好古がとっている戦法は、「拠点式陣地」という特殊なものであった。騎兵本来の特質から言えば急襲と奇襲あるいは挺進という機動戦法こそとらるべきであったが、かれが総司令部から命ぜられている任務は全軍の左翼を警戒し防衛するといういわば非騎兵的任務であった。それが、あるいは兵力僅少な日本騎兵として当然の在り方であったかもしれないが、その警戒と防衛という任務にしても、わずか8,000で40キロの広正面を守るということは半ば不可能に近い。このため、かれは、「拠点式陣地」という方法を取った。4大拠点それぞれに枝が出ていて小拠点が多数ある。いずれも部落の周りに散兵壕をほり、前面に障碍物を設け、土壁には銃眼を穿って堅固に城郭化し、それをもって小兵力で敵の大軍と対決しようというものであった。(敵が3万やってきてもなんとかやれる)という自信が好古にあった。しかしながら現実にやってきた敵は10万以上であった。
日本人には、元来防御の思想と技術が乏しい。日本戦史はほんの数例をのぞいては、進撃作戦の歴史であった。防衛戦における成功の最大の例として、戦国末期、織田信長の軍団を数年にわたってささえつづけた石山本願寺(いまの大阪城付近)のそれが存在する。本願寺は戦闘では最後まで戦闘力を失わずに戦勢をもちこたえたが、結局は外界の外交事情が不利になり、和睦した。このいわゆる石山合戦の場合でも、防御戦のための工学的な配慮や物理力が存在したわけではなく、物理力と言えば「堀一重、堀ひとめぐり」というかぼそいものであった。この合戦の本願寺側の防御力をささえたものは、門徒たちの信仰の力しかない。この点、徳川初期の島原の乱におけるキリシタン一揆も同じ事情である。日本人のものの考え方は、大陸内での国家でなかったせいか、物理的な力で防御力を構築してゆくというところに乏しく、その唯一の例は秀吉の大阪城ぐらいのものかもしれない。秀吉はかつて自分が属した織田軍団が、あれほど石山本願寺の防御力にてこずったことを思い、同じ石山の地に大阪城という一大要塞を構築したが、その規模の大きさは城内に10万以上の兵士を収容できるもので、それ以前の日本史ではとびぬけたものであった。しかし結局は大坂夏の陣において、家康の野戦軍のために陥ちた。物理的な構造物が存在しても、防御戦という極めて心理的な諸条件を必要とする至難な戦いをするには、民族的性格がそれに向いていないからであろう。