彼が大蔵省銀行局長時代はサラ金地獄が社会問題化していた。サラ金など百害あって一利なしとたたかれた時代に、サラ金を消費者金融に脱皮させ、存続させることを説いて回ったのが徳田である。サラ金規正法と呼ばれる貸金業規正法が成立したのは彼が退官後の昭和58年だが、その路線を敷いたのは徳田だといわれる。彼は昭和61年4月から金融制度調査会の委員になる。前後して59年からは同調査会のサラ金業界などをあつかう消費者信用専門委員会の委員長を務めた。同委員会が昭和62年7月に発表した報告には「与信業者が株式上場を行い、良質な資金調達をはかっていくことも今後の方向」とうたった。サラ金は利息制限法の上限金利を上回る金利で貸付を行っている。しかし、同委員会の提言を持った「報告」は、株式公開の前提として利息制限法の遵守を位置づけていない。サラ金大手は、サラ金地獄のイメージを払拭すると共に、有利な資金調達を狙って昭和50年代後半から株式上場を企図していた。各社はサラ金地獄を背景に大手銀行がサラ金への融資を引き上げた苦い経験を持つ。だから、直接資金調達のできる株式公開を目指し、平成5年のプロミス、三洋信販、アコムを皮切りに店頭公開、上場にこぎつけた。