ユーゴスラヴィア
世界最新の国コソボやモンテネグロが生まれた国家の原型であり、
Tactics Ogreの背景であり、ミルコ・クロコップの生まれたところでもあります。
これは調べなければ、ということで読んでみました。

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書) ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)
柴 宜弘

岩波書店 1996-05
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ユーゴスラヴィアは二度生まれ、二度死んだ
1918年 王国として建国
1941年 ドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻にあい、分割・占領されて消滅した。
1945年 社会主義に基づく連邦国家として再建
1991年 スロヴェニア・クロアチア両共和国議会が独立宣言を採択
1992年 ECなど、50カ国が2国を承認し、解体。
ユーゴ建国以前のユーゴ
ユーゴスラヴィアとはそもそも南スラブを意味する。
南スラブ諸国は、ハプスブルグ帝国(現ドイツみたいなもの)とオスマン帝国の支配下に置かれていたが
一定の自治が認められ、多様な民族、言語、宗教、文化が共存していた。
19世紀初頭のナポレオン戦争によって、ヨーロッパは民族の一体感に基づくナショナリズムの時代を
迎えることになり、南スラブ諸族も個別の民族意識を強めていった。
民族意識の芽生え
1830年 独立ではなく自治の獲得で、セルビア公国が誕生したが、その政治目的は公国外の全ての
セルビア人を公国に統一するという大セルビア主義に基づいていた。
モンテネグロは、さらに時代をさかのぼり、14世紀中世セルビア王国時代から分裂が始まっていた。
山深い地形で、攻めにくく、山奥で小さく独立を維持してきた。
マケドニア、山に囲まれ、肥沃な大地と豊富な鉱物資源を有し、多くの民族が去来していた。
隣接するブルガリアとセルビアと同じスラヴ語を話しながら。トルコ・ギリシャ・アルバニア人が存在し
オスマン帝国のもとに深く組み込まれていた。民族意識の覚醒が最も遅れた地域でもあった。
クロアチア、起源は6-7世紀。ビザンツ帝国とフランク王国の対抗関係を利用し、10世紀始めに
トミスラヴがこの地域を統一した。12世紀以降、ハンガリー、ハプスブルグ帝国の支配を受けて
いる最中、オスマン帝国統治を嫌うセルビア人が、この地域に入植。これが「セルビア人」問題の根源である。
中世クロアチア王国のように、スラヴォニア・ダルマチアの3つを統合することが近代クロアチア人の夢であった。
スロヴェニア人は、歴史上自らの国家を持つことができなかった。8世紀のフランク王国支配の時代から
続いていたカトリック布教活動の影響で、10世紀神聖ローマ帝国の形成後もカトリック聖職者の啓蒙活動
により民族性を保持できた。
ボスニアは、セルビアとクロアチアに挟まれ、言語を同じくしながらも、いずれとも異なるボスニア人と
してのはっきりとした意識を持たない人が存在していた。
東方世界と西方世界のはざまの地域にあたり、ムスリム、正教徒、カトリック、ユダヤ教徒が混在し、
宗教の違いは別として、ここに住む人たちがボスニアという領域に対しての帰属意識を持っていた。
サラエヴォ事件 
舞台はユーゴのボスニア。フランツ・フェルディナント大公夫妻暗殺事件。
暗殺犯プリンツィプは、ハプスブルグ帝国からのボスニア・ヘルツェゴヴィナの解放と統一を目指す
英雄と捉える見方もあったようだ。
たしか第一次世界大戦のきっかけと教科書に書いてあった。
歴史的に長い間強大勢力の狭間にあったユーゴで起こることは、世界的な影響力を持っていたんだなと実感。
深いわ~ユーゴ。