英語のどの受験参考書にも例文として載っているように、”The proof of the pudding is in the eating” すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明はお金と交換にしかえられない。たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの中のプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これはいずれも広い意味でプディングの「広告」にほかならない。すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との際について広告しているように見える。だが、人が例えばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいはある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社の寄りも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に「広告の巨大なる集合」のなかにおける広告それ自体の間の差異を問題にしているのである。広告と広告との間の差異-それは、広告が本来媒介すべき商品と商品の間の際に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動によって立つ基盤なのである。