全く飢えていたが犠牲に向って急がなかった。やがて血の臭いとアレナの上にたくさん横たわっている引き裂かれた体の臭いが作用を及ぼし始めた。まもなく獅子の動きは不安となり、鬣は振り上げられ、鼻腔は荒々しく息を吸った。突然一匹は顔を引き裂かれた女の死体に飛びつき、前足をその体に置き、棘のある舌で固まった血を舐め始め、また一匹は仔鹿の毛皮の縫い込まれた子供を手にしっかり抱いているクリスト教徒の男に近づいた。父親は一瞬間でもその命を延ばしてやろうと思って、遠くに跪いている人々に渡そうとした。ところがその叫びと動きが獅子を刺戟した。突然短い引き裂くような唸りを揚げると、前足の一撃で子供を押し潰し、父親の頭を咥えて瞬く間に打ち砕いた。これを見て他の獅子もみんなクリスト教徒の群に飛び込んだ。幾人かの女は恐怖の叫びを抑えることができなかったが、群衆はこれを喝采して聞こえなくし、しかも見物したい気持ちのほうが勝ったので間もなく喝采も静まった。その時恐ろしい事が見られた。人々の頭は獅子の開いた口にそっくり呑まれて行き、胸は爪の一裂きで横に開き、心臓も肺もつかみ出され、歯の間には骨の砕ける音が聞こえた。幾つかの獅子は犠牲の脇腹や背骨を押さえてアレナを狂って走り回り、それを貪り食う隠れた場所を探し求め、また幾匹かは互いに戦って格闘士のように後ろ足で立ち上がり前足を組んで円形競技場を雷で充たした。皇帝は眼にエメラルドを押し当て、今度は注意深く見ていた。ペトロニウスの顔は不味さと軽蔑の表情を帯びた。キロンは既に競技場から運び出されていた。

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