IMF体制は金ドル本位制とも呼ばれる。世界の金準備の大半が米国によって保有され、米国のみが通貨と金との兌換を認めていたために、1トロイオンス=35ドルとなったのである。世界各国がこの体制の下で目指した目的は、為替の安定であり、国際決済システムの再建であり、また国への融資制度の確立であった。為替レートの設定方法は、ドルに対して各国がそれぞれ平価を決定することになった。日々の為替レート変動幅は平価の上下1%以内と規定され、事実上の固定相場がしかれたのである。日本は固定相場制の下で1ドル=360円という相場が長く続いたがそれは1949年に設定されたものであり、この固定レートも各国のファンダメンタルズが不均衡となった場合には切り下げ調整が可能とされたがその定義は不明確であった。1949年には衰退の一途を辿る英国がポンド切下げに追い込まれている。だが1960年代になり米国経済に矛盾が露呈し始めると、米国が金1トロイオンス=35ドルの平価を保つ力を維持できるのかどうか国際経済は不安に感じ始める。そしてその不安は1971年のニクソン大統領による金兌換の停止宣言によって現実のものとなったのである。
米国の金保有高が減少しても対外債務がそれに見合う水準であれば海外勢はドルの金への交換価値を確認することができる。だが現実には米国の対外流動性は大幅に金準備を超えていた。つまり米国の国際収支赤字こそが国際流動性の供給源となっている限り、そのシステムの下ではいずれは米国の対外債務が金準備を凌駕するというブレトンウッズ体制の脆弱性が浮き彫りにされたのであった。こうした弱点を補強するために編み出されたのが金プール制や金の二重価格制度、そしてSDR(Special Drawing Right特別引出権)で、金プール制は1961年に欧米7カ国が金を拠出して「金の市場介入」を行って金価格の高騰を押さえ込もうとした制度である。だがフランスの脱退や英国ポンドの更なる切り下げによって金上昇には抑えが効かなくなった。介入の限界である。そこで1968年には通貨当局での金・ドル平価と、民間が自由市場で売買する金・ドルレートを分離する金の二重価格制度を採用することとなった。SDRは1969年にIMFに導入された制度であり、ドルを保管する準備通貨としての位置を与えられた。各国のIMFの出資額に応じて配分され、現在に至るまで準備資産ではあるがそれが国際金融の舞台で大活躍したとはいいがたい。1971年8月15日に米国ニクソン大統領はドルの金兌換停止を発表する。このニクソン・ショックでドルは金から解放されたことを意味する。これは今日に至るまで継続する変動相場制度への幕開けでもあった。
双子の赤字構造はドルの下落圧力として解釈されることが多く、外国為替市場では定期的にドル暴落説が唱えられる。実際には1985年のプラザ合意により主要国の合意の下での不均衡是正の措置としてドルの大幅な切り下げが変動相場制の下で行われた。だが為替市場においてはそうした意見とは反対にドルは安定推移するあるいは反転すると考える意見も少なくない。欧州やアジア、中近東の諸国にとっても1980年代以降の米国が魅力ある投資対象となった事実は過小評価すべきではない。経常赤字、貿易赤字を抱える米国に対する不信感よりもそうした赤字を抱えながらも高い成長を続ける米国経済を信任する考え方には根強いものがあった。米国経済への信任とは1970~80年年代のインフレを克服し、企業の生産性を高め、また資本市場の効率化を図ってきた米国の努力を素直に評価したものである。また節度ある金融政策を徹底して追及し実践してきたFRBのボルカー、グリーンスパン両議長への厚い信頼感も大きく寄与しているということもできるだろう。それが理屈から見ればいかにも暴落しそうなドルが今日まで何とか支えられていることの理由でもある。
デリバティブズは金融派生商品と呼ばれる商品群である。だが、実務的に見ればそれを「商品」と呼ぶのは正しくない。先物やスワップ、オプション、そしてそれらをたように組み合わせた複合的な金融ツールは、商品ではなく「金融技術」として理解する必要がある
1980年代のレーガン政権は「強いドル」と米国の復活を唱えた。さらに金融技術をバックとした強烈の資本市場の構築で、米国は海外資本の取り込みを始めた。その結果として、一時は衰えかけた金融力をみごとに復活させたのである。その背景には先物、スワップ、オプションといった先端技術を駆使して資本市場を整備した先見の明がある。デリバティブズは、米国復活の大きな鍵を握っていたのである。だがその無理なドル高政策は、1985年9月22日のプラザ合意によって修正を余儀なくされた。当時円は対ドルで240円近辺であったが、同年末には200円を割り込むほどの急激な為替調整が起こったのである。にもかかわらず世界各国による対米投資は継続されたのである。その背景には米ドルおよび米ドル建て資本市場でも運用メニューやヘッジ機能の豊富さ、つまり米国の金融力への高い評価があったことも忘れてはならないだろう。デリバティブズの開発・普及は米国への資金流入が止まらぬような機能を果たしただけでなく、米国以外の資金調達者が世界の市場でドル建ての資本を調達することを促した
従来ユーロ債券市場はその起源からもわかる通りユーロドル建ての取引が大半を占め、残りをドイツ・マルク、円、スイス・フラン、ECUなどがシェアを分け合っていた。しかし1999年の新通貨導入以降、ユーロ建ての債券発行が急増し、2002年にはドルガ9850億ドル、ユーロが8063億ドルと拮抗する至り、2003年には逆転、2004年にはその差を広げつつある。欧州市場だからユーロ建てが増えるのは当然と考えるのはやや短絡的ではないだろうか。アジアでの円建て資本取引がそれほど活況ではないことをみれば、通貨選択は地域における突出した経済力によるものではないことが伺えよう。経済と金融との間には深い関係があるが決して同義ではないのである。
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