リギアの考えはこうであった。私がどこにいるかということはアウルス一家には決して知らせない。ポンポニアにすら知らせない。ただ、逃げるのはウィニキウスの家へ行ってからではなく、途中からにする。ウィニキウスは酒に酔って、夕方奴隷を迎えに寄こすとはっきり言った。おそらくウィニキウスは自分一人にしろ、ペトロニウスと二人でにしろ、とにかくあの宴会の前に皇帝に会って、私を明日の夕方引き渡すという約束を得たものと思われる。ウィニキウスは今日は忘れていても明日は迎えをよこすだろう。しかしウルススが救ってくれる。ウルススが来て、食堂から連れ出したように、私を籠から出して、人々の中へ連れ去ってくれるだろう。ウルススに手向かいのできる者は一人も居ないはずだ。ゆうべ食堂で戦ったあの恐ろしい剣闘士だとってウルススには歯が立たないだろう。しかし事によるとウィニキウスは大勢の奴隷を送ってよこすかもしれないから、ウルススをすぐにリヌス司教様のところへ遣って相談させ、助けを求めさせよう。司教様は私を憐れんで、私をウィニキウスの手にお渡しにならず、ウルススと一緒に私を救えとキリスト教徒たちにお命じになるだろう。キリスト教徒たちは私を奪って連れ去ってくれる。その後はウルススがうまく私を都から連れ出して、どこかローマの権力の及ばない場所に隠してくれるだろう。


ウィニキウスはすでに都の門からなんの知らせも来ていないことを知っていた。この知らせはリギアがまだ都内に居る証拠として彼を喜ばせるどころか、反対に彼を前よりも一層意気消沈させた。ウィニキウスはウルススが彼女を奪った後すぐ、つまりペトロニウスの奴隷たちが城の門の見張りを始める前に都の外に連れ出したのかもしれないと思い始めていたのである。秋は日が短くなっているので、城門はかなり早く閉めるけれども、外へ出る者たちのためには開くことになっていて、しかもそういう者たちの数はかなり多いのである。それに城壁の外へ出るには他にもまだ方法がいくつかあって、例えば都から逃げ出そうとする奴隷などはそれをよく心得ている。ウィニキウスは属州へ通じる全ての街道へ奴隷を派遣し、小さな町々の巡察隊にウルススとリギアの詳しい人相書きをそえて奴隷が二人を逃亡したことを通告し捉えた者には褒美を出すと伝えた。しかし追跡が二人の身に及ぶかどうか、仮に及んだとしても、地方の官憲が、大法官(アラエトル)の許可の無いウィニキウス個人の要請に応じて二人を逮捕する自信があるか、すこぶる疑問だった。ウィニキウスはたまたまアウルスの奴隷たちを見かけたが、彼らも何かを探している様子で、リギアを奪ったのはアウルス夫妻では無い。リギアの行方は彼らも知らないのだというウィニキウスの確信はますます強まるばかりであった。そんなわけでテイレシアスがリギアの捜索を引き受ける男が現れたという知らせをもたらすと、ウィニキウスは息せき切ってペトロニウス邸にかけつけ、挨拶もそこそこにこの男のことを聞き始めた
リギア捜索依頼
ペトロニウス「その男とはすぐ会える。エウニケの知り合いなのだ。エウニケが今すぐ俺の外衣(トガ)に襞をつけにここへ来るから、その時にあれからもっと詳しいことを聞けるだろう。」
ペトロニウスとウィニキウスがアトリウムへ行くとキロン・キロニデスが待っていて、二人を見てうやうやしく礼をした。ペトロニウスは、昨日ひょっよするとこの男はエウニケの恋人かもしれないと推測したことを思い出すと、唇に微笑が浮かんだ。というのは彼の前に立っている男はどう見ても恋人という柄ではなかったのである。奇妙な風体の男で、どことなく不潔でしかも滑稽な感じがする。年寄りというほどではなく、汚れた髯やちぢんだ髪の毛には白髪はほんのちらほらとしか見られない。腹が引っ込み、背中が曲がっているので、ちょっと見るとせむしのようだが、その曲がった背中の上に、サルのようでもありキツネのようでもある顔に鋭い目のついた、ひどく大きな頭がのっている。黄色い顔にはぼつぼつとできものができていて、ことに鼻の上にそれがたくさん集まっているのは、この男が非常に酒好きであることを雄弁に物語っている。山羊の毛で織った黒い肌着(トウニカ)に同じ生地の穴だらけのマントを羽織っただけのだらしの無い服装は、本当か見せかけか分からないが、とにかくいかにも貧乏くさい。ペトロニウスは、この男を見ると、ホメロスに出てくるテルシテスを思い出した。
キロン・イメージ図
FF3-une.jpg
正体はドーガとウネのウネですw
キロン「御前様、あのかたが砂の上に魚をお書きになったのは確かでございますね。ではあの方はキリスト教徒でいらっしゃいますし、奪っていったのもキリスト教徒でございます」
ウィニキウス「キロン、よく考えてみろ。俺たちはユニア・シラナとカルウィア・クリスピニラが、キリスト教の迷信を信じていると言ってポンポニア・グラエキナを訴えたことを知っているがしかしまた俺たちには、家庭裁判がその批難は無根だと判定を下したこともわかっているのだ。それをお前は今また蒸し返そうと言うのか。ポンポニアばかりかリギアまでが人類の敵、噴水や井戸に毒を投げ込んだり、ロバの頭をあがめたり、子供を殺したり、世にもけがらわしい乱交にふけったり連中の仲間だということを俺たちに信じ込ませようと言うのか。」
キロン「御前様!次の文句をギリシア語で言ってごらんなさいまし。イエス・キリスト、神の子、救い主」
ウィニキウス「イエースース・クリーストス・テウー・ヒュイオス・ソーテール…。で、それがどうした」
キロン「では今度一つ一つの単語の頭文字を組み合わせて、単語を一つ作ってみてください」
ウィニキウス「イクテュース(Ikhthusはギリシア語で「魚」の意味)!
キロン「ですから魚がキリスト教徒のシンボルになっているのでございます」
キロン「見つけました!(ヘウレカ)」 青年貴族は感極まって長いこと一語も発することができなかった。
ウィニキウス「あの女に会ったのか」とうとう彼は聞いた。
キロン「御前様、ウルススに会いました。話もいたしました」
ウィニキウス「あの二人の隠れ家がわかったのか」
キロン「いいえ、御前様。これが他の者でしたら、自惚れのあまり、こちらがあのリギ人の正体を見破ったことを相手にけどられてしまったことでございましょう。他の者でしたら隠れ家を聞き出そうとして、拳固を一発くらい、それきりもうこの世のこととは一切どうなろうとかまわなくなってしまったことでしょう。さもなかれば、あの大男の警戒心を呼び覚まして、姫君のためにその夜のうちに別の隠れ家を探させるような結果になったかもしれません。ウルススは中央市場の近くの、デマスと申す者の水車小屋で働いております。あとはあなたさまの奴隷で一番信用のおける者に、朝、跡をつけさせ、隠れ家を突き止めればそれでいいのでございます。私はただ、ウルススがここにいるとすれば、リギア様もローマにいらっしゃるに違いないという確かなご報告をお持ちしただけです。それからもう一つ、リギア様は今夜オストリアムヌへお出かけになります。」
「オストリアムヌ?どこだ、それは」
「サラリア街道とノメンタナ街道の間にある古い地下墓地(ヒユポガエウム)でございます。キリスト教の大司祭がずっと後に来るものと思われておりましたのに、もうこちらへ参りまして、今夜その墓地で洗礼を授けたり、説教をしたりすることになっております。キリスト教徒たちは自分の宗教を隠しております。それは今までにその宗教を禁ずる法令は出ておりませんけれども、人民が彼らを憎んでおりますので、用心する必要があるからでございます。めいめいがキリストの一番弟子で会った人、みんなから使徒と呼ばれている人の顔を見てその話を聞きたいと思っておりますので、彼らは今日、一人残らずオストリアムヌへ集まるはずでございます。」

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