秀吉は反抗した大名からはその所領の一部または全部を取り上げた。この多くは豊臣の家臣に与えられ、彼らを大名に仕立て上げたが、それもまた豊臣家の財政を豊かにするのに大いに役立った。豊臣家の支出で養わねばならない人数がその都度減ったからだ。しかしこれ以上に豊臣家を豊かにしていたのは、土地=農業から以外の収入である。秀吉は商工業を熱心に確保する傍ら、京、大阪、堺、博多などの商工業都市にかなりの矢銭(軍資金)や冥加金(強制寄附)を課している。都市の商工業者にしても統一政権の確立がもたらした商圏の拡大と治安の安定による利益に比べればこの程度のことは安いものだったに違いない。その上、金鉱・銀山を直轄事業にしたことによる事業収入も大きかった。16世紀後半になると日本にも貨幣経済が生まれつつあったが、その鋳造権は豊臣家が一手に握っていたのだ。だが今、この奉行溜りで長束正家が語る豊臣政権の財政事情はさほど楽なものではなくなっている。秀吉の誇った御金蔵には、なお数十満両の相当の金銀が積まれてはいるが、最近の財政収支は著しい赤字である。太閤一生の愚行、朝鮮出兵のためである。
もう一つ困ったことは通貨体系の混乱だ。銀価の急落と金価の相対上昇である。元来日本は国際価格に比べて銀が安く、金が高かった。このため織田信長の時代までは日本から銀が輸出され金が輸入されていた。ところが1590年頃、メキシコで大銀山が発見され世界の銀価格が暴落する。その結果安価なメキシコ銀が日本にも流入し金が流出し始めた。この時期にヨーロッパ世界を震駭させていた「価格革命」の嵐が日本をも巻き込もうとしていたのだがそこまでは秀吉も奉行たちも知らない。だが銀価の値下がりは銀を基準とした物価の上昇となって現れてくる。これが朝鮮戦役でのモノ不足と相まってインフレを著しくしているのである。秀吉はキリシタンを禁制にしたり金輸出を取り締まったりしたが、金銀比価の安定にはほとんど効果が無かった。ヨーロッパの冒険商人も大阪、堺の豪商たちも金銀交換と言う利益の大きい商売から手を引こうとはしないのである。
朝鮮出兵の失敗が、出兵それ自体に無理があったためか、やり方がまずいせいかなどと言った反省をする余裕もなかった。多少は国際的な知識と感覚を持つようになっていた堺、博多の商人の間でさえ朝鮮のは後に控える明帝国の国土の兵数の莫大さに圧倒され、「日の本の第一の俊鷹・太閤はんも明帝という大鷲に遭うてはどうにもなりまへなんだなあ」と評していたのである。それは恰も太平洋戦争に敗れた直後の日本人が自分たちの相手にした国土の広さと生産力の大きさに気付いて仰天したあまり、戦争遂行上の過失や民族的性格を反省しようとしなかったのに似ている。この時から半世紀ほど後で日本よりはるかに経済力と人的資源の乏しい満州族が秀吉が朝鮮に送ったのとほぼ同数の兵力で全明国を征服するなどとは誰も予想していなかったのだ。
朝鮮に滞陣する5万余りの日本軍を安全かつ早急に撤退させることは太閤の死後の最も重大かつ緊急の課題である。そもそも太閤が、自らの死を深く秘すようにと遺言したのも在鮮将兵の引き上げを容易にする目的でのことである。朝鮮駐留軍の引き上げはいわば太閤の残した残債務整理である。太閤の死が知れ渡れば在鮮将兵が動揺し混乱する恐れもあるし、朝鮮・明国側から襲撃される危険もある。さりとて、5万の大群の撤兵は内密裡にできることでもない。全部隊を安全に帰国させるためには一挙に大軍を運ばねばならないから、大量の船舶を動員する必要がある。帰国将兵をそれぞれの領国に戻すまでの兵糧と輸送手段も確保せねばならない。その間武将たちが反目抗争することのないよう秩序を保つことも重要である。そしてこれらのことを行うためには、撤兵命令を権威づける正当な手続きが大事である。
徳川家康とその某臣たちが画策する「天下盗り」の計画では今の段階で最も重要なことは、豊臣家臣団を分裂させ、その一方を自陣営に取り込むことである。そして加藤清正こそその「鍵を握る人物」だと家康はみているのである。加藤清正が石田三成ら奉行衆に対して強い反感を持っていることは天下周知の事実だ。五大老・五奉行による合議制と言う太閤なきあとの豊臣政権の体勢を崩し、徳川専制を樹立しようとする家康にとって、これは見逃しえない好材料である。しかも清正の豊臣家に対する忠実さも良く知られている。この大男は太閤子飼いであるばかりでなく、太閤のまたいとこという縁者でさえある。その加藤清正が徳川に加担すれば徳川への協力と豊臣への忠誠とが両立すると考える者が激増するだろう。
二つの訴訟が用意されつつある。一つは、加藤清正ら七将の、石田三成、小西行長らに対する告訴であり、もう一つは小西、寺沢から出る加藤、黒田ら4人を被告とした訴えである。このことは太閤恩顧の大名群が二つに大分裂したことを意味している。そしてそれは徳川家康の大きな外交的勝利でもあった。この時期まで日本最大最強の政治・軍事勢力であった豊臣家臣団は、その基礎構造において地割れしたのである。しかもその一方は、第二勢力の徳川の集中に収まった。これに乗って、他の一つ「豊臣残党」ともいうべき石田、小西らの奉行派を打破すれば天下は徳川の集中に転がりこむ。

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堺屋 太一

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