男系男子による皇位継承問題は、過去に小泉純一郎内閣において皇室典範改正の動きがあり、男女に関わらず出生順位により皇位継承者を決め、結果として女系天皇の存在を容認する可能性が高まった。多くの国民も時代の女帝として推定される敬宮愛子内親王への共感から、こうした典範改正を期待した。しかし、一方には男系男子へのこだわりがあり、神武天皇以外の男系子孫であることが行為の証であるとして譲歩することがなかった。その後も典範改正の動きは秘密裏に進んでいると聞くが、その改正案の一つは、女系を排除するために、天皇家の男系を保持しているとされる旧皇族を復活させようとするものであるとも言われる。こうした旧皇族復活論には反対意見も多く、その理由の
第一は、男系と言っても遠い室町時代までも遡るためである。明治期に皇族として存在してはいたがその多くは政治的理由によるものであり、現在の皇室とは血統上はかけ離れすぎた存在で、かつその数の多さに減らしていくことが当時からの課題であったからである。
第二は、旧皇族家には皇籍離脱以来、現皇室に対する少なからぬ複雑な感情があり、そのことは皇后美智子以後の民間出身皇族妃の出現で増幅され、男系問題にかこつけて現皇室の皇統を変えようという意図が見え隠れするからである。
第三は実際に旧皇族家を復活するにしてもどの家が該当するかは難しい。
第四に旧皇族を復活してもそこに男子が生まれなければ意味がないことである。現皇室は秋篠宮家はじめ常陸、秩父、高松、寛仁親王、桂、高円の八宮家がある。しかし、平成18年2006年悠仁親王が誕生するまで男子は生まれなかったのである。
変遷する皇族の定義
古代から現代までの皇族の定義や範囲の法的な変遷を考えると、大宝元年(701年)の大宝令の継嗣令、明治22年の旧典範、昭和22年の新典範が大きな基準となっていたと言える。継嗣令以前は、皇族の呼称やこれを明確に定義する法令はなく、「天皇の後胤」という漠然とした範囲で把握されていたと考えられる。皇族を示す呼称も何世までを皇族とするかの明確な規定もなかったのである。継嗣令により「およそ天皇の兄弟、皇子は、みな親王となす。女帝の子もまた同じ。それ以外はいずれも諸王となす。新王より5世は、王の名を得ても皇親ではない」とはじめて皇族の概念が定められ、皇族は皇親と称されたのであった。
明治維新を迎えると、慶応4年(1868年)に、継嗣令に基づき、改めて皇兄弟と皇子を親王、それ以外を諸王とし、5世王は王名を称するが皇族の範囲に入らないと定め、大宝令制定以後、長年にわたり混乱してきた皇族の定義を再調整したのであった。そして明治22年の旧典範制定で近代法治国家に適合した近代皇族が誕生するのであるが幕末維新期における親王らの功績もあって四親王家や還俗した皇族などに設けた制限や特例が、かならずしも旧典範の条文と一致せず、いくつかの矛盾と問題を残すこととなった。その典型的な例が、旧典範にある「五世」の概念の問題である。旧典範は「五世」までを親王・内親王、「五世以下」を王、女王としたのであるが、この「五世」とは実系であり、法規上は明治天皇あるいはその先代である孝明天皇(121代)、仁孝天皇(120代)の実系でなければならなくなる。