20万の軍隊を一瞬にして抹殺した項羽
紀元前209年、秦帝国に対して農民が起こした陳勝・呉広の乱は、中国全土を戦乱に巻き込む大反乱に発展していった。項羽は秦の首都・咸陽に向けて進撃し、河北省南部で秦の武将・章かんの率いる20万の軍を破った。劣勢に陥った章かんは、敗北を責められて処罰されることを恐れた。彼は自分が置かれている不利な立場を理解し、項羽に降伏を伝えた。これで項羽は、両軍合わせて数十万の兵を率いることになり、意気は上がるばかりであった。しかし、降伏した秦の兵士の気持ちは揺らいでいた。秦の兵士の間では愚痴をこぼす者も出てきた。「将軍の章かんは、味方の我々を騙して項羽に下ってしまった。函谷関に入って、うまく秦を倒せればいいが、もし失敗した時は、項羽は我々を捕獲して楚に引き上げるだろう。そうなれば秦はきっと我々の父母や妻子を皆殺しにするだろう。」
このような話が項羽の耳に入った。項羽は秦の兵士たちが自分に心服していないと考え、章かんら将軍以外の20万もの兵士を、一晩で根絶やしにすることにした。華北の黄土地帯は水による浸食作用が強く、至るところに深い溝が走っている。小高い崖が数十メートルも続くところも少なくない。項羽はこの地形を利用して、味方をまったく損なうことなく秦の兵士を一瞬の間に処分してしまうことにした。項羽は家臣を呼んで命令を下した。命ぜられた家臣たちは、まず秦の兵士達を行軍で疲れさせておき、崖の近くに野営させた。そして彼らが寝静まったのを確認してから、彼等の天幕の崖のほうに面した入口を空けておき、その他の3方を大群で包囲した。配置が完了すると、大軍は指揮官の号令の下、闇夜の静けさを破る喚声を上げながら包囲の輪を縮めていった。寝込みを襲われた秦の兵士たちは、何が起こったかもわからずパニックに襲われ、武器を取ることも忘れて先を争って逃げ道を捜して走った。彼らは敵兵の居ない方向へ殺到していった。そこには崖が待ち受けていた。一夜明けると崖の下には秦の兵士達の死体が累々と折り重なって、そこは地獄の谷と化していた。こうして項羽は、20万もの軍隊を短時間のうちに労せずして処理してしまったのである。中国人のこのような発想法は、捕虜1000人を処刑したイギリス王ヘンリー5世も真っ青になるような事例が中国にはある。さすが中国と言うべきか・・・。
民族絶滅を狙ったインディオ虐殺
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1492年にコロンブスが西インド諸島を発見して以来、南北アメリカ大陸におけるヨーロッパ人の侵略はとどまるところを知らなかった。特に西インド諸島の先住民には排外思想が無く、戦いを好まず、異民族に対して警戒心をあまり持たなかったから侵略は思いのままであった。とくにスペイン人は、現地の文化を破壊するばかりでなく、先住民を根絶する役割を果たした。こうした野蛮極まりない行為に対して、征服者側からも非難の声が上がったほどであった。
細菌戦のはしり
司祭ラス・カサスは1524~40年でスペイン人は400~500万人の原住民をこのような仕方で殺害したと述べている。コロンブスが15世紀末に新大陸を発見してから、スペイン人が17世紀にメキシコを征服するまで、100万人を楽に越えるほどだったインディオ(中南米の先住民の呼称)の人口は7万人に落ち込んでしまった。インディオの人口が激減したのはヨーロッパ人による征服と虐殺だけが原因ではない。ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘、水痘、はしか、結核、インフルエンザなどの病気に対して、インディオと呼ばれた先住民は何の抵抗力も持ち合わせていなかったためである。先住民達は何が何だかわからないうちに死に絶えていった。原因がわからないのだから憎しみも湧かない。憎しみが無ければ抵抗もできない。南北アメリカ大陸で、インディオやアメリカ・インディアンが少数派になり、ヨーロッパ人が多数派を占めるようになったのも疫病が一役買ったのである。歴史は少し下るが、北アメリカにやってきたイギリス人は、天然痘患者などが使った毛布をインディアンに渡して意図的に疫病に感染させた
インディアンの頭皮に支払われた賞金
ヨーロッパでは、ローマ帝国の時代からキリスト教徒弾圧のために生皮を剥いだり、狩猟民族たちが家畜の皮を剥ぐように敵の生皮を剥いできた。9世紀中頃、イスラム帝国のアッバース朝と争っていた東ローマ帝国の皇帝は、捕らえたイスラム教徒の生皮を剥いで大喜びしていたという記録さえある。インディアンが頭の皮を剥いでいるのを見たヨーロッパ人が「彼らは野蛮だ」と言うのは見当違いも甚だしい。1637年のピークオート族との戦争の時、イギリス人は500人のピークオート族を虐殺した上、ピークオート族の頭皮を持ってきたモヒカン族に報奨金を支払っている。1675~76年のメタカムの戦いでピューリタンたちは、ナラガンセット族を味方につけるため、敵であるワンパノアグ族の頭皮1枚につきコート1枚を支払うと約束している。1704年、マサチューセッツ植民地会議は法令をもって、インディアンの成年男子の頭皮1枚につき100ポンド、女性と10歳以下の子供の頭皮1枚につき10ポンドと定めて、インディアンの頭の皮を剥ぐのを公の政策としたのであった。これでインディアン同士の殺戮を促進させ、ヨーロッパ人に対してもインディアン狩りを推奨したのであった。
残酷度ナンバーワンの中国の「凌遅の刑」
ローマ帝国のディオクレティアヌス帝がキリスト教弾圧のために内臓抜きの刑を行った。これは反逆の罪という最も重い罪に適用されたものであった。ところが中国にはこれを娯楽にしてしまった怪人がいる。明朝末期(17世紀前半)、農民一揆を率いて中国中を荒らしまわり、ついには大西国を建てて自ら帝位に就いた張献忠は、あらん限りの大量処刑、大量虐殺の方法を開発したが、捕らえた役人の腸を引きずり出して喜んでいた。そのやり方はヨーロッパ流とはいささか異なる。死刑囚の肛門から入れた鉤の先に腸を引っ掛け、馬を走らせて引きずり出したと言う。もっともこのやり方は太祖・洸武帝が農民に対して行った残虐行為の受け売りで、張献忠は明朝への報復として行ったのであった。張献忠は貧農の出であったためか儒教もへったくれもなかった。明朝は残忍極まる男によって建てられ、残忍極まる男によってしめくくられたのだ。
大阪は、日本軍の中で最も弱いと言われた部隊が編成されたところである。中国軍にまで一番弱いと聞こえていたくらいで、大阪の部隊が戦場で追い回された話や、指揮官が命じても突撃しなかった話などが伝わってくる。大本営もこの部隊をどう使ったらよいものかと困ったほどである。もともと大阪は豊臣政権が存続していれば首都となるはずの地であったし、反中央の気風が強い風土である。大阪が空襲され焼け野原になると、他の地域などとは比較にならないほどの厭戦気分が広がっていった。いくら戦闘意欲を高揚させようとしてもどうにもならない。老人などはおおっぴらに軍部批判をするほどだった。そこで大阪地区の司令官は業を煮やし、ついに非常の処置を考え付いた。戦力化できない老人や幼児は全員抹殺してしまうことを陸軍大臣に具申したのである。この意見はさすがにさすがに暴論だと退けられたが、本人は本気で考えていたので、2度3度と具申した。ここには、大阪人に対する差別意識が見られる。

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