サレーニオとサリーリオ、あるいはサリーリオとサレーニオ-お互いに取替え可能な名前を持ち、お互いに取り替え可能しか台詞しか述べることの無いこの二人の友人は、まさにその取り替え可能なことゆえに、アントーニオの友人の中で最も取るに足りない人物であることを象徴している。そして、実は、この取るに足りない二人の男たちの取るに足りない台詞によって、『ヴェニスの商人』のテキストはそれ自身をめぐってその後なされた数限りない批評の取るに足りなさを先取りしているのである。たとえば、アントーニオの憂鬱とは一体どのような内面における原因に基づくものであるかを検索したり、かれと対立するユダヤ人シャイロックの性格が滑稽な悪役として描かれているのかそれとも悲劇の主人公として描かれているのかを決定しようとしたり、『ヴェニスの商人』という劇において作者シェイクスピアは一体何を言わんとしたのかを吟味すると言った類の批評を。
利潤とは、詐欺、ペテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換が行われているところでしか生み出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からは決して生み出されないものなのであろうか?この問いに対する答えは、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとづきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。二つの異なった価値体系の狭間-それが、そのような場所、いや非場所である。すなわち、お互いに異なった二つの価値体系の間を媒介して、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る-それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方式である。利潤とは、価値体系と価値体系の間にある差異から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。