「空気の研究」から「水=通常性の研究」まで、臨在感的把握とか、空気の醸成とか「父と子」の隠し合いの倫理とか、一教師・オール3生徒の一君万民方式とかそれを支える情況倫理と固定倫理とか、実にさまざまなことを述べてきた。では以上に共通する内容を一言で述べれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。したがってそこに「何かの力」が作用して当然である。
onnna-gata.jpg
それは演劇や葬儀を例に取れば、誰にでも自明のことであろう。舞台とは周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの状況論理の場の設定であり、その設定の下に人々は演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって一つの真実が表現されている。端的に言えば女形は男性であるという「事実」を大声で指摘し続ける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界だる。だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理がが設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で”空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人々に別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。


ただ問題は、この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序で覆うつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。鎖国は最近では色々と論じられているが、その最大の眼目は、情報統制であり、この点では現在の日本と、基本的には差はない。従って問題は、この日常性が政治、経済、外交、軍事、科学等々と言った部門を支配し、こういう形で、すなわち「父と子の隠し合い」の真実に基づく状態で、種種の決定が行われて果たしてそれで安全なのか、という問題である。そして、このような方法に基づく決定が、その最弱点を露呈する部分が、おそらく外来思想、外交、軍事、科学的思考、すなわち鎖国が排除した部分なのである。大分前だが、このまま行けば、日本は様々な閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇「に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になっていく、それは一種の超国家主義にならざるを得ないだろうと述べた。
戦争とは国際的事件であり、従ってアメリカのように、相手を知るため軍が日本語学校を作り、全国から秀才を集めて日本語の特訓的教育をやるという発送が当然とされる「事件」なのだが、日本は逆に英語を敵性言語と規定してその教育を廃止した。
進化論裁判(モンキー・トライアル)を我々は今でも一種の嘲笑的態度か理解できないと言う怪訝な面持ちで聞く。だが彼らにしてみれば、現人神時代にこういった裁判がなく、平然と進化論が通用していたと言う状態を理解できぬ状態とする。なぜであろうか?いわゆる先進国は一応皆脱宗教体制に入ったといえる点では共通しているが、この体制以前の状態を対比すると、そこに存在するのは全く異質の世界であることに気づくのである。簡単に言えば、日本には一神教的な神政制(セオクラシー)は存在しなかった。そして我々は、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学(システマティック・セオロジー)として組織的合理的思考体系にしないと収まらない世界ではなかったわけである。
こういう世界では、例えば「進化論」をその組織的思考体系のどこにどう組み込むべきかは大きな問題であり、その人がその人の組織的思考体系の中に合理的に進化論を組み込めればよいが、そうでないと、否応なく、聖書的世界を否定して進化論的世界をとるか、進化論的世界を否定して聖書的世界を取るかという二者択一にならざるを得ない。そしてその世界から日本を見れば「現人神を取るか進化論を取るか」が日本で問題にならねばならず、進化論をとれば天皇制は崩壊するはずなのである。崩壊しないのはこれを禁じていたはずだと言うことになり、従って日本を民主化して神がかり的超国家主義を消すには、進化論を講義すればよいという発想になるわけであろう。ところが日本には、そういった一神論的組織神学的発想がはじめからなく、日本人の回心は一に情況への対応で決まるから、そういう講義はニヤニヤして聞いている以外方法がなくなるわけである。
論争の際でも相手の言葉の内容を批判せずに、相手に対するある種の描写の積み重ねで、何らかの印象を読者即ち第三者に与え、その印象に相手を対応さすことによってその論争に決着をつけてしまおうとする。この結果生じたのが「世界の最も罵詈讒謗に弱い」という批評を受ける状態であった。いわばある種の情況を創出されることを極端に恐れ、その情況による人々の心的転換を恐れるという態度である。ただこれも「空気」が消えれば消え、従って論証によってより正確な未来を言葉で構成することを不可能にしている。それがさらに人々が「言葉による未来の構成」を実感しないという悪循環を生んだ。一方、これではどうにおならぬということに気づいて「否応なく未来の予測を必要とする集団」たとえば企業などは、自ら一種の鎖国状態に置き、その密室内だけで、自らの内で通用する言葉だけで未来を構成し、その構成された未来と現状との間でことを処理するという傾向も生んだ。それがまたその閉鎖集団内部の私的信義に基づく忠誠を醸成し、「父と子の隠し合い」の倫理をますます強固にしていく。もしこの状態がこのまま進めば、おそらく日本は、その能力を持つ集団と持たない一般人の双方に分かれていくであろう。
【民族主義・国民性】
2014.10.03 日本人へ 国家と歴史篇 3/6~第一次安倍政権にモノ申す
2014.06.23 自分のアタマで考えよう 3/4 ~多様性を認めない日本の国民性
2013.07.04 日本一の田舎はどこだ
2013.01.21|民族世界地図 1/2
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.04.24: 美しい国へ 1/3 ~国家が民のためにしてくれること
2012.04.20: マクリッチー攻め第3弾 ~昭南神社探索
2011.12.27: 民主主義というのも民に自信を持たせるための方便
2011.07.12: 父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.02.04: 新たなる発見@日本
2009.01.23: ドイツからのお手紙 銘柄選定における国民性
2008.10.22: 香港とシンガポールの違い