チーマー狩り全盛期
当時、世の中の同世代の若者達は今風のファッションを身にまとい、暴力とは無縁の世界で遊んでいた。そんな姿を遠目で眺めながら、私たちはニグロヘアーに特攻服を羽織り、手には凶器を持って毎日のよう襲撃に出かけていた。同世代の社会からも孤立することで、少数だがより先鋭化していったのだ。確かに中学生の頃は漫画「ビー・バップ・ハイスクール」のようなヤンキーファッションも流行ったが、中学を卒業するころには、流石にそうした服装は恥ずかしくなっていた。ちょうど時代は1980年代の後半から台頭してきた「チーマー」の全盛期だった。彼らは服装や髪型は今どきな感じでお洒落にしていたが、時々派手な喧嘩もするなど、まさにイマドキな不良少年の集団だった。当時の渋谷、新宿、池袋方面で言えば、「TOP-J」「PBB」「変態倶楽部」「ジャックス」「ブットバス」などが代表的なチームだろう。彼らが暴走族と大きく違ったのは、地元に対する縄張り意識をほとんど持っていなかった点だろう。ちーまー勃興期の中心メンバーのほとんどが中高一貫の有名私立高校に通う生徒で、面白いこと、刺激的なこと、格好が良いことを求めて街に出ていた。さらに言えば、暴走族のように服装や髪型に厳しい制約も無い。パーティー券などのチケットのノルマを一定量さばく会費のようなものがある程度で、それ以外の活動に関してはほぼ自由だ。関東連合と違って雑誌やテレビに出演することに制限が無かった彼らは、一時期、不良少年の世界でのネームバリューでは暴走族を圧倒していた。そして私たちにとって、このチーマーというジャンルは非常に気にいらない存在だった。杉並区の不良少年にとって、不良少年の世界で食物連鎖の頂点にいるのは暴走族、すなわち関東連合という意識が強かったのだ。ナンパな服装をして、ファッション誌に出たり、たむろしている場所に女の子を連れているような彼らのことは、不良少年として認めることができなかったのだ。彼らに比べて、関東連合の服装は特攻服かスラックスに暴力団風のブルゾンやセーター。髪型はニグロパンチかスキンヘッド。


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※関東連合とは関係ありません。
関東連合の伝統的な活動行事の1つに、特攻服をまとって渋谷のセンター街を練り歩くというものがある。1996年のクリスマス・イブの日-。渋谷・センター街の街並みは赤や緑のクリスマス・カラーで彩られ、イベントを楽しむ若者達の人並みができていた。そこに現れたのがS54年生まれの関東連合の現役メンバー十数名。ニグロパンチに鉢巻を締め、上半身は裸の上に特攻服を1枚羽織っただけという、いつものいでたちだった。真冬にもかかわらず、足元も雪駄履き。この集団はチームの旗を掲げ、そこにいる人間全てを睨みつけ、威嚇しながらセンター街を練り歩いていた。現役メンバーがセンター街の中央を進むと、クリスマス色に染まった人並みが、まるでモーゼの「十戒」のように割れていく。
「十戒」のように割れた人ごみの先から現れたグループが、関東連合の前に立ちはだかってきた。そのグループには日本人だけではなく、黒人やアジア系の外国人と思しき顔もあった。いわば人種混合のグループで、関東連合とはまた違った意味で「異質」だった。そして彼らに囲まれるようにグループの中央に1人の日本人が立っていた。一目でこの混合グループのリーダーだとわかる雰囲気を発散している。これが杉並区と世田谷区のS53年生まれ以降の関東連合を一挙に束ねることになる「K」だった。実は双方のグループにはそれぞれの思惑があった。関東連合の現役メンバー達は渋谷のセンター街に君臨するKの存在を以前から知っていた。世田谷の関東連合OBで、渋谷のチーマーなどをいくつ者集団を束ねていたKの名前は、当時の東京の不良社会で知らないものはいなかった。Kは世田谷の関東連合のOBである。だが「昔の関東連合は我々とは関係ない」として独自の路線を歩み始めていた現役のメンバー達は、Kとの衝突をかねてから想定していたのだ。ハッキリ言えば、もしKに出くわした場合はKを襲撃する気でいた。
ところがKは意外な態度に出た。「俺はKだ。お前ら気合入ってるな。今度、飯でも一緒に行こう。頑張れよ」 そう言うと、関東連合の現役メンバー達に握手を求めてきたのだ。威勢よく突っかかっていた現役メンバー達も、Kの意外な反応には戸惑ってしまった。「何かあれば言ってこいよ」 Kは携帯番号をメモした紙を現役のメンバーの1人に渡すと近くに止めていたキャデラックのリムジンの後部座席に乗り込んだ。黒人のボディガードが運転席に乗り、Kが乗り込んだ後部座席のドアを閉めたアジア系外国人は、そのまま小走りで助手席に乗り込む。現役メンバー達が呆然と見守る中、Kのキャデラックは悠然と走り去っていった。いつもは「喧嘩は先手必勝、敵を見つけたら有無を言わさず襲う」というおきてを守ってきた現役メンバーたちにとっては、考えられない事態だった。あまりに世界が違っていたからだろう。口には出さなかったが、現役メンバー全員が、まったく異質の世界の住人であるKに歯向かうことの恐ろしさを感じていたのだと思う。その恐怖心は、不満や敵対心などを一瞬で払拭し、そのまま畏敬の念に変わった。
当時のKの本業は、アダルトビデオに出演するAV女優が所属するプロダクションの経営だ。既に数名の有名女優を抱えていたKは、女性の「性」をお金に変える錬金術を知っていた。「オンナ商売-」 Kはそんな言葉を使っていたが、当時のセンター街では「読者モデル」や「芸能人の卵」といった、さまざまな十代の女の子達がKの下に集まるようになっていた。そして、実際に女の子達を集めていたのが、その世代に影響力のある男の読者モデルや、チーマーと呼ばれる街のギャング集団だった。Kは集まった女性たちの中から選りすぐりの美女をピックアップして、大手芸能プロダクションの社長や不動産会社の社長、新興格闘技団体の館長などの接待に使っていた。特にKが好んで接待に使ったのが渋谷駅の今の新南口がある線路沿いにある「F」という倶楽部だった。ジュリアナ東京が閉店した余波もあって、当時の「F」は大人の客達も退去して押し寄せていた。店の前には高級車が並び、有名芸能人やスポーツ選手などが集まる質の高い社交場となっていた。Kはいつもそのクラブの中を、誰もが目を引く綺麗な女性達を何人も連れて颯爽とVIP席に向っていった。そんなKの姿を見て、接待を受ける社長達も十分な優越感を覚えるのだった。この時代の渋谷で若者達を押さえること、それも若くて飛び切り綺麗な女性を押さえているということは、それだけで「力」だった。Kはその力を社長連中に見せ付けることで、自分を夜の街で無視できない存在として築き上げていったのだ。
現役時代との違いは、髪型と服装、族車に乗らなくなったことだけだ。髪形はほとんどの者が坊主かそれに近い短髪で、太一のような長髪にするものは珍しい。もっとも服装については、渋谷に出てくるようになって少しずつ変わっていった。特に用賀喧嘩会などは、もともとがチーマーだったものもいたため不良っぽく見える服装であってもどこと無くお洒落な感じだった。真っ白なスラックスにエナメルの靴などは間違っても身に付けなかった。スウェットにしてもアルマーニなどの高級ブランド品を着ていた。あるストリートファッション・ブランドの展示会には、今でも関東連合のメンバーが大勢で顔を出し、大量の服を注文していく。関東連合が好んで着るブランドは、いつの間にか少しずつワイルドなテイストに変化していった気がする。そのブランドはそのまま街の不良少年達が好んで着るブランドになった。当時で言えば、女優の広末涼子さんと結婚し、後に離婚することになるモデル兼デザイナーの岡沢高宏さんが手掛けていたアパレル・ブランドも、もともと岡沢さんと私たちが親しかったことも会って、私たちの御用達ブランドだった。その後、岡沢さんの金銭問題が原因となってブランド自体は閉鎖されている。
見立君がTを中心に暴力団組織に関東連合のメンバーを集約させたのには、キム弟たちが背景とする暴力団組織に対抗する狙いがあったが、実は暴力団には、矛盾するようだが、暴力に対する制限が多い。組同士が友好な関係であれば、個人的な恨みがあっても喧嘩はできないし、勝手に喧嘩をすれば処分の対象になる。堅気相手にも手は出せないし、そもそも組に関係の無い喧嘩は許されない。勝手な抗争をすれば破門どころかその組自体が親分ごと絶縁されてしまうし、下手をすればトップ(親分)の使用者責任を刑事・民事の両面から追及されかねない時代なのである。
【昔の思い出】
2014.06.04 相場観の無さは、大学時代から既に 1/2 ~あっ、俺には才能が無い!
2013.10.09 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 15/16 ~悲しい女
2012.12.10 ウルフっぽく髪を切ってみました、今時のウルフって
2012.10.02 目が逢う瞬間 近代派歌謡曲の音節と歌詞について
2012.02.10|東電OL殺人事件 2/2 ~容疑者と現場
2011.06.15: 名作ドラマ 高校教師
2010.08.12: アルツと私 ~病魔の果てに辿り着いたところ
2010.02.15: 通信隊 それは陸のOff-Shore
2010.01.06: ミゼラブルキヨシ
2009.10.28: 女の好みも時と共に成長する
2009.04.08: 試験の評価がスペシャリストを殺す
2009.02.13: 女系家族の掟
2009.02.06: 博打における女性誘致
2008.08.07: 子供のための動物園だよね
2008.08.06: 老後もアマくない日本の現実
2008.08.05: 一族の素敵な仲間たち